甘やかな体温
翌朝。
ジルベルトは、窓を揺らす風の音で目が覚めた。
窓には雪混じりの強い風が打ちつけ、ガタガタと窓枠を鳴らす。朝も早い時間であるのか、室内はまだ薄暗い。
目覚めたのは、いつも通りの時間であるはずだった。
しかし……
(………………ここはどこだ?)
薄暗いが、寝ぼけた頭でも分かる。
普段より柔らかなベッド。懐かしい天蓋。
ジルベルトの部屋では無い。
徐々に頭が冴えてきて、次に気付いたのは、鼻をかすめる甘い香りだった。
同時に、左側に感じるぬくもり。腕に巻き付く柔らかな重み。まさかとは思うが……恐ろしくて、左を確認することが出来ない。
(思い出した、昨夜は――)
『ジルベルト様。昔のように、二階の部屋で一緒に寝ませんか』
昨日。夜も更けて寝ようとしていたジルベルトの部屋へ、フィオレンティナが現れたのだ。
彼女はパウダーブルーのナイトドレスを着て、その上から分厚くふわふわとしたガウンを羽織っていた。
ふわふわと透ける金髪は無造作に下ろされ、化粧も落としたのか顔は透明感のある素顔のままで。
その姿は、まるで宵闇に舞い降りた妖精のようだった。
『……な、何を言っている?』
『あの天蓋のあるベッド、ジルベルト様も懐かしいと思いませんこと?』
『懐かしい、が』
『お部屋も使えるようになったことですし、またジルベルト様と一緒に寝たいと思いましたの。昔は毎日一緒に寝てましたわよね』
フィオレンティナは屈託のない笑顔でジルベルトを部屋へと誘った。
瞳はきらきらと輝き、その光には邪念がない。
心からジャスミン時代を懐かしみ、あの頃と同じようにジルベルトと寝ようとしているのだろう。
しかし、誘いを受けたジルベルト側には邪念しか存在しなかった。
フィオレンティナと『寝る』なんて、そんなこと出来るはずがない。
ジャスミンは犬だったかもしれないが、フィオレンティナは人間だ。
しかも王都に名を轟かせるほどの美女であり、そのうえ、ジルベルトのことを愛していると公言していて。さらに性格はまっすぐで、愛らしく、甘え上手なようでいて不器用で、隠し事が下手で――
(フィオと寝る!?!?)
『……駄目だフィオレンティナ。結婚前の男女は、同じ部屋で寝てはならない』
『なぜ?』
『なぜって……もし万が一、間違いが起こってしまったらどうする。そもそも、こんな夜更けに男の部屋へ来てはならない。侯爵家では男女のことを学ばなかったのか』
『そんなものは分かっておりますわ。けれどわたくし、ジルベルト様だからお誘いしているのです。ジルベルト様以外にはこのようなこと言いませんわ』
ジルベルトは男として冷静に忠告をしたつもりであるが、フィオレンティナはびくともしなかった。
輝きを失う事のない大きな瞳には、ジルベルトへの圧倒的信頼がにじんでいる。
ジルベルトだから――幼い頃、共に寝ていた人間だから、無害であると思われているのかもしれない。
(参ったな……どうするか……)
しかし、ジルベルトだって大人の男だ。
『ジルベルト様以外にはこのようなこと言いませんわ』と、そんな嬉し過ぎることを聞いただけであやうく理性は崩れかけた。
フィオレンティナの信用を失うわけにはいかなくて、かろうじてギリギリのところで立ち止まっているが、冗談などでは無く本当にギリギリだ。
こんな静かな夜に、ジルベルトの部屋で二人きり。
今にもこの手は彼女の滑らかな頬に触れて、瑞々しい唇をなぞって、細い腰を抱き寄せて――そんな妄想を実行に移してしまいそうになる。
もし一緒にベッドへ入るなんてことになれば、この脆く頼りない理性は機能するのだろうか。
そこのところ、ジルベルトにはまったく自信が無かった。
『フィオ、信用してくれているところ悪いが、俺は――』
『でしたら、今日だけ。今夜だけでも、一緒に寝てくださいませんか。わたくし、またあのベッドであの頃のように眠れると思うと、夢のようで……』
(うっ……)
断りを入れようとしたはずなのに、フィオレンティナは負けじと懇願した。
その上目遣いは、ジルベルトの弱い部分を正確に射抜いていく。
ジルベルトはフィオレンティナのおねだりに弱かった。結局、これまですべて彼女に流され続けている。喜ぶ笑顔が眩しすぎて、その笑顔見たさでつい引き受けてしまうのだ。
『……わかった、今夜だけ』
『ありがとうございます、ジルベルト様! うれしいですわ!』
フィオレンティナは満面の笑みを浮かべ、ジルベルトに抱きついた。
こうして、二人は一晩だけ夜を共にすることとなったのだが。
(……眠れるわけがないと思ったが、意外と眠れるものだな)
昨夜は結局なかなか寝付けず、徹夜を覚悟していたけれど。
フィオレンティナの体温は心地良く、昔寝たベッドは彼女の言葉通り本当に懐かしくて、いつの間にか二人共眠っていたようである。
しかし目が覚めて冷静になってみれば、そこには理性決壊の危機しか無かった。
左側に感じる、自分のものでは無い温もり。
腕に絡みつく柔らかな何か。
その甘いものから意識を逸らすため、ジルベルトは必死になって天蓋の模様を数え続ける。
なのに、すぐ隣からは無防備にも微かな寝息が聞こえて。
(フィオは寝息さえこんなにも愛らしいのか……)
彼女の寝顔を見てみたい。
どうしても、意識が左腕に持っていかれる。
今でさえ心臓は激しく音を立てているというのに、寝顔なんて見てしまったら平静ではいられないだろう。けれど……
ジルベルトは不安と欲望の間で葛藤を続ける。そんな時――
扉に三回、元気なノックの音。
「フィオ様、おはようございます! 朝ですよー!」
扉の向こうに、メイドのリリアンの声が響いた。
誤字報告ありがとうございます!
反映させていただきました。
 




