44:クレギオン
風が、頬を撫でた。
眼前に広がる穏やかな草原を、僕たちはゆっくりと歩いていた。
乾いた砂と黒い岩ばかり見ていた目には、どこまでも続く草の緑が目に優しかった。時折、小さな白い花が風に揺れている。
僕は、久しぶりに地面に大の字になって寝転んでみた。背中に感じる土の柔らかさと、草いきれの匂い。空を見上げれば、白い雲がゆっくりと流れていく。嘆きの荒野では、空を見上げることすら忘れていた気がする。
嘆きの荒野を乗り越えた安堵感と、誰もが不可能だと言った場所を踏破したという達成感が、僕の体を満たしていた。少しばかりの優越感がなかったと言えば、嘘になるだろう。
ふと、隣で小さな気配がした。僕の肩から降りたコダマが、一本の草の葉を、その小さな石の手でつんつんと突いている。
「どうしたんだ、コダマ。石以外に興味を持つなんて、珍しいじゃないか」
僕は笑いながら、近くに咲いていた小さな黄色い花を摘み、コダマの頭にそっと乗せてやった。コダマは迷惑そうに少しだけ身じろぎしたが、花を振り落とそうとはしなかった。石の体にちょこんと乗った黄色い花は、なんだかとても間抜けで、僕は思わず声に出して笑ってしまった。
やがて僕たちは整備された街道へと合流し、北へと進路を取った。次の目的地である魔獣の森を目指すためだ。
街道を歩いていると、『風の声』が様々な情報を運んでくるようになった。
《…煙突から温かい煙…美味しい匂い…高い声と低い声…くすぐったい…》
風が運んできたのは、温かい家族の気配だった。僕はその声の印象に、アルメの日々を少しだけ思い出した。かと思えば、次はもっとざらついた声が届く。
《…汗の匂い…鉄の匂い…ギラギラした気持ち…硬いものがぶつかる音…火花…》
風の声には屈強な男たちの、荒々しい声の響きもかすかに混じっていた。風が運んできた声の質は、アルメのそれとは明らかに違っていた。
やがて、その声が満ちる場所、狩人たちの集う辺境の街『クレギオン』にたどり着く。アルメの白い壁とは対照的に、クレギオンは巨大な獣の骨や黒い木材で組まれた、無骨で力強い街だった。街の入り口にかけられた門は、まるで巨大な獣の顎の骨のようで、僕たちを飲み込もうとしているかのようだった。道行く人々も屈強な者が多く、誰もが腰に武器を下げている。
僕の耳だけに聞こえる不協和音を感じ、軽い耳鳴りを感じた。
少しばかりの気後れを感じながらも、荒野を乗り越えた自信を胸に、コダマと共にその門をくぐった。ここから、僕の新しい旅が始まるんだ。
僕はまず、情報収集のために冒険者ギルドへと向かった。ギルドの中は、獣の脂と酒と汗の匂いが混じり合った、むっとするような熱気に満ちていた。壁には巨大な魔獣の頭蓋骨が飾られ、そこにいる誰もが、僕がこれまで出会ったことのないような屈強な肉体をしている。
僕は受付カウンターにいる、熊のような大男に声をかけた。
「『魔獣の森』について、情報を少し」
僕の言葉は、ギルドにいた狩人たちの大きな笑い声にかき消された。
「おいおい、聞いたか? 今、ガキが魔獣の森だってよ」
受付の男は、僕を頭のてっぺんからつま先まで見下ろし、鼻で笑った。
「坊主、ここはままごと遊びの場所じゃねえ。帰りな。お前みたいなヒョロいのが行けるのは、せいぜい森の入り口でキノコ狩りまでだ」
彼らの嘲笑に、僕はカチンときた。嘆きの荒野での経験が、僕の中に小さなプライドを育てていたのだ。
(見ていろ。僕がこの街でもやっていけることを、証明してやる)
僕は依頼掲示板に目をやり、一番難易度が低いと思われる依頼書を剥ぎ取った。
『森の入り口付近に出没する、魔獣キバイノシシ(幼体)の討伐』
猪なら、狩りの経験はあった。
僕は街の忠告を無視し、一人で森の入り口へと向かった。すぐに、獲物であるキバイノシシを見つける。依頼書に書かれていた通り、普通の猪よりも少し大きな体をしていて黒く輝く鋭い牙を持っていた。僕はいつものように投石器を構え、風の声を読んで完璧な一撃を放った。
しかし、信じられないことが起きた。僕の石は、キバイノシシの硬い皮膚に当たって、砕けながら弾かれたのだ。キバイノシシの体は、僕が知るどんな獣よりも強靭だった。
驚く僕に、キバイノシシは一直線に突進してくる。その速さは、野生動物の比ではなかった。僕は咄嗟に身をかわすが、牙が僕の太ももを浅く引き裂き、焼けるような痛みが走る。
僕はナイフを構え、反撃しようとする。だが、キバイノシシの動きはあまりに速く、不規則で、僕の能力でも次の一手を予測できない。僕は完全に、狩られる側に回っていた。
絶体絶命の窮地に立たされた僕は、荒野で学んだ最後の知恵を振り絞る。近くにあった脆い岩盤へとキバイノシシを誘導し、突進させて自滅させる。嘆きの荒野で『音無し』を倒した時と、全く同じ戦法だった。
僕は命からがらキバイノシシを仕留めることには成功したが、足は傷つき、体力も精神も完全に消耗しきっていた。もし、あれが『幼い』個体ではなかったら? もし、周りに利用できる地形がなかったら? 僕は確実に死んでいた。
クレギオンに戻り、震える手で採取したキバを置き、依頼の達成を報告すると、受付の男は少しだけ目を見開いたが、すぐに興味を失ったように報酬をカウンターに置いた。僕の命がけの戦いも、この街では日常の一コマに過ぎないのだ。
その夜、宿の一室で、僕は自分の傷を手当てしながら、初めて本当の意味で恐怖していた。嘆きの荒野で僕を救ってくれた知恵や技術は、この『力』が支配する世界では、頼りにできない。
僕は、この街で自分の無力さを、そして新たな壁の高さを、痛いほど思い知らされることになった。僕には、新しい力が必要だった。魔獣と渡り合うための、『戦う』ための力が。




