君の笑顔を見ていたい
リリアンをはじめ屋敷の者達が張り切ってくれたおかげで、フィオレンティナの部屋はその日のうちに片付いた。
心なしか明るくなった部屋は以前の輝きを取り戻し、すぐにでも使用できそうである。あとは鏡台と絨毯が届くのを待つばかりだ。
しかし、この部屋の主となるフィオレンティナの表情はどうも冴えない。
「……フィオ? どうした」
「えっ……何がです?」
「先程から黙ったままだ。もし、何かこの部屋について気になるところでもあれば、遠慮なく言ってくれないか」
「い、いえ! 気になるところなど何もありませんわ! わたくし、またこの部屋で眠ることが出来るなんて本当に夢のようなのです。今日からでもこのお部屋に移りたいくらいで――」
(『また』?)
今日のフィオレンティナは心ここにあらずだ。
加えて、よく口を滑らせる。
(……隠しごとが下手すぎるな)
そこも、フィオレンティナの美点ではあるのだけれど。
今日、ジャスミンの思いを代弁したフィオレンティナを見て、ジルベルトはようやく合点がいった。
彼女はおそらく、この部屋を知っていたのだ。
ベッドの下にボールが隠されていたことも、絨毯の傷がジャスミンの爪痕であったことも――昔、ジルベルトとジャスミンが、この部屋で共に過ごしていたことも。
部屋だけでは無い。
雪が降り積もる日々、普段ノヴァリス伯爵家で飲まれている茶の香り、子犬を産む母犬の姿、美味しそうに芋を食べる者達の顔――ジャスミンの命が尽きたその瞬間さえ、フィオレンティナは『知って』いた。
そう考えれば、突然アルベロンドへやって来たフィオレンティナの不自然さにも納得がいく。
全てを知っていて、その思い出ごと、この部屋に残したいと望んでいる。ベッドや家具を変えたくないのはそのせいだろう。
彼女が言いたくないのなら、ジルベルトもそれ以上の追求をすることは無い。けれど――
「まさか、このようなことがあるとはな」
「え……? ジルベルト様、なにを仰いましたの?」
「いや、奇跡のようだと思っただけだ」
物憂げなフィオレンティナの頭をそっと撫でてみると、彼女はわずかに身構え、そして気持ちよさそうに目を細めた。
長いまつ毛を伏せ、ツンとした鼻をこちらに向け、もっと撫でて欲しそうにじっとしている。
そんなフィオレンティナの姿から伝わるのは、こちらに寄せられた全幅の信頼だ。
ジルベルトは、この感じを知っている。
ずっと昔に、隣にいたかけがえのない存在。
「フィオ」
「はい……ジルベルト様」
「このボールは、君に渡したほうがいいか」
ベッドの下から出てきたボールは、雪が溶けたらジャスミンの墓に供えるつもりだった。
ただ、ジルベルトは思い直した。ジャスミンの宝物であったボールは、フィオレンティナの手元にあるべきなのかもしれなくて。
ジルベルトからボールを差し出され、フィオレンティナは戸惑いつつも手を伸ばす。
使い込まれた挙げ句にベッドの下で長年放置されたボールは、ご令嬢に触らせるのも躊躇われるほど汚れている。
そんなボールを、彼女は両手でそれはそれは大事そうに受け取った。
「……わたくしが、いただいてよろしいのかしら」
「構わない。フィオが要らないようであれば、ジャスミンの墓に供えようとしていたんだ」
「い、要ります、要りますわ! どうかわたくしに下さいませ。けれど、もしよろしければ……ひとつくらいはジャスミンのお墓に――」
ジルベルトは屋敷の裏口から雪の積もる裏庭へ出ると、ジャスミンの墓がある場所へとフィオレンティナを案内した。
彼女がジャスミンの墓を見たがったためだ。
墓は大木の根元にあるが、雪の季節は墓石までまるごと埋まってしまっている。
雪でこんもりと覆われた膨らみの下にジャスミンが眠っていることを伝えると、フィオレンティナは言葉もなくその膨らみに触れた。
「死んでもなお、お屋敷において下さっていたのですね」
「俺が両親にわがままを言ったんだ。俺のせいで死んでしまったから、せめてジャスミンを近くに埋葬したいと」
「――そうでしたのね。わたくし、何も存じませんでしたの」
フィオレンティナの沈痛な瞳には、じわじわと涙の膜が張る。
「ジャスミンにとって、ノヴァリス伯爵家での思い出は楽しいものばかりでしたわ。死ぬその瞬間までジルベルト様のおそばにいられて、幸せなままその生涯を終えましたの。ですから、まさかジャスミンが死んだことで、ジルベルト様がご自分を責めていたなんて……」
我慢できずにぽろぽろと涙を流すフィオレンティナは、かすかに聞こえるほどの声で「ごめんなさい」と呟く。
謝らなくても構わないのに。
彼女は、ジルベルトを助けただけなのに。
「君は悪くないだろう、むしろ命の恩人だ」
「けれど、ジルベルト様のお気持ちを思うとわたくしは……」
「フィオは、案外泣き虫なのだな」
「だ、だって、どうしても我慢出来ないんですもの。駄目ですわね、ノヴァリス伯爵家では泣いてばかりですわ。王都ではこんなことありませんでしたのに」
涙の止まらないフィオレンティナは、手で泣き顔を隠そうとする。しかしジルベルトは思わずそれを食い止めた。
手で覆われては、彼女の顔が見えなくなってしまう。それでは困る。
「ジ、ジルベルト様?」
「泣き顔も美しいが……君には笑っていてほしい」
「わ、笑っていたいのは山々ですけれど……」
「俺はフィオの笑顔を見ていたい。駄目だろうか?」
大真面目に笑顔を切望するジルベルトは、本当に自覚無く、不器用で。
フィオレンティナは面食らったあと、やっと小さな笑顔を見せた。
「ふふっ……ジルベルト様のお望みのままに」
はにかむ笑顔はほのかに赤く、こちらを見透かすような彼女の瞳がジルベルトの胸を締め付ける。
心に甘い火が灯る。愛しい。可愛らしい。
今度こそ、一生そばにいて欲しい。
ジルベルトは、ようやく笑ったフィオレンティナを力いっぱい抱きしめた。




