お兄ちゃんの秘密2
「まあ兎に角」初めに声をかけてくださった先生が話を再開された。しめしめだ。忍法隠遁の術が役立った。「俺達は口を利く元気もなかった。すっかり疲れ果てとったんやで。こんなとんでもない現実を目の当たりにして平気でいられるわけがあらへん。そこであんたが言うたんやんな」
「ああ、そうだ。当然の疑問だら?民主主義国が戦争をするためには自国の正当性を国民に納得させねばならん、そのために一番手っ取り早い方法は相手国を貶めることだ、戦後処理においても同様、このようなことは政治の世界では日常茶飯事だろう、しかしこんな大掛かりな冤罪が確かに起こり、これまでずっと維持され、恐らくこれからも延々と続いて行く、こんなことが何故政治とは関係のない各方面のエリート達によっても堂々となされているのか、金のためか、名誉のためか、出世のためか、保身のためか―――いや、あの時はつい大きな声を出いちゃったに。この俺の問いかけに対してあいつは言ったよなあ、そのどれでもない、自分はとどのつまり宗教のためだと思っている、とね。いつものことながら突拍子もないことを言い出すもんだ、俺は一瞬あっけにとられた。しかし直ぐに、宗教とはどういうことだと詰め寄った」
「そうそう、あんた、あの時はいつにのうえらい剣幕やったな。ところがあいつの方はえらく静かやった。いや、静かちゅうより穏やかやったと言った方がええ。淋しそうな雰囲気もあった。後から考えると、もうあいつは諦めとったんやろうね」
「そうやろうな。あいつは小さな声で話し始めた。現代の文明というものは欧米文化が主体だと言っていい‥‥‥いきなりこれや。せやけどさっきの“宗教”もあったで大人しゅう聴いとこうと皆考えた思う。現代文明はほぼ欧米文明だ、これは否定し難い事実である、従って現代文明の問題点を考える上で必要なことは欧米文明の本質を見極めることであろう、自分は以前から欧米文明を歴史的、文化的、科学的など様々な面から勉強してきた、その結果、この文明の根本においてキリスト教が非常に重要な意味を持っているということがますます明らかになってきた、このことに関してはあまり異論がないと思う、少なくとも中世から近代における哲学、文学、美術、音楽、法、政治、経済、建築、果ては科学一般に至るまでキリスト教に関する知識がなければ理解することが出来ないからだ、そしてこのことは欧米文明の様々な思想や文学・芸術作品、学説などの根源に、肯定的にしろ否定的にしろキリスト教に基づく思考があることを意味している―――」
「その時あんたが言っとったよな。普通、古代ギリシャ・ローマとキリスト教という図式となるんだが、何故一方だけなんだ、と。そうしたら、文明の本質という場合、それは思想の地盤に当たるものだと自分は考えている、基礎であるとか土台であるとかの前提なのであり、それが無ければ文明が起こることはない、それどころかそもそも文化が生じてくることがない、個人的には文化は文明に先立つと考えているので、とこういうことや。ご丁寧にも説明付きでね」
「そうなんや。あいつによったら、その地盤というのがキリスト教における神、つまり絶対者というわけやった。遅くとも中世から西洋人の精神活動をずっと支えてきたものとされる。ところでこの絶対者というのはキリスト教においては端的には絶対善である、しかし時代が下るにつれて神の存在が疑問視されるようになり、ついには死亡宣告をされてしまうことになった、神が否定されるということは西洋文明における絶対的地盤が失われるということだ、そのため第一次世界大戦以前から西洋文明は危機的状態にあった、何しろこれまで不動の起動者として西洋人の思考を支え動かしてきた神がいなくなってしまったのだ、ところがそこに第一次大戦が起こり、その後世界恐慌によって時代状況が悪化し第二次大戦が勃発、ここでナチスという絶対悪が現れることになった、恐らく人々はこのような絶対者を欲していたのだろう、思考の基盤、文明の地盤というものは絶対者なのである、善だろうが悪だろうが関係はない、そこで人々はこの絶対悪を新たなる神として戴くようになる、ただしその絶対悪という神の存在はそれを信者たちが憎むことによって支えられるのだ、今回の神は絶対的に必要な憎悪の対象である、ホロコーストに関してその見方を見直そうという意見に対する知識人達の反発の強烈さが、あたかも宗教的熱狂であるかのように見えることからも、西洋人が戦後絶対悪を神として信仰してきたということ、推して知るべしというものだ―――」
