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24:ミーナと休日

リラの一件が片付いてから数日後、宿屋の食堂は珍しく朝から賑やかだった。

いつもはてきぱきと働くミーナが、仕事着のエプロンではなく、軽やかな街歩き用のワンピースを着ていたからだ。


「やったー! 急にお休みもらえたの!」


盆を片手に、彼女は満面の笑みで僕のテーブルへやってきた。その嬉しそうな感情は、まるで蜂蜜みたいに甘くて、キラキラしている。こういう声に触れるのは、悪くない。


「それでね、カイ! よかったら今日、一緒に街を散歩しない? まだ見せたことない、景色のいい場所があるんだ!」

「僕が、お休みのお邪魔にならないかな?」

「なるわけないでしょ! カイと一緒がいいの!」

力強くそう言うミーナの言葉は、真っ直ぐで少しも裏がない。こういう人といると、僕の心の壁も少しだけ薄くなる気がした。


僕たちはコダマを肩に乗せて、ミーナお気に入りの散歩道だという、運河沿いの石畳の小径を歩いていた。人通りもまばらで、時折聞こえてくるのは、遠くの船の鐘の音と、穏やかな風の声だけだ。


「見て、カイ! このお花、すごく綺麗じゃない?」

ミーナが指差したのは、石垣の間から懸命に顔を出す、小さな紫色の花だった。僕はしゃがみこんで、その花に顔を近づける。

「うん。なんだか、とても一生懸命な味がするね」

「味? お花って食べられるの?」

「ううん、そういうことじゃなくて……」

僕の言葉に、ミーナは首を傾げていたが、やがて「ふふっ、そっか!」と楽しそうに笑った。


「いい天気だね、カイ兄ちゃん!」


「うん、本当だね」

カイ兄ちゃんと呼ばれて悪い気はしなかった。


ミーナと他愛ない話をしながら、石畳の道を歩く。肩の上では、コダマが僕の髪を不思議そうにつついていた。穏やかで、満ち足りた時間。


ふと、道の『声』が、何かを懐かしむように囁くのが聞こえた。

《……王の、帰還……玉座は、温かい……》


(王の帰還……!?)


僕は思わず足を止めた。その視線の先、噴水の縁で、一匹の大きな猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。


(まさか、この猫……ただの猫じゃないな。昔、この広場一帯を縄張りにしていた、伝説のボス猫の末裔か、あるいは本人なんじゃないか? 

長い放浪の末に、ついに自分の王国ナワバリに帰ってきたんだ! そして、『温かい玉座』っていうのは、あの陽の当たる噴水の縁のことか……!)

僕は壮大な物語の幕開けを確信し、ミーナの肩をそっと掴んだ。


「ミーナ、静かに。見てごらん。今、僕たちは歴史的な瞬間に立ち会っているのかもしれない」

「え? なあに?」

きょとんとするミーナに、僕は神妙な顔で猫を指差した。

「あれは、この広場に君臨していた王の帰還なんだ。長い旅を終え、今まさに、かつての玉座に……」


僕がそう熱弁した瞬間だった。

近くのベンチに座っていたおばあさんが、買い物袋を抱えてゆっくりと立ち上がった。

すると、その猫は「ニャーン」と気の抜けた声で鳴き、ててて、とおばあさんの足元に駆け寄って、その足に頭をすり寄せ始めた。


「あら、タマ。お帰りなさい。お魚買ってきたわよ」

おばあさんはにこやかに猫を撫でている。僕が壮大な叙事詩と共に見ていた「王」は、どうやら「タマ」という名前らしい。


「カイ兄ちゃん、何言ってるの? あれは、そこのおばあちゃんちのタマだよ。いつもあそこでお昼寝してるんだよ」

ミーナが僕の顔を見上げて、くすくすと笑う。


(王の帰還……じゃなくて、ただの飼い猫の帰宅……。そっか、そうだよな……)

