22:声なき森
オルダス様の依頼から一週間ほど経った頃、僕に向いてそうな依頼書をギルドの掲示板で見つけた。
『求む、月光苔。腕の立つ採取者を求む。依頼主、錬金術師ゼノビア』
錬金術師、という響きに少しだけ胸がざわついた。彼らもまた、学者に負けず劣らずの変わり者が多いと聞く。
紹介された工房は、アルメの運河沿いにある、少し湿った路地裏にあった。古びた石造りの建物の扉には奇妙な紋様が描かれ、煙突からは時折、紫色の煙がもくもくと立ち上っている。
扉を叩くと、中から「……入れ」とくぐもった声がした。
足を踏み入れると、様々な薬品と鉱石が混じった、むせるような匂いに包まれる。薄暗い工房の壁には、僕には到底理解できない数式が書かれた羊皮紙がびっしりと貼られ、棚には色とりどりの液体が入ったフラスコや、奇妙な形をした鉱石が雑然と置かれていた。
「……依頼の件か」
部屋の奥、大きな釜の前から現れたのは、フードを目深にかぶった人物だった。背丈や声からは、男か女か、老人か若者かすら判然としない。
僕が頷くと、錬金術師は依頼内容を簡潔に告げた。
「月の光を浴びて、夜だけ淡く光る『月光苔』。それが自生する森の地図だ。採ってこい。報酬は弾む」
話を聞いている間、肩の上のコダマは工房に来てからずっとそわそわしていた。棚に並んだキラキラ光る鉱石を見ては身を乗り出し、僕の髪をきゅっと引っ張る。石でできたゴーレムの本能が、この場所に強く惹かれているらしい。
僕が地図を受け取っている隙に、コダマは器用に肩から降りると、探検を始めてしまった。テーブルの上に置かれていた水晶のかけらを、小さな両手で一生懸命持ち上げようとしている。その無邪気な姿に、フードの奥の錬金術師の口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
翌日、僕とコダマは地図を頼りに、アルメの街から半日ほど歩いた場所にある森の入り口に立っていた。
森に足を踏み入れた最初のうちは、いつもと変わらない旅だった。風は木々の葉を揺らす音と一緒におしゃべりを続け、足元の道は、昨日ここを通った木こりの疲れたため息を僕に伝えてくる。
だが、森の奥深くへ進むにつれて、僕は奇妙な違和感を覚え始めた。
あれほどやかましかった風の声が、囁き声のようにか細くなっていく。道が覚えていた獣の足跡の記憶も、まるで霧の中に溶けていくように、曖昧になっていく。
(静かだ……)
それは、僕がずっと探し求めていた静寂に近いはずなのに、なぜか背筋がひやりとした。まるで世界から色が失われていくような、奇妙な感覚。
そして、地図が示す目的地――小さな沢の奥にある開けた場所にたどり着いた時、僕は息をのんだ。
そこは、何の音もしない、完全な「無音」の世界だった。
風は吹いているのに、葉擦れの音ひとつしない。鳥の姿はあるのに、さえずりは聞こえない。僕の耳には、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
開けた場所の中央には、苔むした大きな岩があり、そこに目当ての『月光苔』が、昼間の光の中でも分かるほど淡い燐光を放っていた。
僕は恐る恐る、その場所に足を踏み入れた。
その瞬間、僕の心をずっと締め付けていた呪いの奔流が、すうっと消えていくのを感じた。流れ込んでくる声も、感情もない。ただ、静か。
これだ。これこそ、僕がずっと求めていた安らぎだ。
僕はその場に座り込み、深く息を吸った。なんて心地がいいんだろう。このまま、ずっとここにいたい。何も考えず、何も感じず、この静寂に溶けてしまいたい。
そんな欲求が、心の奥から湧き上がってくる。
思考が、ゆっくりと白んでいく。僕が誰で、何のためにここにいるのか、どうでもよくなっていく。このまま意識を手放せば、どれだけ楽だろうか。
こつん。
その時、頬に小さくも確かな衝撃を感じた。はっとして我に返ると、いつの間にか横になっていた僕の顔の前にコダマがいて、心配そうに僕の顔を見上げながら、その固い石の頭を僕の頬に優しく押し付けていた。
「……コダマ?」
その確かな感触が、僕の意識を現実へと強く引き戻した。僕は自分が今、何を考えていたのかを思い出し、ぞっとした。これは安らぎじゃない。何もかもが失われた『虚無』だ。この静寂は、人の心を蝕む。
僕は震える手で『月光苔』を慎重に採取すると、一目散にその場所から逃げ出した。
しばらく走り続け、再び『風の声』が耳に届き始めた時、僕はたまらずその場にへたり込んだ。
肩の上で、コダマが僕の髪をそっと撫でるように触れている。
「……ありがとう、コダマ。また、助けてもらったな」
静寂は、必ずしも癒しじゃない。僕を苦しめるこの呪いは、同時に、僕がこの世界と繋がっている証なのかもしれない。
帰り道、いつもはうるさくて仕方がない風の噂話が、少しだけ、恋しく思えた。