「それに関してあいつは面白いことを言ってたね。絶対善信仰と絶対悪信仰の違いだに。つまり、キリスト教では絶対善たる神を愛さなければならない、絶対悪信仰ではナチスを憎めばよい、ところで愛することによる信仰は難しい、神を愛するということは実は難しい、これは旧約聖書の神を考えてみれば分かる、現代になるとその存在自体に対する疑問はあるし、何よりも旧約の記述を読んであの恐ろしい神を愛するなんてことは至難の業だ、もっともキリスト教は三位一体でもってイエスを愛の対象にしているからかなり難易度は下がってはいるが、それでも善とか愛とかいうものは正直不明瞭なものである、それに対して憎むことによる信仰は容易だ、ナチスを憎むということは非常に簡単なのだ、その存在については神話ではなく歴史に記されていることだから疑いえない、戦前戦中のプロパガンダと戦後の裁判で保証された絶対悪ナチスだ、憎むことに造作はない、こうした違いを見てみると戦後人々がこの絶対悪信仰に喜んで飛びついた理由が分かろうというものだ、既に信仰心を持たなくなっていた知識人達にとって、表面的には宗教ではない絶対悪教の出現は非宗教的に絶対者を手に入れる絶好の機会だった、しかも悪に対しては具体的で明瞭な心象を持つことが出来る、これはダンテの神曲を読めばよくわかるだろう、天国篇の記述の平板さに比べあの地獄篇の生き生きとした描写といったらどうだ、人間の心は悪に対してより親和性を持つと言わざるを得ない、さらに愛することよりも憎むことの方が力として強い、例えば愛する家族に害悪を与える者が現れたとする、そういう場合当然その敵を憎むことになるが、その憎しみの大きさは家族に対する愛よりも強烈になるものだ、人間の心は憎悪に対してより親和性を持つと言わざるを得ない、このような人間の性も相まって戦後の大部分の人達が敬虔な絶対悪教徒になっていったのだ―――」
「それがあんたに対する回答やった。第二次大戦後の政治屋以外のエリート達があの犯罪行為を何故熱烈に擁護するのか、それは金のためでも名誉のためでも出世のためでも保身のためでもない、絶対悪教に入信しているからなのだ、とこういうわけや。彼らがヒトラーやナチスを憎悪することはそれ自体信仰心なのであり、その憎悪を熱烈に表明することは信仰告白に他ならない、そしてこの絶対者に対する宗教的熱狂が現代文明を支えている、連中の熱狂的な信仰が絶対者を作り出した」
「こわいことにあいつの分析はさらに進んでいったやんな。この絶対悪教の正体についてや。基本的な線はさっきの話の通りやが、その根底にはえらいよろしゅうあらへん構造があるというんや。この宗教は絶対悪への憎しみによって自分たちの思想的地盤としての絶対者を導入するというものやった。そやかてそれが単に手段であるに過ぎやんのならまだしもやった。ところがそこでとどまることはなかった。あいつによったら―――自分がこのような欺瞞をわざわざ宗教であるとして説明したのは、まさにこの憎しみがその後目的になってきたからである、つまりどういうことか、当初人々はただ絶対者を手に入れ現代文明を立て直していこうとだけ考えていたはずだった、しかしこの信仰は次第に別の異なった面を見せ始める、この絶対悪の存在を保持するために人々はそれを憎悪していたのだが、無意識のうちにこう考えるようになってしまった、こうやってナチスを憎悪していれば絶対悪の対極へと導かれていくのではないか、絶対悪を憎悪すればするほど自分自身が限りなく絶対善に近付いて行くのではないか、自分自身が本来の神のような存在へと限りなく高まって行くのではないかと、そうなのだ、自分の抱く憎悪によって自身がとんでもなく倫理的な存在者へとなっていく、絶対悪から離れれば離れるほどその反対の方へと向かっていく、自分が神的存在へとなって行くのではないか、いや自分は神そのものになるのだ‥‥‥これこそ宗教的熱狂そのものなのではあるまいか―――」
「人類を敵に回しとるようなものや。あいつに言わせりゃ真のエリート達を、なんやろうけどね。そんでその時あいつに言ったった。お前、そんなトンデモ話はここだけにしとけよ、ってな。するとあいつは、さもおかしそうにくすくすと笑いゃがった。そして、トンデモ話、トンデモ本?その昔、コペルニクスやガリレオの著作だって当時としてはトンデモ本だったはず、そういう野暮な言葉はお控えなされた方が、と言いよった。野暮とは参ったね。けど確かに野暮なセリフや」
「そう、確かにね。ある時代にはトンデモ話だったことが後の時代に正しいことだったということが判明することもある。地動説は今では、少なくとも太陽系の範囲内では正しいことが分かってる。銀河系まで広げると太陽も動いてるんだでな。となるとこの宇宙論を突き詰めて行ったら将来、実は地球が全宇宙の中心だったという話になってもおかしくないわけだ。可能性としては排除できん。可能性は間違いなくある。とにかく、やたらにトンデモ、トンデモと騒ぎ立てるのは野暮なことだね」
「まあ、そこら辺のことはともかくとして、あいつはそうやって自分の考える現代の狂信的信仰心がもたらす病理を説明した。全て話し終えるとふぅーと深うため息をついて、椅子に座ったままがっくりと肩を落とした。俺には、その時あいつがいっぺんに五十以上も年を取ってしもたように見えたもんや。少し長う伸びた灰色の髪が彫りの深い顔に更に影を落とす。その表情にあるのは絶望感、寂寥感、無力感……あんな淋しそうな表情、人間のあんな表情を見るのは、これまでにあれが最初で最後やに。なんで知的に優れた人達が非理性的な所業を嬉々として続けてこられたのか、長い推論の果てがこの結論じゃあね、そりゃあ絶望的にもなるやろうやに。他人事の様やけど実に痛ましかった」
