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29:流れを生み出す一手

ミーナが息を切らして部屋に駆け込んできた。

「聞いたよ! 傭兵たちの交代は、お昼の鐘が鳴った後! 西側の岩場のあたりは、一番偉そうなやつが休憩に入るから、一刻くらい、一番警備が手薄になるって!」


ミーナがもたらした情報は、僕たちの計画の最後のピースだった。

「いい、カイ。この地図を見る限り、堰の西側、あの大きな岩盤の付け根あたり。そこには一番大きな力がかかっているはずよ」

リラは最終確認として、地図の一点を指し示す。その目は、僕が持つ過去への恐れをすべて見通しているようだった。

「あなたの目的は、あの堰を粉々に破壊することじゃない。水に逃れる道を示す、小さな裂け目を作ってあげるだけ。分かるわね?」

「……ああ、分かってる」

リラの言葉は、僕の能力の正しい使い方を教えてくれるようで、心強かった。


部屋で一人、旅支度を整える。リラの工房から借りてきた、古いけれど頑丈なのみと石槌を、音を立てないように慎重に布で巻き、鞄にしまう。

かつての旅立ちとは、全く違う心境だった。


(……不思議だな。こんなに怖いのに、逃げ出したいとは少しも思わない。リラの知恵と、ミーナの勇気が、僕の耳と繋がっている。僕の力は、もう僕だけのものじゃないんだ)


昼過ぎ、僕はコダマを肩に乗せ、森を抜けて採掘現場へ向かった。


ミーナの情報通り、傭兵たちの数は明らかに少なく、空気も緩んでいる。僕は道の『声』を頼りに、残った見張りの巡回ルートを読んで潜入。鉱石が発する不気味な静寂の領域に、再び足を踏み入れた。


昨夜も感じた、冒涜的なまでの静寂。

旅を始めたばかりの頃の僕なら、この『声』のない世界を、安らぎだと勘違いしたかもしれない。でも、今の僕には分かる。


これは平穏じゃない。

病だ。


世界の呼吸が止まり、すべてが存在であることをやめてしまったかのような、冷たい死の気配。

この静寂が広がれば、リラの笑い声も、ミーナの歌声も、いつか飲み込まれてしまう。

(だから、僕は来たんだ)


傭兵たちの死角となる岩陰に身を隠し、僕はついに目標の岩盤の前に立つ。周囲の『声』が死んでいるため、風や道の助けは得られない。

僕は岩盤にそっと両手を触れた。目を閉じ、外の世界ではない、岩盤そのものの内なる『声』に意識を集中させる。『風の声』や『道の声』のようにはっきりとした言葉としては聴こえないが、言葉以前の感情のような、感情以前のエネルギーのような『声』は聴くことができた。


ゴウ、と岩盤全体が圧迫に耐える低い呻きが聞こえる。無数の亀裂が発する、引き裂かれそうな悲鳴。情報の濁流が、僕の意識をかき乱そうとする。


(ダメだ、惑わされるな……! 雑音に耳を貸すな! 痛みの本流は、もっと奥だ!)


僕は額に汗を浮かべながら、無数の悲鳴の中から、リラが予測した、ひときわ力強く、今にも張り裂けそうな断末魔の『声』を上げている一点を探ろうとする。


だが、あまりに多くの苦痛の声が重なり合い、その正確な中心を掴みきれない。焦りが胸をよぎった、その時だった。


肩の上からコダマが降りてトテトテと歩き出した。


彼はためらうことなく岩盤に近づくと、その表面の一点を、小さな手で、ぺたりと触れた。

まるで、痛みに苦しむ誰かの額を、そっと冷やしてあげるかのように。


その瞬間、僕の耳に響いていた不協和音が、すうっと澄み渡っていく。

コダマが触れたその一点から、すべての悲鳴が生まれているのが、はっきりと分かった。そこには、岩の表面に走る、髪の毛ほどの細さの亀裂があった。


「……ありがとう、コダマ」

相棒は、僕が聞き分けられなかった痛みの中心を、何故か最初から持っている石や鉱物への親和性で見つけ出してくれたのだ。


僕は鞄から布に巻いた鑿を取り出し、その先端を、コダマが示してくれた亀裂にしっかりとあてがう。そして、石槌を大きく振りかぶった。

故郷の村の光景が、一瞬、脳裏をよぎった。あの時も、僕はこうやって岩を砕いた。善意が、最悪の悲劇を生んだ。

(違う……! 今度は違う!)

僕は奥歯を噛み締め、雑念を振り払う。


一撃目。

硬い感触と共に、鑿の先端が亀裂に食い込む。


二撃目。

甲高い音が響き、亀裂が蜘蛛の巣のようにわずかに広がった。


三撃目。

これまでで最も鈍い音が響き渡った、その瞬間。


ミシリ、と岩の内部で何かが軋む音がした。

(まずい!)

僕はコダマを掴んで懐に入れると、考えるより先に、近くにあった大きな岩陰へと転がり込んだ。

直後、耳をつんざくような轟音と共に、僕がいた場所の岩盤の一部が崩落。堰き止められていた濁流が、檻から解き放たれた獣のように咆哮を上げ、堰の裂け目から本来の川筋へとその流れを取り戻していく。


「な、なんだ!?」

「西の岩盤が崩れたぞ!」

突然の出来事に、傭兵たちは混乱し、崩落現場へと駆け出していく。

その騒ぎに乗じて、僕は静かに森の中へと姿を消した。


アルメの街が見える丘の上から、僕は運河の水位が少しずつ戻っていくのを眺めていた。

懐の中から顔を出したコダマが、嬉しそうに僕の指をつついている。

僕の脳裏に、故郷を破壊した、あの悪夢のような濁流の光景が蘇る。だが、目の前の光景は全く違った。

(……同じ『破壊』なのに。全然違う……。あの時は、僕の独りよがりな力が、すべてを壊した。でも、今は……この音は『再生』の音に聞こえる)

それは、僕が仲間と共に手にした、初めての明確な「勝利」だった。この温かい達成感が、僕の胸の奥で、次の旅立ちへの静かな決意へと変わっていくのを、僕は感じていた。


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