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1 保育園の二人

「はい、みんな。今日は鉄棒をしましょうね」

 遊戯室いっぱいに広がっていた幼児たちに、保育士の声がかかった。その声に、幼児たちは皆一応に顔を向けた。

「はーい」

 その場には、瞬時に反応するこどもばかりではない、まだ遊びに執着している子供などもいた。それでも、保育士達は辛抱強く声掛けをつづけていた。

「鉄棒はみんなが将来地下で働く時に、必要な能力を培ってくれますよ。さあ、一緒にやってみましょうね」

 すでに、クラウディアは保育士達の指示した鉄棒にいち早く取り付いていた。

「先生、私ね、私ね、もう前回りができるんだよ!」

 他の運動が得意そうな幼児たちも、彼女に負けじと歓声を上げながら鉄棒に取り付いていた。

「先生、見て、見て!。僕、出来るよ」

「先生、こっち見て!。私、私なんか何回も連続してできるんだよ」

「ねえねえ、先生!」

「お前、うるさい、僕が先だ。僕が先生に一番先に声をかけたんだ!」

「違うわ。私だもの」

 それを横目で見たクラウディアは一声挙げて、連続前回りを勢いよく始めていた。その激しい回転が、短い髪をふわっと広げていた。

「先生、私、前回りなんで何回でもやり続けられるんだよ。それも、誰よりも早く、長く!」

 保育士達は、そんな歓声に表情を緩ませながら応対していた。こうして、皆が鉄棒に向かうようになったころ、保育士達はできの遅い子に注意を向けるようになる。その一人にアドナーンがいた。

「アド。そろそろ鉄棒をやってみないかしら?」

 アドナーンは、一人でチェス盤を動かしていたのだが、気抜けした視線を保育士に向けた時、いま周囲の友人たちが鉄棒に夢中になっていることに、やっと気づいたようだった。

「鉄棒?」

「そう、鉄棒をやってみない?」

「でも、いまチェスがやっと終わりそうだから......」

「そうなの? でも.......」

 そのためらいの空気を、クラウディアが壊しながら割り込んできた。

「アド。私と一緒にやろうよ」

「ディア。でも、僕、鉄棒できないから......」

 アドナーンは余計にためらった。保育士の前で、ディアまで説得しに来たのは、彼にとって非常にきまりが悪いことだった。そんな彼の気持ちを察したのか、保育士は無理をせずにアドナーンをそのままにしようとした。だが、クラウディアは強引にアドナーンを引っ張り出してしまった。

「あ、待ってってば。ディア」

「早く!」

 アドナーンの苦労して積み上げてきたチェス盤の配置は、いきなりすべて引き倒されてしまった。彼は明らかに怒りを覚えて彼の服をつかんでいるクラウディアの手を振り払った。だが、彼女は意に介していなかった。

「どうしたの? 女の子の誘いを断るの? そう、お父さんにそう教わったのね?」

 最近クラウディアは切り札の言葉を覚えていた。男の忍耐という彼の父親による厄介な教育方針を持ち出せば、アドナーンは黙ってクラウディアの命令を聞かざるを得なかった。ただ、そんなことを知る由もない保育士は、アドナーンがせっかくのチェス盤をひっくり返されたにもかかわらず怒りを抑えたことに驚きつつも、渡りに船とばかりにアドナーンの手を取って鉄棒へ連れて行ってしまった。そして、後ろ髪を引かれる用にチェス盤へ振り返っているアドナーンの様子に気づいていないのか、ほかの保育士がさっさとチェス盤をかたずけていた。それがまた、アドナーンの失望の表情を深くしていた。


 さて、鉄棒は今でもアドナーンにとって苦しみ以外の何物でもなかった。マット運動も、跳び箱も、雲梯も。体を動かすことはことごとく苦手だった。ただ、彼の父親はそんな程度の苦しみを避けることを許さなかった。

「くるしい? できない? それなら苦しみ続けなさい。やり続けなさい。ひたすら、ひたすら、努力、努力だ。ひたすら忍耐をしろ。ひたすら耐えろ。そうすれば、いつかは必ず練達できる。そして希望を持てる」

 確かに、啓典の主の教えにはそのような言葉があった。「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」という神髄の言葉。だが、そのころのアドナーンには、何のことだかわからなかった。ただ、耐え続けなければならないことだけは、理由なしにそういうものだと受け入れてはいた。それゆえ、アドナーンは鉄棒を握った。

 だが、その先は無様な姿をさらすだけだった。

「アド、こうやるんだよ」

 クラウディアの声がかかった。彼女は確かに親切なのだが、ここから繋がる彼女の言葉は、彼にさらなる困難を覚えさせてしまった。

「アド。こうだよ」

 クラウディアはくるりと回ってから、また声をかけた。

「アド、こうだよ。ほら!」

 もう、アドナーンには限界だった。

「やだ。鉄棒なんか嫌いだ」

 そう言うと、アドナーンは一目散に元居た遊戯室の隅へと走り去ってしまった。当然、クラウディアは後を追った。

「どうしたの? 鉄棒ができないんでしょ。だから私が教えてあげているじゃないの!」

「やだ、やだ」

 保育士はやっとアドナーンの傍へ行って彼の顔を覗き込んだ。彼も、ガラスに映づ保育士の顔を睨んでいた。ガラスの外には、反対側の重層部に設けられたアパート群の明かりが映っていた。

