45:斥候という道
翌朝、僕は宿のベッドの上で、差し込む光の眩しさに目を覚ました。軋む体をゆっくりと起こし、昨日キバイノシシにつけられた太ももの傷を確認する。宿の主人に分けてもらった薬草のおかげか、熱は引いていたが、牙が食い込んだ跡は痛々しく、僕の未熟さを物語っていた。
窓辺では、コダマが朝日を浴びて、気持ちよさそうにじっとしている。
「…さて、と。これからどうするかな」
僕はコダマに話しかける。答えが返ってこないのは分かっている。けれど、誰かに話しかけずにはいられなかった。
「昨日のあれは、正直、かなり危なかった。僕のやり方は、ここでは通用しないみたいだ」
嘆きの荒野で得た自信は、脆くも崩れ去った。でも、不思議と心は折れていなかった。悔しさと、自分の無力さに対する苛立ちはあったけれど、それ以上に強い気持ちが僕の中にはあった。
(見つけないと。僕が、あの森を越えるために、何をすべきか)
僕はもう一度、冒険者ギルドへと向かった。依頼を受けるためじゃない。観察し、学ぶためだ。僕は酒場の隅の席に座り、一杯の水を頼むと、ただひたすらに狩人たちの会話に耳を澄ませた。
聞こえてくるのは、屈強な戦士たちが大剣を振るって魔獣を討伐したという、自慢話のような武勇伝ばかりだった。彼らの話に出てくる魔獣は、僕が昨日戦ったキバイノシシの幼体など、比べ物にならないほど強大だ。
(僕には無理だ。あんな風に、正面から力で戦うなんて)
それは、体格だけの問題じゃない。僕の持つ能力は、そういう戦い方には向いていなかった。
諦めて席を立とうとした、その時だった。隣のテーブルに座っていた、一際大きな体をした狩人たちの会話が、僕の耳に飛び込んできた。
「…いやー、昨日の大蜘蛛はヤバかったな。あのまま突っ込んでたら、何人か死んでたぞ」
「まったくだ。あの罠を見抜いた、新入りの手柄だな」
「へっ、あいつは戦いじゃ役立たずだが、ああいう仕事だけは一人前だからな。斥候としては、まあまあ使える」
スカウト…?
僕は身を乗り出すようにして、彼らの会話にさらに集中する。
「あいつが森の奥の地形を読んで、安全な道を見つけてくれなきゃ、そもそも大蜘蛛の巣にたどり着けなかったしな」
「違いない。俺たちみたいな脳筋だけじゃ、ただの猪しか狩れんさ」
彼らは豪快に笑い合った。僕は、その言葉の中に、自分が進むべき道のかすかな光を見た気がした。
スカウト。
その言葉は知っていた。正面から戦うのではなく、罠を仕掛け、敵の意表を突き、地形を利用して戦う専門家。それは、僕が嘆きの荒野で生き抜くために使ってきた知恵と、とてもよく似ていた。
(これだ…)
僕の能力を最大限に活かせる道。それは、大剣を振るう戦士ではなく、森の声を聴き、道を切り開く、スカウトとしての戦い方なんだ。
僕は、自分のやるべきことを見つけ、静かに席を立った。
ざわめく酒場を抜け、まっすぐにギルドの受付カウンターへ向かう。さっきまでの迷いは、もうどこにもない。足取りは軽く、確かな目標に向かって進んでいる感覚があった。
カウンターにいたのは、昨日と同じ、少し気だるげな表情をした女性職員だった。僕がカウンターの前に立つと、彼女は面倒くさそうに顔を上げた。
「依頼ならあっちの掲示板よ。あんたみたいな新米にできるのは、薬草摘みくらいでしょうけど」
「いえ、依頼じゃありません。少し、お聞きしたいことがあって」
僕はまっすぐに彼女の目を見て言った。その真剣な眼差しに、彼女は少しだけ意外そうな顔をする。
「斥候…スカウトになるには、どうすればいいんですか? 何か、専門の訓練や資格が必要なんでしょうか?」
僕の言葉に、彼女は数秒間、ぽかんとした顔をした後、小さくため息をついた。
「…あんた、物好きね。わざわざ好き好んで、稼ぎの悪い斥候になろうなんて」
そう言いながらも、彼女はカウンターの下から一冊の、革の表紙が擦り切れた分厚い本を取り出した。
「ギルドの正式な斥候になるには、試験があるわ。でも、いきなり受けてもまず通らない。まずはこれを読んで、基礎を学びなさい。『斥候の手引き、森を歩く者の心得』。ギルドの図書室で閲覧できるけど、書き写すなら銀貨一枚よ」
