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39:光る苔

『音無し』との遭遇は、僕の心をより強く折り始めた。


あれが幻覚ではないと理解した瞬間から、僕の旅は「進む」ことから「逃げる」ことへと変わっていた。照りつける太陽が体力を奪い、幻覚を色濃くするため、僕は昼の間は岩陰で息を潜め、陽が傾き始めてから動き出すようになっていた。


その日も、夕暮れが近づき、焼けた岩がようやく熱を失い始めた頃に、僕は重い腰を上げた。内側からは僕自身の過去が、外側からは音のない巨人が、僕を絶間なく苛む。僕はただ、逃げるしかなかった。


太陽と月の位置だけを頼りに、ひたすら東を目指す。しかし、どこまで進んでも景色はほとんど変わらない。前に進んでいるはずなのに、まるで同じ場所をぐるぐると回っているような感覚が、僕の正気を少しずつ削っていく。


「…静かな場所がいい、か。確かに、願いは叶ったみたいだな…」

乾いた唇の端に、皮肉な笑みが浮かんだ。

水筒は空になり、干し肉はわずかに残っているが、今日も動き出す前にひとかけらを食べたきりだ。体力も精神も、もう限界だった。


夕方から動き出したというのに、一時間も経たないうちに、僕は身を寄せ合うようにして立ついくつかの巨大な岩の、その日陰にずるずると座り込んでしまった。

背中を預けた岩の冷たさが、熱を持った体にじんわりと広がっていく。もう、指一本動かすのも億劫だった。


(……もう、いいかな)

薄れゆく意識の中で、僕はそう思った。このまま、幻覚に心を喰われるか、次の『音無し』に捕まるか、あるいは渇きで死ぬか。どれも同じことだ。引き返すという選択肢は、とうの昔に捨ててきた。ここで倒れるのが、僕の旅の終わりなんだ。

抵抗を諦め、僕はゆっくりと瞼を下ろした。熱を持ったそれがぴたりと閉じられると、視界は安らかな闇に包まれた。リラとミーナの顔が浮かんだ気がしたが、それもすぐに霞んで消えた。


肩の上にあったはずの重みがなくなり、代わりに膝の上で、こつん、と硬い感触があった。コダマだ。僕の膝を叩いている。最初はそれに反応する力もなかったが、その小さな体から伝わる振動は、諦めるなとでも言うように、辛抱強く、何度も、何度も僕に打ち付けられた。


その必死さが伝わってきて、僕は最後の力を振り絞って、重い瞼をゆっくりとこじ開けた。辺りはすっかり暗くなっていた。ぼやけた視界の中で、コダマが僕の膝の上で、僕が背中を預けている岩の、その奥の暗がりを必死に指し示している。


僕が視線を向けると、その岩陰の奥の壁一面が青白く光を放っていた。

昼間の明るさの中では、決して気づくことのない光。

それは、この死の大地にあるはずのない、生命の光。ただの「光る苔」だった。


僕は、その光に引き寄せられるように、ゆっくりと体を起こした。苔に触れると、ひんやりとした水分が指先に感じられた。僕は夢中で苔を岩から剥がし、予備の布に包んで力いっぱい絞る。ぽたり、ぽたりと染み出した雫は、ひどく金属の味がした。


「…まあ、贅沢は言えないか。腐った味よりはましだ…」

僕はそう独りごちて、その命の雫を喉に流し込んだ。決して美味くはない。けれど、その一滴、一滴が、僕の渇ききった体に命を吹き込んでいくようだった。


九死に一生を得た僕は、その苔が光る岩陰で夜を明かすことにした。

不思議と、この光に包まれていると、僕を苦しめていた幻覚が少しだけ和らぐ気がした。

ふと、僕が休んでいる岩陰から外に目をやると、遠くの暗闇の中にも、同じような青白い光が点々と、まるで道しるべのように瞬いているのが見えた。これまで夜に歩いていても気づかなかったのは、きっと、このあたりが荒野の中でも特にこの苔が生息しやすい、少し違う環境なのだろう。


そして、夜が深まり、僕が少しばかりの休息を取っていた時、それは再び姿を現した。遠くの砂地が盛り上がり、僕の姿を模した『音無し』が形成されていく。以前遭遇したものよりも、少しだけ大きいかもしれない。それはゆっくりと、しかし確実に僕がいる岩陰に向かって歩を進めてきた。


僕は息を殺し、いつでも逃げ出せるように身構える。心臓が大きく脈打ち、嫌な汗が背中を伝う。

『音無し』は僕がいる岩陰のすぐそこまでやってきた。そののっぺりとした顔が青白く浮かび上がる。しかし、苔の光が届く境界線で、ぴたり、と足を止めた。まるで、見えない壁に阻まれたかのように。そして、光を嫌うかのように、ゆっくりと後ずさり、やがて僕に興味を失ったように向きを変え、闇の中へと消えていった。


(まさか…)


僕は別の場所で光っている苔の群生に目を凝らす。しばらくして現れた別の『音無し』も、やはりその光を避けている。

(なぜかは、分からない。でも、あの『音無し』は、この光が苦手なんだ…)

僕にはその理由は分からない。でも、それで十分だった。この「光る苔」は、僕にとっての命綱になる。喉の渇きを潤す水源であり、そして『音無し』から身を守るための安全地帯を示す道標だ。


絶望の闇の中で見つけた、か細くも確かな一筋の光だった。


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