僕は自分の大げさな勘違いが急に恥ずかしくなり、思わず頭をかいた。

その様子が面白かったのか、ミーナは「もう、カイ兄ちゃん、変なのー!」と声を上げて笑い出した。

その屈託のない笑い声につられて、僕も笑ってしまった。

肩の上で、コダマがこてんと首を傾げて、僕たちを不思議そうに見ていた。


しばらく歩くと、小さな広場で飴細工の露店が出ていた。

「わ、見て! 『竜の息吹ドラゴンブレスキャンディ』だって! 珍しい!」

ミーナが目を輝かせる。竜をかたどった真っ赤な飴だ。

「竜の……息吹?」

僕は思わず身構えた。本物の竜の息なんて浴びたら、火傷じゃすまない。

「大丈夫、名前だけだって! ちょっとぴりぴりするから、そう呼ばれてるの。食べてみない?」

ミーナはそう言って二本買い、一本を僕に手渡した。


おそるおそる、飴を舐めてみる。舌の上で、甘さと一緒に、パチパチと弾けるような刺激が広がった。

「……本当だ。なんだか、小さな雷みたいな味がする」

「雷!? もう、カイ兄ちゃんの言うことはいちいち面白いんだから!」

ミーナは心の底から楽しそうに笑う。その笑い声は、きれいな鈴の音みたいに僕の耳に響いた。


彼女と一緒にいると、いつも僕の周りに渦巻いている淀んだ声が、少しだけ遠のく気がする。やかましい妹ができたみたいで、ちょっと困る時もあるけど、それ以上に、僕に「楽しい」という感情を思い出させてくれることが、どうしようもなくありがたかった。一人でいたら、きっとこんな風に笑うこともなかっただろう。


穏やかな時間だった。人の感情のノイズが少ない場所では、僕も普通に呼吸ができる。

(……ああ、温かいな。こんな時間が、ずっと続けばいいのに)

だが、大きな運河が合流する広場に差し掛かった時、一瞬、ぬるい泥水みたいな感情が流れ込んできた。(……でも、だからこそ、少し怖いんだ。この耳が、またいつすべてを壊してしまうか分からないから)

行き交う人々の焦り、苛立ち、倦怠感。僕はそっと息を詰める。世界は、僕に優しくなんかない。この呪いが、それを絶えず思い出させてくる。


その時、肩の上のコダマがぼくの耳をひっぱった。


コダマの方を見ると、その先でミーナが「こっちこっち!」と手を振っていた。

ミーナは僕の手を引いて少し高い場所にある見晴らし台へと連れて行ってくれた。


「ここが、私のお気に入りの場所! アルメの街が一望できるんだよ」


そこから見る景色は、確かに圧巻だった。無数の水路が太陽の光を反射してきらめき、白い壁の家々が宝石のように並んでいる。

だが、僕の意識は別のものに引き寄せられた。


(……風の声が、いつもと違う)


普段、この街の風はもっと陽気でおしゃべりだ。でも、今日の風はどこか不穏な響きを帯びている。船着き場の方から運ばれてくるのは、運河を渡ってきた風たちの不安げな囁きだった。

《……水位が低い》《流れが重い》《船がひっかかりそう》


僕は水面を見つめる。

僕の耳には、水路を満たす水の流れそのものが、いつもよりか細く、どこか苦しげな「声」に聞こえていた。まるで熱を出した生き物の呼吸みたいに、弱々しい。


その微かな不協和音は、僕の心の中にいつも渦巻いている鈍い痛みと、嫌な風に共鳴した。胸の奥が、冷たくなる。


「どうしたの、カイ兄ちゃん? ぼーっとして」

心配そうに僕の顔を覗き込むミーナに、僕は慌てて笑顔を作った。

「ううん、なんでもない。ただ、あの船の形が、昨日食べた魚に似てるなって」

「もう、カイ兄ちゃんったら食いしん坊なんだから!」


ミーナはまた楽しそうに笑っている。

僕は彼女の笑顔を見ながら、もう一度、苦しげな声を上げる運河に視線を落とした。

この穏やかな街の日常の裏で、何かが静かに狂い始めている。

その小さな、しかし消えない予感が、水面のさざなみのように、僕の心に広がっていた。


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