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26:無力だと知る日

サイラスと出会った夜、僕は宿屋に戻ってもなかなか寝付けなかった。

あの男の、すべてを見透かすような冷たい目。街の渇きを利用して富を貪る、底知れない悪意。考えれば考えるほど、腹の底から静かな怒りが湧き上がってくる。


翌朝、僕はリラとミーナに、ギルドの依頼で運河の上流を調査してくるとだけ告げた。サイラスの名前や、その背後にあるであろう危険については、二人を巻き込みたくない一心で口にしなかった。

「上流のほうは、道が悪いから気をつけて。これ、持って行って」

リラは、何かを隠している僕の様子に気づいているだろうに、深くは詮索しない。代わりに、この辺りの水路が詳しく書かれた地図を渡してくれた。


「カイ兄ちゃん、お腹がが空いたら元気でないよ! はい、これ!」

ミーナはそう言って、保存食をぎっしり詰めた小さな包みを僕の鞄に押し込んだ。


仲間たちの優しさが、胸に温かく、そして少しだけ痛い。

「じゃあ、行こうか、コダマ」

肩の上の相棒にそう囁きかけると、僕は夜明け前のまだ薄暗いアルメの街を一人、静かに出発した。


リラの地図を頼りに、運河に沿って上流へと進む。街を離れるにつれて、人の気配は消え、道は険しくなっていく。


僕は意識を研ぎ澄まし、自分の能力を最大限に活用した。

『風の声』は、本来この静かな森に聞こえるはずのない、金属が岩を打つ甲高い音や、男たちの怒声の断片をかすかに運んでくる。

『道の声』は、ここ最近、重い荷馬車が何度も往復している苦痛の記憶を訴えかけてきた。獣たちがこの道を避けている、恐怖の気配も伝わってくる。

間違いない。この先だ。


『声』が示す方角へ、道なき道を進んでいくと、不意に視界が開け、異様な光景が目に飛び込んできた。本来の川の流れが、岩と丸太でできた粗雑な堰によって無理やり止められている。行き場を失った水は、脇に掘られた不自然な水路へと濁流となって流れ込み、その先にある大規模な鉱石の採掘現場へと吸い込まれていた。これこそが、アルメの渇きの原因だった。


(ひどい……。川の悲鳴が聞こえるようだ)


僕が堰の構造を詳しく調べようと、岩陰から身を乗り出した、その瞬間だった。


「おい、そこで何してる」


背後からかけられた低い声に、心臓が跳ねた。振り返ると、そこには屈強な体つきをした三人の男たちが、道を塞ぐように立っていた。使い込まれた武具、淀んだ目。サイラス配下の傭兵だった。