「ディアの声、嫌い。ディアのやる鉄棒は嫌い。ディアなんか嫌いだ。あっち行け!」

『何よ。せっかく私が教えてあげているのに! そんなんじゃいつまでたってもできないよ!」

「そうだもん、僕はできないんだ。わざわざそんなことを言いに来たのかよ。やっぱりディアは嫌いだ」

「意気地なし!」

「そうだよ。意気地なしでいいんだもの」

 保育士はこれが限界だと思ってクラウディアをアドナーンから引きはなした。アドナーンには、怒りと劣等感とが渦巻いていた。だが、その時のクラウディアには、アドナーンの感じていることがわからなかった。


 彼は、また一人で遊び始めていた。それを見た保育士は、仲直りのチャンスと見たのかクラウディアに声をかけた。

「ほら、アドと積み木で一緒に遊ばない?」

 そう誘われたクラウディアは、誘われたままアドナーンの隣で、彼と同様に積み木を積み上げていった。そして、アドナーンはバランスよく積み上げていくと、隣のクラウディアはなぜか、ちょっと積み上げると崩れてしまった。何回も崩れてしまうことを経験すると、クラウディアはだんだんやる気をなくし始めた。

「積み木を上に重ねる時、バランスを考えるんだよ」

 バランスという言葉は知っていても、具体的にどんなことをすればいいのか、クラウディアにはわかりにくい説明だった。

「バランス? 何それ?」

「こうやるんだよ」

 だがアドナーンにそう言われてもどうやればいいのか、クラウディアにはわからなかった。

「こうだよ! こう!」

「もう、いや。つまらない!」

 クラウディアは半分泣きべそをかきながら、遊戯室から出て行ってしまった。保育士が後を追ったのだが、クラウディアは暫く拗ねたまま、口をきこうをしなかった。

「ディア。アドが鉄棒嫌いになった理由が分かったかしら?」

 保育士にそう言われたのだが、アドナーンもクラウディアもなかなか仲直りはできなかった。

_______________________________


 この時代、月は本格的な開発の時代を迎えていた。

 超高層ビルこそないが、太陽光の比較的弱い極地域には、いくつもの明るいドームが広がっていた。ドームの材料は炭素カーボンメッシュとタングステンガラスから成る複合透明材料であり、その外には隕石防止用の渦動結界が稼働していた。時々弾き飛ばされ、付近に着弾する隕石の爆発が、その存在を示していた。

 このドーム群は、煬帝国の支配階級が居住する別荘スペースや、煬帝国月開発公司の経済活動スペースだった。そんなドームのちょうど月の北極・南極域に位置する中心に、広大な着陸ステージを有する宇宙空港が設けられていた。ただ、現在では着陸ステージが使われることは無くなり、代わりに上空の静止軌道に孫衛星ステーションが設けられ、そこに多くの艦船が発着ていた。

 今、宇宙空港と呼ばれる地上の施設は、空港と呼ぶよりは月地表上の煬帝国月開発公司の物流拠点として機能していた。そこには、生産基地・採取基地である地下深くへの工区・鉱区からチタニウム・タングステンなどの鉱物資源や工業製品、農業製品がは逐次運び出され、周辺の居住・経済活動地区や地球へと運ばれていた。そして、そんな開発区域に放り込まれた強制移民たちが、宇宙空港直下の階層に幾重にも設けられたスラムのような住居群と、地下深くに設けられた強制労働の現場とを往復する毎日を繰り返していた。もちろん、地下に放り込まれた強制労働者たちが、月世界表面に出てくることは、ありえなかった。

 その強制労働者居住地区には、働く両親たちが預けた子供たちが過ごす保育園が多数設けられていた。暁保育園も、その一つだった。

_______________________________


 保育園の給食では、クラウディアのアドバンテージが光っていた。

「さあ、みなさん、召し上がれ」

 保育士がそう声をかけると、アドナーンのまず始めることは、目の前の皿からピーマンとニンジンをはじき出し、クラウディアの皿に入れてしまうことだった。それがクラウディアに見つからなければ騒ぎはあまり大きくならないのだが、運悪く彼女の目に留まると、彼にとって難儀な時となっていた。

「アド、お祈りはしたの?」

「ほかの子はお祈りなんかしていないもの......」

「でも、私もあんたも、啓典の......」

「ディア、それを口にするなって言われているじゃないか」

「でも、心の中で......」

「そんなことはいいんだよ」

「そうなの? でも......あれ、アド、また私の皿に人参とピーマンを入れたわね」

 クラウディアのその言葉終わらないうちに、アドナーンは食事をしている部屋から飛び出していた。

「待ちなさいよ。アド。逃げられないわよ」

 クラウディアは、アドナーンが逃げ込んだ階上へと駆け上がっていた。しばらくすると、階段室では、クラウディアに首をつかまれて引きずりおろされてくるアドナーンの姿があった。

「わかった、痛い、痛い。止めてよ」

「だめ、今日は力づくで口の中に放り込んであげるから」

 今日のクラウディアはいつもにもまして厳しい口調だった。保育士達も、クラウディアに任せて、口出しをしなかった。こうなると、アドナーンは半べそをかいていた。もう逃げる隙も、これからの災難を避けることもできないことが分かっていたから。

 このように彼は何回も繰り返し責められているのだが、彼は同じことを何回も繰り返すのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白いです! [一言] 追ってまいりますので、執筆頑張って下さい!!!
2023/05/31 12:47 退会済み
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