「同感だね。何しょぉそもそもの前提が、知的エリート達がその学問分野においては損得や打算で動くことはない、という性善説なんだで。ところが結局のところある種の損得だった、勿論ちんけなもんじゃない、桁外れに巨大な打算だったということがあいつの結論だったんだで。しかもそれは人間性そのものに内在する問題だ。あいつが絶望的になるのも無理からんことだに」
「ただあいつのことだ、直ぐに復活しゃがった。こっちも白旗を上げたことやし、暫く世間話をしたっけな。その中で、やっぱ受験の話が出た。そしてこの時とばっかに三人してやいのやいの言ったった。江戸の敵を長崎で討つ、やないけどね。あいつもすっかりのんびりして、へらへらと言い訳をしとった。だがここで、あいつの志望校と学部学科を聞いて三人とも吃驚したよなあ。大学はええとして、志望先が文学部のインド哲学だと言うんやで。理由を聞いて更に驚愕した―――さっきの話の通り、現代文明の地盤としてのキリスト教は絶対悪教の隠れ蓑に成り下がっており、実は絶対悪教が現代の世界に陰然たる力を持っている、一般的に人間にとって宗教が如何に大きな影響力を持っているかということを、自分は散々に思い知らされた、そのため現代社会に生きる上で、個人としてまともな宗教の知識と信仰が必要であるとの結論に達した、そこで自分はどうかと考えた、神道はどうかと思ったが神道には哲学がない、哲学がないとキリスト教の皮を被った絶対悪教には対抗できない、そうなると自分の家系から探してみることになる、ちなみにうちの父方がお念仏で母方はお題目だ、これなら仏教でよろしかろうとなった、それに仏教には絶対神というものがない、まともさ加減は折り紙付きだ―――何なんや、これは。大学進学ちゅうのは、これからの人生のことを考えて決めるべきことやないのか。本当に変わり者だよ、あいつは」と、ここでお話されていた先生と目が合ってしまった。
「あっ、いや申し訳ない。ついつい話し込んでまった。あんたをほったらかしにして」
「そうだった、悪かったね。しかも妙な話を散々聞かせちゃったようだし」
「全くだ。益体もあらへん話を延々と、ほんまにすまなんだ。俺達も、年甲斐ものう夢中になってしもたようや。まあどうでもええことやで、今日のことは忘れとくれな。時間もえらいたってしもたようや。ご両親も心配されとるやろう」
先生方のお話が終わってしまったようで、僕は少し残念だった。でもおそらく一通り話は済んだんだろうと考えた、なら問題はない。そこに応接スペースの仕切りの向こうから担任の先生が顔を出された。そして、もう終わりでしょうか、それにしても時間がかかりましたな、しかも話の内容は教育上好ましいものではなかったようで、とにやにやしながら仰った。どうやらこの四人は知り合い、というか友達のようだ。東の方から来校された三人の先生方はそろって微苦笑されていた。それから担任の先生が、先程の話は結局、あいつの最後の悪戯だったのだろうか、と呟くように言われると、先生方は今度もそろってうーんと考え込まれた。暫くして最初に僕に声をかけられた先生が、そうかも知れない、途方もなく恐ろしいものだったが、しかし嘘とかペテンとかの類いではなかった、ひどく真剣で大真面目な悪戯だった、と仰った。それはそうだろう、と担任の先生、あいつの悪戯には昔散々振り回された、奴さんには大ペテン師の資格が大いにあった、悪戯の折にはしっかり嘘もついていた、しかしながらあいつはよくこう言っていたものだ、嘘には二種類ある、言ってもいい嘘と言ってはいけない嘘だ、そして言ってはいけない嘘はとても悪いものだ、自分はついていい嘘はいくらでも言う、しかしついてはいけない悪い嘘は決して言わない、だからあいつはついてはいけない悪い嘘を平気で言う連中が嫌いなんだろう―――
先生方は三人とも得心したように笑みを浮かべられた。それから僕に向かって、遅くまで引き留めてしまって申し訳なかったとか、兄貴にもよろしく言っておいてくれとか口々に声を掛けられた。そして皆して立ち上がってうちの先生に挨拶をされた。先生が、お疲れ様、今回の講演会のご感想は?と軽い感じで訊ねられた。先生方は莞爾され、一人の先生が、来てよかったよと仰った。うちの先生はにやりとして、そりゃ良かった、じゃあなと言って小さく手を振られた。三人の先生方はこちらに背を向けて笑いさざめきながら帰って行かれた。
学校の帰り道、街はすっかり暗くなった、けれど大丈夫、最近僕はよく夜の道を散歩する。何しろ来月からは中学生なんだ、これくらい慣れておかなければならない。それにうちの先生は案外気が利く、ちゃんと家には連絡をいれてくださっていた、そうだ。きっと時間がかかるということを見越してみえたんだろう。だから家のことも心配いらない。今日あったことを思い出しながらゆっくり帰ることにしよう。まあ、思い出したってよく分からないことばかりだったけど。