「迷子かい、坊主。ここはガキの遊び場じゃねえ。さっさと失せな」

リーダー格に見える、顔に大きな傷のある男が、侮蔑を隠そうともせずに言った。


僕は平静を装おうとした。だが、彼らから放たれる、剥き出しの暴力的な『声』の奔流に、頭を殴られたような衝撃を受ける。

それは街の雑踏とは違う。獲物を前にした獣のような、純粋な害意。強烈な耳鳴りと目眩に襲われ、立っているのがやっとだった。

剣も持たない、戦う術もない自分。この状況では、僕の能力はただ苦痛を増幅させるだけの呪いでしかなかった。


「聞こえなかったのか?」


僕が動けないでいると、傭兵の一人が無造作に僕の胸を突いた。

「うわっ……!」

僕はたたらを踏み、無様に地面に尻餅をつく。肩の上で、コダマが僕のマントを必死に掴んでいた。


「失せろと言ったんだ」

傷顔の男が、嘲るように笑う。他の傭兵たちも、汚いものを見るような目で僕を見下ろしていた。

僕は唇を噛み締める。何も言い返せない。


これ以上ここにいても、危ないだけだ。僕は傭兵たちの嘲笑を背中に浴びながら、屈辱に耐えて立ち上がり、黙ってその場を去るしかなかった。


日が暮れかかった頃、僕はアルメの街の外れまで戻ってきた。力なく流れる運河のほとりに座り込み、泥だらけになった自分の手を見つめる。


原因は突き止めた。だが、それを排除する力が、僕にはない。あの傭兵たちを前に、僕はあまりにも無力だった。強く握りしめた拳が、悔しさで白くなっていた。


(見つけたのに……何もできなかった。僕の耳は、剣や拳の前では何の役にも立たない。この街を、リラやミーナを守るには……僕一人じゃ、ダメなんだ……)


痛切な敗北感と無力感。だがそれは、僕が初めて他者に助けを求めるという、大きな一歩を踏み出すための、長い夜の始まりでもあった。


陽がとっぷりと暮れた頃、僕は宿にたどり着いた。泥だらけの服、虚ろな目。そのただならぬ様子に、ホールで食事の準備をしていたミーナと、それを手伝っていたリラが駆け寄ってくる。

「カイ兄ちゃん、どうしたの!?」

「ひどい怪我はないみたいだけど……」

心配そうに声をかける二人に、僕は力なく首を振るだけで何も答えられない。

肩の上で、コダマだけが主人の心の痛みを代弁するように、ぎゅっと僕の服を握りしめていた。


「……少し、疲れただけだ」

僕はそう絞り出し、二人の制止を振り切るようにして自分の部屋へ閉じこもった。


部屋のベッドに倒れ込み、僕はただ天井を見つめた。頭の中では、傭兵たちの嘲笑と、自分の無力さが繰り返し再生される。どうすればいいのか分からない。二人には言えない。言えば、きっと彼女たちまで危険なことに巻き込んでしまう。


しばらくして、部屋の扉が控えめにノックされた。

「カイ兄ちゃん……ご飯、ここに置いとくね……?」

ミーナの震える声が聞こえる。

「……食欲、ないんだ。ごめん」

扉の向こうで、ミーナが小さく息をのむ気配がした。

また、静寂が戻る。僕は目を閉じ、闇の中へ沈んでいこうとした。一人でいることには慣れているはずだった。なのに、今は胸にぽっかりと穴が空いたように、どうしようもなく孤独だった。


コン、コン。再び、扉がノックされた。今度は、先ほどよりもしっかりとした音だった。僕は返事をしなかった。だが、扉の向こうから、リラの静かで、しかし強い口調の声が聞こえてきた。


「カイ、あなたが一人で抱え込もうとしているのは、もう知ってる。でもね、私たち、そんなに弱くないわよ。あなたが思うほど、守られるだけのか弱い存在じゃない」

その声に、僕の心が揺さぶられる。


「それに、私たちは『仲間』でしょ?」


その言葉が、僕が必死に築いていた心の壁を、静かに溶かしていく。僕はゆっくりとベッドから起き上がり、震える手で扉を開けた。

そこに立っていたリラと、心配して戻ってきたミーナを部屋に招き入れる。そして、堰き止められていた感情が溢れ出すように、僕はすべてを話し始めた。自分の呪われた能力のこと。サイラスという男のこと。運河の堰のこと。そして、何もできなかった自分の無力さのこと。


すべてを聞き終えた後、リラは呆れたように、しかし優しい目で言った。

「なんだ、そんなこと。もっと早く言いなさいよ、馬鹿ね」

ミーナは、抑えきれない感情に震える僕の隣に黙って座り、その小さな手で背中を何度もさすってくれた。

僕は二人を見て、震える声で初めての願いを口にした。


「……一人じゃ、どうしようもないんだ。……だから……力を、貸してくれないかな……?」


その言葉に、リラとミーナは力強く頷いた。


部屋の窓から差し込む月明かりが、テーブルを囲んで向き合う僕ら三人と、その中心にいるコダマの影を、一つに結びつけるように照らし出していた。


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