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31:アルメで一番静かな夜に

数日後、宿屋の一室が、再び作戦司令室になった。テーブルの上には、ミーナが集めてきた情報とリラの分析によって完成した、サイラス邸の見取り図が広げられている。


「見張りの交代は、真夜中の鐘が二つ鳴った直後! その時がチャンスだよ。裏手の古い樫の木が、ちょうど二階の書斎の窓に届きそうだって、植木屋のトトさんが言ってたよ!」

ミーナがもたらした情報が、潜入の『時間』と『経路』を決定づけた。


「ミーナの情報通りなら、この書斎の窓が唯一の侵入経路ね」

リラは、僕に小さな革袋を手渡した。中には、細く形の違う金属の棒が数本と、粘度の高い油の入った小瓶が入っている。

「これは、私が作った解錠道具。この街のお屋敷で使うような古い錠前なら開けられるはず。この古い錠前で練習しておいて。それと、これは蝶番の音を消すための油」


僕の役割は、二人が立てた計画を、僕の耳で完成させること。

予期せぬ事態が起きた時に、その場の『声』を聞き、状況を判断し、計画を修正する。三人のチームの、最も鋭敏なセンサーになることだった。


真夜中の鐘が二つ鳴り響いた後、僕は宿屋の裏口に立っていた。黒っぽい服に着替え、コダマは気配を消すようにマントの内側に隠れている。


「カイ、気をつけて」

リラが、心配を押し殺した声で言った。

ミーナは何も言えず、ただ僕の服の袖をぎゅっと握りしめている。


(……ああ、そうか。これが、誰かに見送られるっていうことなんだな)

故郷を飛び出して以来、僕の旅立ちはいつも一人だった。孤独な逃亡だった。でも、今は違う。僕の帰りを待っていてくれる人がいる。その温かい事実が、恐怖に震える僕の心を、内側から支えてくれていた。


「……行ってくる」

僕は二人に頷き、夜の闇へと溶け込んだ。


サイラス邸の高い塀は、威圧するように僕の前にそびえ立っていた。

ミーナの情報通り、裏手に回ると、月明かりを浴びて巨大な樫の木が枝を広げている。その一本が、まるで道を示すように、二階の書斎の窓へと伸びていた。


僕は木の幹に手をかけ、一気に登り始める。ざらついた樹皮が、指に食い込む。息を殺し、葉のざわめきに紛れながら、慎重に、しかし素早く枝を伝っていく。

目的の窓の真横までたどり着き、僕は窓枠に手をかけた。

リラが言っていた通り、古い真鍮製の錠前だ。

革袋から、先端が鉤爪のようになった細い金属棒を取り出し、鍵穴に差し込む。中の構造を探るように、指先に神経を集中させる。練習した時の感覚を思い出し、金属同士が擦れる微かな感触だけを頼りに、内部のピンを一つ、また一つと押し上げていく。

カチリ、と最後に小さな音がして、錠が開いた。

さらに蝶番に油を差し、音もなく窓を開けることに成功した。


書斎の中は、高価な調度品で埋め尽くされている。

机の上には、僕が壊した堰の報告書が広げられていた。


僕は床にそっと手を触れる。

《……重いブーツ……退屈……角を曲がる……》

床板が記憶している傭兵たちの巡回の『声』を読み取り、息を殺して書斎を出た。


屋敷の中は、静まり返っている。分厚い絨毯が、僕の足音を完全に吸い込んでいた。壁にかけられた肖像画の男たちが、闇の中から僕を睨みつけているようだ。

角を曲がろうとした瞬間、僕は咄嗟に近くにあった甲冑の影に身を潜めた。床の『声』が、傭兵の接近を告げていたからだ。

やがて、退屈そうにあくびをしながら、一人の傭兵が通り過ぎていく。心臓が、大きく音を立てていた。


金庫室の中央には、壁のように巨大な鉄の金庫が鎮座していた。リラの道具を使っても、歯が立ちそうにない。

僕は金庫そのものではなく、その手前にある古い床板に両手を触れた。

目を閉じ、すべての意識を集中させる。僕が聞こうとしているのは、金庫の声ではない。この床が記憶している、サイラスが金庫を開けてきた時の、音と振動の記憶だった。


《……足音……ここで止まる……金属の擦れる音……チリチリ…………カチリ……》


床は、過去の操作音を忠実に再生する。だが、僕は気づいてしまった。床の記憶は、音と振動だけだ。最初のひと回しが、右だったか、左だったかまでは教えてくれない。


(右か……左か……)

僕は一瞬迷った後、勘を信じてダイヤルを右に回す。

僕は、金庫の開け方を「追体験」していく。


《……チリチリチリ……》。左に。

《……チリチリ……》。右に。

《……チリチリチリチリ……》。左に。


そして、床から聞こえてくる記憶の中の「カチリ」という音と、自分の手元で実際に鳴る音が完全に一致した瞬間に、手を止める。

息を詰めるような作業の末、最後にレバーに手をかけてひねった。


重い音が響き、扉が静かに開く。


金庫の中には、高価な宝石や書類に混じって、あの『声を吸う石』が数個、そして羊皮紙に描かれた一枚の古い地図があった。僕は他の物には目もくれず、地図だけを抜き取って懐にしまう。


来た道を慎重に戻り、僕は再び窓から闇の中へと逃げ込んだ。


宿の玄関で待っていたリラとミーナと合流する。三人は言葉を交わさず、ただ頷き合うと、足早に部屋へと戻った。

部屋に戻り、三人は震える手で地図を広げる。


そこには、アルメから『嘆きの荒野』を抜け、『霧降りの谷』へと至る道筋が、古代の文字で詳細に記されていた。目的地には、『沈黙の僧院』の名が。


「やった……やったー!」

ミーナが小さな声で叫び、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。

リラも、こわばっていた顔からふっと力が抜け、安堵のため息をついて椅子に座り込む。

僕も、張り詰めていた糸が切れたように、その場にへなへなと座り込んでしまった。

仲間と顔を見合わせ、僕たちは静かに笑い合った。

「はは……」と乾いた笑いが漏れる。


「これで、鑑定の魔法で僕を見たら、『泥棒』って見えるかもな。いや、『怪盗』とかにしてもらえるといいな」

軽口を叩いてはみたものの、その言葉にはほんの少しだけ、罪悪感の味が混じっていた。


目的は、果たされた。部屋に差し込む夜明けの光が、三人の安堵と、しかし同時に、これから始まる僕の孤独な旅立ちの予感を、静かに照らし出していた。


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