待ての出来ない二人
あれから数ヶ月後。
季節は進み、アルベロンドにも春の気配が訪れた。
そこかしこに雪は残っているものの、白い大地の隙間からは緑の新芽が見え隠れしている。本格的な春まであともう少しと言うところだ。
(――まだまだ、春が遠いな)
窓から白い景色を眺めながら、ジルベルトはため息をついた。
このところ、毎日この調子で窓の外を見つめている。
早く雪が溶けてくれないだろうか。雪が溶けたなら草木は芽吹き、花が咲いて、やわらかな春風がやって来る。
そうして春本番になったなら――ジルベルトとフィオレンティナの結婚式が執り行われる予定なのだ。
二人はあのプロポーズのあと、すぐに結婚証書を教会へ提出した。
王子からまた余計な邪魔をされたくなくて、なにより早く夫婦となりたくて。
ジルベルトはその日のうちに証書の準備を整え、大急ぎでデルイエロの教会へ提出した。そして無事に受理され、ジルベルトとフィオレンティナは晴れて結ばれたのだった。
王都へは、デルイエロの教会から通達が出されたようで。
約一ヶ月後に王都から届いたゴシップ誌には【性悪令嬢フィオレンティナ・エルミーニ、結婚】のスクープがデカデカと記されてあった。
【お相手は北の守主、ジルベルト・ノヴァリス伯爵】
【あの『エルミーニの薔薇』が、犬と戯れる姿を目撃――目撃者は語る「別人のようだった」】
【王子クラウディオはマリエッタ・セルヴァ男爵令嬢に婚約破棄を言い渡す。お妃探しは難航か】
(あの王子は、また婚約破棄したのか)
ゴシップ誌には、ほんの小さく、王子クラウディオとマリエッタの婚約破棄についても書かれてあった。厳しいお妃教育についていけなかったマリエッタ・セルヴァを、クラウディオは見限ってしまったらしい。
正直、ジルベルトにとっては彼等のことなどどうでも良いのだが、こんなにもすぐ婚約破棄を選んでいては国民からの信用も失うのでは……と呆れてはいる。心底どうでも良いのだが。
ゴシップ誌を読んで、結婚証書だけでも早く提出しておいて本当に良かったと心から安堵した。婚約者探しに難航している王子クラウディオから、また邪魔でもされたらたまらない。
あと残すところは結婚式のみだ。
その結婚式までが、果てしなく遠いのだが――
『雪が溶けて春になったら――デルイエロの町で、結婚式を挙げたいですわ』
『ああ、ぜひそうしよう』
『結婚式が終わったら……晴れて夫婦となれますわね、わたくし達!』
フィオレンティナが可愛らしくそのように言うものだから、ジルベルトは強く頭を打ち付けられたようなショックを受けた。
こちらとしては、もう結婚証書が受理された時点でフィオレンティナと夫婦となれたと思っていたのに。今後は彼女に対して我慢していたあれこれが、解禁されるのではと淡い期待を抱いていたのに。
しかし、『夫婦』となるために結婚式を待つ彼女の笑顔が眩しくて――ジルベルトはそんな煩悩を前面に押し出すことなど到底出来なかった。
結果、
書類上は夫婦となったが、夜はきっちりと階を分けて寝ているし、
書類上は夫婦となったが、フィオレンティナの人気が凄くてなかなか二人きりにはなれないし……
つまりジルベルトは悶々としていた。
早く結婚式を済ませて、愛しいフィオレンティナを独り占めにする時間が欲しいのだ。
雪国生まれのジルベルトだが、白い雪景色をこんなにも疎ましく思ったことは無い。思わず、窓に向かって雪を睨んだ。
「聞いてくださいませ、ジルベルト様!」
そんなジルベルトのもとに、子犬軍団を引き連れたフィオレンティナがやって来た。
フィオレンティナが名付け親となった子犬・シナモンは、順調にすくすくと大きく育ってくれている。一緒に生まれた子犬達も皆コロコロと転がりながら、フィオレンティナの周りを駆け回っていた。
「どうした、皆可愛らしいが」
「とうとう、シナモンが待てを出来るようになりましたの……!」
日々子犬達の世話をしているフィオレンティナは、少しずつ彼等のしつけも始めたらしい。
動物の気持ちがわかる彼女には、子犬達のしつけもお手の物だった。もうそんなことまで出来てしまうとは。
「良いですか? いきますわよ……」
フィオレンティナはじっとシナモンの瞳を見つめる。そして戯れようとするシナモンを「待て」と制止すると、シナモンは本当にピタリと止まって『待て』をした。
「ほら! 見てくださいませジルベルト様!」
「ああ、凄いな」
「でしょう! この子は凄いでしょう!」
「ああ……」
(本当に凄いな、お前は…………)
ジルベルトは、待てをするシナモンに尊敬の眼差しを向けた。
待てと言われてちゃんと待つ。生まれて数ヶ月の子犬でも出来ることだ。
かたや、ジルベルトなんて二十六年も生きた人間。当然、待つべきであるし待てるはずだ。雪が溶けて春になるまで。結婚式が終わるまで。
ジルベルトが我慢すれば良いだけの話であり、目の前のフィオレンティナはこんなにも純粋で愛しい。
フィオレンティナのためなら待てる。待てるが、しかし――
「ジルベルト様、どうされましたの?」
口数の少ないジルベルトを心配して、フィオレンティナはこちらの顔を覗き込んだ。
その上目遣いは心臓に悪い。思わず彼女へ手が伸びそうになる。
「――いや、何でもない。出来れば、少し離れてもらえると嬉しいのだが」
「な、なぜ……? このところ、ジルベルト様はおかしいですわ。ずっと上の空で、どこかわたくしを避けているようで」
フィオレンティナも、ジルベルトの異変を感じ取っていたらしい。
少し傷付いたような彼女の瞳に、一段と罪悪感は募った。もう隠せない。
「すまない……フィオレンティナ。俺は君以上に我慢がきかないらしい」
「我慢……?」
「フィオに触れたくてたまらない。きちんと、結婚式まで待ちたいとも思うのに」
ジルベルトから漏れ出したのは、ありのままの欲望だった。
こんなもの、フィオレンティナに幻滅されても仕方がない。けれど――
「まあ……わたくしもですわ。ジルベルト様」
フィオレンティナは白い頬を赤く染めて、ジルベルトに抱きついた。
「ずっと二人きりになりたくて、ジルベルト様に思う存分触れたくて……我慢しておりましたの」
「フィオも……?」
「ええ。リリアンには結婚後まで待つように言いつけられておりましたの。ジルベルト様のためを思うなら、待てだって出来ますわ。けれど――」
心なしか、フィオレンティナの瞳まで熱い。
こちらの滾りを映すかのように。
「もう、我慢しなくてよろしいの……?」
その言葉を合図に、二人はどちらともなく我慢をやめた。
互いに視線を絡ませた瞬間、惹かれ合うように口づけを交わして。何度も角度を変えながら重なるそれは、深く、優しく繰り返される。
「……フィオ、愛している。君を前にすると、我慢出来ないくらいに」
「わたくしも愛しております、ジルベルト様――」
彼女の居場所となれた喜びで、この胸は満たされて。
再び巡り会えた奇跡を、触れ合うことで分かち合う。
愛し合う二人に、一筋のやわらかな風が通り過ぎた。
ジルベルトはフィオレンティナの花嫁姿を思い描きながら、アルベロンドの春を心から待ちわびるのだった。
【完】
最後までお読みくださりありがとうございました!




