47:森の変人
夜明け前、僕はまだ眠りの中にある街クレギオンを後にする。街から森へと伸びる荒い石畳に、僕の足音だけが吸い込まれていく。多くの人々が発する思惑や感情が混じり合う、あの独特の不協和音。その音から解放され、森に近づくにつれて、僕の心は不思議と穏やかになっていった。
肩の上のコダマも、どこか心地よさそうにしている。
目の前に広がるのは、『魔獣の森』の浅層だ。決して安全な場所ではない。弱肉強食の厳しい掟が存在し、時折、飢えた魔獣も姿を現す。けれど、そこに満ちる生命のざわめきは、僕にとって嘘偽りのない純粋な「音」だった。
鳥のさえずり、木々の葉が風に揺れる音、遠くで聞こえる獣の鳴き声。それらが混じり合って生まれる自然のハーモニーは、僕の耳にはむしろ心地よく響く。嘆きの荒野でそうだったように、僕はこの静寂と調和の中にいる方が、ずっと自分らしくいられる気がした。
噂だけが頼りの道を進む。既に石畳は消えて獣道と大差ない道となっている。僕は立ち止まり、目を閉じて、森を抜けてくる『風の声』に耳を澄ませた。
《…走る四つ足…すぐ後ろの風切音…》
《小さい鳥たち…大きい鳥…大合唱…》
森の中らしい風の声がいくつか聞こえたがそれではない。もっと人の匂いがする風の声が無いかと僕は耳を合わせ続けた。
《…木が割れる音…石を擦る鉄の音…おいしい匂いの煙…無口な人間…》
みつけたのは、自然のものではない、人の営みが発する、小さな異質感。僕はその声が導く方へと、慎重に足を進めた。
しばらく歩くと、森の木々に溶け込むようにして、一軒の古びた小屋が姿を現した。まるで、森の一部として長い年月を経てきたかのような佇まいだ。石造りの煙突から、か細い煙が立ち上っているのが見え、主の存在を知らせていた。
(…いる)
緊張に、心臓が大きく脈打つ。僕は一度、深く息を吸い込み、覚悟を決めてその粗末な木の扉を叩いた。
コン、コン、コン。
乾いた音が、森の静寂に吸い込まれていく。しばらくの沈黙の後、軋むような音を立てて、扉がゆっくりと開いた。
中から現れたのは、一人の老狩人だった。その男の射抜くような鋭い眼光に、僕は息を呑んだ。これまでに会ったどんな狩人とも違う。その瞳の奥には、数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、冷たく、そして重い光が宿っていた。
「…何の用だ」
低く、しゃがれた声だった。僕はその圧倒的な存在感に気圧されそうになりながらも、必死に言葉を紡いだ。
「あ、あの! スカウトの技術を、教えていただきたくて、ここへ来ました! 弟子に、してください!」
僕の言葉を聞き終えるか終えないかのうちに、老狩人は鼻で笑った。
「帰れ」
その一言は、あまりにも冷たく、短かった。
「俺は死にたりのガキの面倒を見る趣味はない」
それだけを吐き捨てると、老狩人は僕の目の前で、容赦なく扉を閉ざした。ガチャン、という無慈悲な音が響き渡り、再び森は静寂に包まれた。
僕は、閉ざされた扉の前で、しばらく呆然と立ち尽くしていた。あまりにも完璧な拒絶。けれど、不思議と僕の心は折れていなかった。むしろ、あの老狩人が持つ本物の強者の空気に触れて、僕の決意はより一層、固まっていた。
(言葉で頼んでも、無駄みたいだ。…なら、見せるしかない)
僕はそう呟くと、踵を返した。まずは、この森で夜を越すための場所を探さなければ。僕は小屋に背を向け、森のさらに内側へと少しだけ足を踏み入れた。ただ闇雲に歩くのではない。耳を澄ませ、目を見開き、この森が発する情報を一つ残らず拾い上げる。
…聞こえる。そう遠くない場所から、岩に染み込み、土に濾された、清らかな水の音がする。小川だ。水源の確保は最優先事項。僕はその音の方へ向かって歩き出した。
小川沿いをゆっくりと進みながら、僕は野営に適した場所を探す。ただ眠れればいいわけじゃない。第一に、老狩人の小屋から直接は見えないこと。第二に、獣道から外れ、いざという時に逃げ道が確保できること。そして第三に、僕の存在を悟られないこと。
(ま…すぐにみつかるだろうけど、あからさまに目立つのはあの人の気分を害しそうだからね)
しばらく歩くと、ちょうどいい場所を見つけた。数人が入れるくらいの、緩やかなくぼ地。背後には苔むした大きな岩があり、雨風を凌ぐのに役立ちそうだ。そして何より、小屋との位置関係が絶妙だった。
「…なあ、コダマ。ここがいいと思わないか?」
僕は肩の上の相棒に話しかける。
「小川がすぐそばだし、この岩陰なら小屋からは見えない。風向きも…うん、こっちから小屋の方へは流れていない。僕たちの匂いが届く心配もないはずだ」
コダマはすでに近くの岩に座ってくつろいでいる。気に入ったみたいだ。
この森で生き抜くという自らの行動で、「死にたがりのガキ」じゃないと認めさせる。街の不協和音よりも心地よいこの森でなら、きっとやれるはずだ。
僕の、覚悟に満ちたサバイバル生活が、今まさに始まろうとしていた。




