23:機械の悲鳴
アルメでの穏やかな日々が、水路を流れる水のように過ぎていく。
朝、宿屋の食堂に下りていくと、ミーナの「おはよう!」という元気な声と、焼きたてのパンの香ばしい匂いが僕を迎えてくれる。この時間は楽だ。泊まり客もまばらで、厨房から聞こえてくるミーナの鼻歌も、パンが焼ける音も、心地よい朝の音の一部だ。これが昼や夜になると、人々の声と一緒に、もっとどろりとした感情が流れ込んできて、時々息が苦しくなる。
「カイ、おはよう! 今日はいい天気だね!」
「うん。空の色が、なんだか蜂蜜みたいで美味しそうだ」
僕の言葉に、ミーナはきょとんとしてから「ふふっ、カイは面白いこと言うね!」と笑った。僕には本当にそう見えたんだけどな。
すっかり定位置になったテーブルの隅の席に座る。ただ、ここ数日、その日常に少しだけ変化があった。
「……リラは、まだ工房かい?」
僕が尋ねると、シチューを運びながらミーナがやれやれといった顔で肩をすくめた。
「そうなの。新しい機械が恋人なんだから、しょうがないけどね。食事もろくに摂らないで、ずっと籠りきりなの。カイ、よかったら様子を見てきてくれないかな?」
(機械が恋人……? まあ、人間じゃなくても、好きならいいのか……)そんなことを考えながら、僕はミーナの心配そうな顔に頷いた。
工房へ向かう道すがら、僕は肩の上のコダマに話しかける。
「リラ、大丈夫かな。あんまり無理しないといいんだけど」
コダマは僕の言葉に応えるように、こてん、と首を傾げた。
リラの工房の扉を叩くと、中から「……誰だ?」という、くぐもった不機嫌な声が返ってきた。僕が名乗ると、少しの間があってから、ようやく重い扉が開かれる。
そこに立っていたリラの姿に、僕は思わず目を見開いた。目の下には深い隈が刻まれ、いつもはきっちり結い上げられている髪もほつれている。工房の中は、設計図の羊皮紙が散ばらかり、工具が床に転がる散々な状態だった。
(……これは、相当ご機嫌斜めだな。下手なことを言うと工具が飛んできそうだ)
「……なんだ、カイか。見ての通り、取り込み中だ。用がないなら帰ってくれ」
リラはそう言って、工房の真ん中に鎮座する奇妙な機械の塊――鉄の配管といくつもの歯車が組み合わさった「自動揚水ポンプ」の試作品――の前に戻ってしまった。
(帰ってくれ、ね。ミーナに頼まれた手前、そう簡単には引き下がれないんだけどな)
「ミーナが心配してた。何か手伝えることは?」
「君に手伝えることなんてないさ」
リラは吐き捨てるように言った。
(うわ、すごい言われようだ)
「設計上は完璧なはずなんだ。なのに、動かすとすぐに異音を立てて止まってしまう。どこが悪いのか、さっぱり……」
頭を抱える彼女に、僕は言った。
「その音、僕に聞かせてくれないか?」
リラは訝しげな顔をしたが、やがて諦めたように頷き、ポンプの起動レバーを引いた。
その瞬間、僕の耳に、耐えがたい不協和音が叩きつけられた。
ガギンッ、ギギギギギッ、ゴゴゴ……ッ!
リラにはただの不快な機械音にしか聞こえていないだろう。だが、僕には違った。
それは、言葉にはならない、純粋な不協和音の奔流だった。頭の中に直接、焼けた鉄の杭を打ち込まれるような鋭い痛み。これが人の感情じゃないだけ、まだ耐えられる。
大小様々な歯車が発する甲高い軋み音、軸受けが締め付けられる鈍い呻き、配管を伝わる不規則な振動。それら一つ一つの音が、互いに反発し、打ち消し合い、増幅しあう。僕の耳には、それが部品たちの苦痛の叫びのように、悲鳴の合唱のように聞こえた。
僕は思わず顔をしかめ、耳を塞いだ。
「どうした、カイ?」
リラがポンプを止めると、地獄のような不協和音は止んだ。僕は荒い息をつきながら、必死に言葉を探した。
「……なんていうか、音がトゲトゲしてる。こっちの歯車の音は四角くて、あっちの歯車の音はギザギザで、それがぶつかって火花が出てる感じ。あと、あそこの……軸の部分の音が、すごく泣いてる」
僕の奇妙な説明に、リラは半信半疑の表情を浮かべていた。だが、カザマチでの一件を思い出したのか、彼女は何も言わずに工具を手に取り、僕が示した箇所の部品を外し始めた。
「……なんだ、これ……」
やがて、リラが驚きの声を上げた。彼女が手に取った小さな歯車を覗き込むと、その縁が微かに摩耗し、歪んでいるのが分かった。
「稼働時の微細な振動のズレが、この部品にだけ過剰な負荷を……。こんな小さな歪みが、全体の不調和を……」
リラはブツブツと呟きながら、ヤスリでその部品を慎重に削り、調整していく。その真剣な横顔は、僕の知っている誇り高い技術者の顔だった。
やがて、調整を終えたリラが、緊張した面持ちで再び起動レバーを引く。
今度は、耳を塞ぐ必要はなかった。
カシュン……コトン、コトン、コトン……。
さっきまでの悲鳴が嘘のように消え、滑らかで心地よい、規則正しい音が工房に響き渡る。それはまるで、一つの大きな生き物の心臓が刻む、脈動のようだった。ポンプの先から、勢いよく水が流れ出し始める。
「……成功だ……」
呆然と呟くリラに、僕はそっと声をかけた。
「いい音だね」
彼女は顔を上げ、それから、ふっと口元を緩めた。
「ああ。……そうだな。ありがとう、カイ。君の耳は、どんな精密な測定器よりも正確だな。
それはそうと、あまり近寄らないでくれ。ここのところ体を洗えてないんだ」
追い出されるように工房を出たが、リラの顔には普段の穏やかな色が戻っていた。
自分の「呪い」が、思いもよらない形で友人の助けになった。その事実が、僕の胸の中に静かな喜びを灯す。人の感情のノイズがない工房の静けさが、今はただ心地よかった。




