ジャスミン
幼き日のジルベルトの部屋から、ジャスミンのボールが見つかった。
それはベッドの下に、ひっそりと――まるで誰にも見せたくない宝物のように隠されていた。
「ジャスミンっていう子は、たしかクリーム色だったのですよね」
「ああ、子供の頃はよくこの部屋で一緒に寝ていた」
「私も会いたかったなあ……ジャスミンちゃん……可愛かっただろうなあ……」
リリアンは絨毯を剥がした後の床を丁寧に磨きながら、うっとりと思いを馳せる。
この屋敷の者たちは、皆、犬が好きだった。リリアンも、仕事の隙を見てはブラック達を撫でまわしていたりする。
そんなリリアンが屋敷で働き始める遥か前に、ジャスミンは息を引き取っていた。十八年前、ジルベルトが八歳のときだった。
「ああ。大きくて、毛並みが良くて……賢い犬だったな。何でも分かってるような顔をしていた」
「ジャスミンちゃんはジルベルト様のことが大好きだったのですね! ジルベルト様の部屋に宝物を隠すなんて」
「ずっと一緒に行動していたんだ。俺も子供の頃は、ジャスミンと一生一緒にいるものだと思っていた」
ジャスミンとは一日中――朝も昼も夜も、毎日を隣で過ごしていた。
幼いジルベルトにとって、ジャスミンは隣りにいるのが当たり前であり、『ジャスミンと結婚する』と宣言して親を困らせたこともある。
その際、母からは『残念だけど、犬とは結婚出来ないのよ』なんて、やんわりと説得された。ジャスミンと結婚出来ない現実は、八歳の少年を絶望させた。我ながら、なかなか変わり者である。
「まさか、こんなところからボールが見つかるなんてな」
「探していたのですか?」
「ああ。ジャスミンに返さなくては」
ボール投げが大好きだったジャスミン。どの犬よりもキャッチが上手で、足もボールに負けない速さだった。
キャッチボールの出来ない天国では、さぞかし暇していることだろう。せめて彼女の墓前に、愛用していたボールを供えてやりたい。
ジャスミンは屋敷の裏手にひっそりと埋葬されている。両親は落ち込むジルベルトを見かねて、ジャスミンに立派な墓石まで用意してくれた。ジルベルトにとって、かけがえのない存在のために。
「――ジャスミンが死んでしまったのは、俺のせいなんだ」
「ジルベルト様のせい……?」
ジャスミンのことを思うと、いつも自責の念に駆られてしまう。
彼女がこの世を去り、もう十八年経ったというのに、ジルベルトの胸の奥にはまだ重く苦しい後悔が残っていた。
「俺があんなことをしなければ、ジャスミンはもっと生き長らえたかもしれないのに」
あの日のことは忘れることが出来ない。
八歳のジルベルトは、両親と喧嘩をしたのだった。きっかけは些細なことであった気がする。いわゆる、ただの親子喧嘩だ。しかしその親子喧嘩で、ジルベルトは屋敷を飛び出してしまった。
飛び出したはいいものの、屋敷の外は想像以上に吹雪いていた。
けれど、幼いジルベルトは歩みを止めるわけにいかなかったのである。なぜなら、屋敷に戻っても喧嘩中の両親がいるからだ。
ビュウビュウと雪で荒れる景色は怖かったけれど、ジルベルトは意地になった。両親を少しくらい心配させてやろうという甘えた気持ちが、小さな身体を突き動かした。
身勝手な甘えは危機感を麻痺させる。
屋敷が見えなくなり、吹雪の中でようやく一人きりの心細さを感じたその時――追いかけてきたのが、ジャスミンだった。
いつの間に追いついていたのだろう。ジャスミンはジルベルトの不安を気遣うように、ピッタリとくっついて離れなかった。
真っ白な視界で方向も分からない状況の中、命からがら辿り着いた木の陰で、ジルベルトとジャスミンは吹雪から身を隠し、身体を温め合った。
ふわふわの毛に、ジャスミンがいるという安心感。限界を迎えた意識は次第に遠退き、ジルベルトは彼女に包まれながら瞳を閉じた。
しかし、その後目を覚ましたジルベルトの隣で、ジャスミンは既に息を引き取っていたのだった。両親の捜索により、発見された時のことだ。
「子供時代の俺が馬鹿なことをしたから、ジャスミンは死んだ」
なぜあの時、外へ出たのか。なぜ、すぐ引き返さなかったのか。だからジャスミンは追ってきてしまった。そして、少年ジルベルトを守ったせいで死んだのだ――
「それは違いますわ」
ジルベルトの昔話に、ずっと黙ったまま耳を傾けていたフィオレンティナは、ようやくその口を開いた。
「ジャスミンは、決してジルベルト様のせいで死んだわけではありません」
「――しかし、ジャスミンが死んだのは俺を守ろうとしたせいだ」
「当然ですわ。ジルベルト様をお守りすることができて、ジャスミンも本望でしょう。ジルベルト様はジャスミンのご主人様なのですから」
「そんな、死ぬことが本望など……」
「吹雪の中、ジルベルト様を守ったのはジャスミンの意思ですわ。ジャスミンはジルベルト様をお助けしたかったのです。ジルベルト様のせいではありませんのよ」
ジルベルトをまっすぐに見つめるフィオレンティナの言葉は強かった。
まるで、その目で過去を見てきたとでもいうように。
「ジャスミンは幸せでしてよ。死ぬ瞬間まで、ジルベルト様のおそばにいられたのですから。楽しいことも、沢山ありましたでしょう? ですから……」
「フィオ……」
「ですからどうか、ジャスミンとの思い出を悲しいものにしないで下さいませ……!」
フィオレンティナは必死になってジャスミンの想いを代弁する。
これはジルベルトのため――だろうか。それとも、ジャスミンのために――?
どんな言葉をかけられても、罪の意識が消えることは無いけれど。
彼女から伝わるジャスミンの言葉は不思議と胸に染み込んで、幼き日のジルベルトも少しだけ許された気がした。