差し出された本は、使い古されてはいたが、多くの斥候たちの知識が詰まっているであろう重みがあった。
「借ります。…いえ、書き写させてください」
僕は懐から銀貨を一枚取り出し、カウンターに置いた。彼女はそれを受け取ると、無言で本を僕の方へ滑らせる。
「ありがとうございます」
僕はその本をしっかりと胸に抱えた。ずっしりとした重さが、これからの僕の進むべき道の重さのように感じられた。
(まずは、ここからだ)
僕は新たな武器を手に入れたような高揚感を覚えながら、ギルドの図書館でその本を書き写した。
厚い本ではなかったが、書き写し終わった時には暗くなっていた。疲れた腕を揺らしながら歩く街の喧騒が、今は心地よい応援歌のように聞こえていた。
宿に戻った僕は、書き写した『斥候の手引き』を読み始めた。そこには、森の歩き方、罠の見つけ方、魔獣の足跡の読み方など、僕が今まで経験と勘だけで行ってきたことの理論が、体系的に記されていた。夢中になってページをめくり、知識を頭に叩き込んでいく。
しかし、読み進めるうちに、僕はひとつの壁に突き当たった。
(…理屈はわかる。でも、これを実践でどう使うんだ?)
本に書かれているのは、あくまで基礎の知識。実際の森は、もっと複雑で、危険に満ちているはずだ。キバイノシシとの戦いが、それを教えてくれた。本物の技術は、経験豊富な者から直接学ぶのが一番の近道だろう。
(よし、もう一度ギルドに行ってみよう。今度は、実際にスカウトとして活動している人を探して、話を聞くんだ)
決意を固めた僕は、手引きの羊皮紙を丸めて鞄にしまい、再びギルドへと足を運んだ。
昼時を過ぎた酒場は、朝よりもさらに多くの冒険者でごった返していた。僕はその中から、斥候らしい人物を探す。大剣や重鎧を身につけた戦士ではない。身軽な革鎧をまとい、腰には投げナイフや細身の剣、背には短い弓を背負っているような、俊敏そうな人たち。
何人か、それらしい冒険者を見つけた。僕は意を決して、その中でも一際、老練な雰囲気を漂わせる男に声をかけた。熊の毛皮をまとい、顔には深い傷跡が刻まれている。腰のポーチからは、様々な種類の薬草や小瓶が覗いていた。
「あの、すみません。少しお話を伺ってもいいですか?」
男は僕をちらりと見ると、面倒くさそうに眉をひそめた。
「…なんだ、坊主。俺は今、飲んでるんだが」
「斥候の方、ですよね? 僕、斥候になりたいんです。どうか、森での立ち回り方や、技術について教えていただけませんか?」
僕は頭を下げて、必死に頼み込んだ。しかし、男から返ってきたのは、想像以上に冷たい言葉だった。
「はっ、教えてくれ、だと? 小僧、世の中そんなに甘くねえぞ」
男は鼻で笑うと、ジョッキに残っていたエールを呷った。
「俺たちが命懸けで身につけた技術を、タダで教えてもらえるとでも思ったか? 技術ってのはな、金で買うもんだ。お前さんに払えるのか? 銀貨…いや、金貨50枚だ。それが俺の授業料だ」
金貨50枚。それは、僕が持っている全財産をかき集めても、到底届かない金額だった。
「そ、そんな…」
「払えねえなら、さっさと失せな。俺たちの邪魔をするんじゃねえ」
男は僕を追い払うように、手をしっしと振る。僕は他の斥候たちにも声をかけてみたが、反応は同じだった。ある者は無言で首を振り、ある者は僕を小馬鹿にしたように笑うだけ。彼らにとって、自分の技術は生活の糧であり、命を守るための切り札だ。それを、どこの馬の骨とも知れない若者に、安々と教えるわけがなかった。
僕は、打ちのめされてギルドを後にした。高揚していた気持ちは、冷水を浴びせられたように一気に冷え切っていた。
(そうか…これが、現実か)
嘆きの荒野では、誰かに何かを教わるなんて考えたこともなかった。すべて自分で考え、試行錯誤して生き抜いてきた。でも、ここは違う。技術には価値があり、それを得るためには相応の対価が必要なんだ。
僕は、自分の甘さを痛感していた。




