まだ、自覚のない男
フィオレンティナが行き着いた大木からは、かろうじてノヴァリス伯爵家の屋敷が見えた。
そのため、彼女にはそんなに遠くまで来ていたという自覚が無かったらしい。
確かに、直線距離でみるとそれほど遠い場所では無かったようだ。足跡を追ってぐねぐねと歩いていただけで、随分遠い場所のように感じてしまっていた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでしたわ……」
「いや、無事ならそれでよかったんだ。俺こそ、大声を出したりして悪かった」
「それほどご心配をおかけしたということですわ。申し訳なく……」
「いや、取り乱した俺が悪い」
先ほどから、二人は果てしなく謝り続けている。
フィオレンティナは心配をかけたことで、ジルベルトは大声を出したことで、それぞれ何度謝っても気が済まなくて。
「あのように責めて……君を怖がらせた」
「怖くなどありませんわ。わたくしを思ってのことですもの」
お互い頑固で、キリがない。
謝り合って何度目かに突入したころ、業を煮やしたブラックがジルベルトの足元に何かを落とした。
雪の上に落とされたのは、見覚えのあるボールだ。
「なんだ?」
藁をギュッと固めて、布生地でくるまれた軽いボール――ブラックお気に入りのボールだった。
しかしこれは、つい先日フィオレンティナの豪速球によって姿を消したはずで……
「なぜ、ブラックがこのボールを持っている?」
「……わたくし、ずっと探しておりましたの」
フィオレンティナは、もじもじと恥ずかしげに俯いている。しかしジルベルトを前にしては説明するしかなくて、仕方なく口を開いた。
「ボールはいくら屋敷の敷地内を探してもありませんでしたわ。ならば外に飛ばしてしまったのだと思いましたの。案の定、ボールは敷地の外に転がっておりました。こちらの木の近くに」
「なぜそんな無茶を……」
「だって、ブラックのボールが無くなってしまったのは、調子に乗って投げたわたくしの責任ですから……」
フィオレンティナは、ボールを無くしてしまったことに責任を感じていたようだった。それはジルベルトが思っていたよりもずっと強く。
(こんなに寒いというのに、君は)
「犬にとって、慣れたボールは替えのきかない宝物ですの。宝物を無くしたままには出来ませんわ。ですから……」
「……ブラックも、そう言っていたのか?」
「え?」
彼女がここへ来た日。ブラックの番であるヘーゼルが身篭っていたことを言い当てたあの時。
フィオレンティナは動物の気持ちが分かると言い切った。
あの時は「正気か?」と呆れたが、今となっては彼女を疑う気になどなれなかった。
彼女がそう言うのなら、本当にそのような不思議なこともあるのだろう――彼女が嘘などつくはずもないだろうと、すんなり信じている自分がいる。
「フィオは動物の気持ちが分かるのだろう」
「え、ええ。信じてくださいますの?」
「ああ。ならブラックが何を言っていたのか、気になるところだな」
足元では、ブラックが期待の眼差しをジルベルトに向けていた。やっと見つかったボールで遊びたいのだ。
ジルベルトにもこうして犬の気持ちくらいは分かるが、何を言っているのかまでは到底無理だ。
ブラックがフィオレンティナに伝えたのは、感謝の気持ちか、ボールが見つかった喜びか。それとも――
「……ブラックからは『もう帰ろう』と言われておりましたわ」
「なんだと?」
「彼はフリスビーも好きですから。ずっと『フリスビーでいいから、もう帰ろう』と諭されておりましたけれど、わたくしは……」
なんということだ。それでは必死になってボールを探していたのは、フィオレンティナだけだったということか。
「ははっ……」
思わず声が漏れた。
先ほど勝手に心配して必死になっていた自分と、ブラックのために一人きりで必死になったフィオレンティナが重なる。
「……ジルベルト様、そんなに笑わないでくださいませ」
「す、すまない。思わず」
「これでも、わたくし真剣でしたのよ。一応、深く反省をいたしまして、ボールが見つかるまでは毎日でも探す覚悟で」
ブラックは「もういい」と言っていたのに。
どうしてもボールを探し出したかった彼女の頑固さが、ジルベルトの胸をくすぐった。
頑固で我慢ができなくて、不意に周りを振り回す。きっと彼女はそういう人なのだろう、けれど。
「分かっている。君は、いい人だ」
「えっ」
「……ブラックのボールを、ありがとう」
ジルベルトは足元からボールを拾い上げると、屋敷の方角に向かって強く投げた。
それに気づいたブラックは、弾かれたようにボールを追いかける。
「さあ、いつまでもここにいては凍ってしまう。俺達も屋敷へ戻ろう」
「え、ええ」
ジルベルトは、フィオレンティナに手を差し出した。
彼女は差し出された手に、目をパチパチと瞬かせる。
「え……ジルベルト様、手」
「なんだ」
「……いえ、なんでもありませんわ」
フィオレンティナは遠慮がちにジルベルトの手を取った。
いつも抱きついてくるほど人懐っこいフィオレンティナが、珍しいものだとジルベルトは思った。




