92話 尾去沢鉱山
大森山の斜面は、比較的なだらかな傾斜になっている。
落葉樹や常緑小低木がびっしりと根を生やし、その根元には花々が咲き乱れ、生物が入り乱れ、動物が走り回り、妖怪が闊歩している。
生い茂る枝葉が、夏の陽光を遮る暗い森の中。10体の小鬼達が、薄く湿った柔らかい山肌の表層を跳ね上げながら、力強く駆け抜けていた。
小鬼の身体能力や知力は、チンパンジーに匹敵する。
チンパンジーに比べて腕力は劣るが、脚力は遙かに優れている。それはチンパンジーが四足歩行で前足を発達させているのに比べて、小鬼は二足歩行だからだ。
したがって総合的な身体能力では、小鬼とチンパンジーは同等と見なされる。
両者は、知力も同程度だ。
様々な研究により、チンパンジーや小鬼の知能は、人間の3歳から4歳児に匹敵すると見なされている。3歳児は、個人差はあるが語彙数が1000単語以上、3語文も扱える。
「ギング ギャィ ギギャ!」(みんな あいつ おそう)
小鬼の1体が、3語文で指示を飛ばした。
鳴き声が響き渡ると、先程まで姦しかった小鳥の囀りも、虫の鳴き声も、森の生命の営みの音が静まり返った。
森の小鬼は、人間や動物だけではなく、小鳥や虫なども捕食するのだ。
鹿角市の大森山において、食物連鎖の上位に座す小鬼達が駆け抜ける中、上空から黒い影が次々と降ってきた。
「ギィャッ!?」
降ってきた何かが小鬼に触れると、その影は小鬼と繋がったまま、上空へと舞い上がった。
叫ぶ小鬼を無視して飛び上がった黒い影は、数十メートルほど舞い上がったところで、小鬼を投げ飛ばした。
「ギャアァギャァッ」
空中に投げ飛ばされた小鬼は、四肢と持っていた棍棒を振り回しながら、落下していく。
そこに別の影が現れて、真っ赤な炎を吐き出した。
身体を強張らせた小鬼が、炎に飲み込まれる。
それが単なる炎であれば、一瞬飲まれたくらいでは逃れられたかもしれない。
だが吐き出された炎は、神気を帯びていた。そのため物理的な攻撃に留まらず、小鬼の妖気を焼いて、魂を浄化した。
呪力の波で魂を吹き飛ばされた小鬼は、絶命し、無抵抗に墜落して、山肌を転がっていった。
その横では、他に3体の小鬼達が、空を舞っていた。
投げ飛ばした黒い影は、空中で急旋回すると、残る小鬼達を追い掛け回す。
「ギング ギゲゥ」(みんな にげろ)
圧倒的な力の差を理解した小鬼達が、慌てて逃げ出した。
すると小鬼達の上空から、青、白、黒、黄の光が飛ばされていく。それらは木、岩、水、土の槍と化して、小鬼達の背中を貫いた。
4種類の槍の効果は、先に浴びせられた炎と同様だった。小鬼達には過剰すぎる神気の奔流が、妖気を消し飛ばしたのだ。
小鬼達の小集団を蹴散らした黒い5つの影は、次の集団に向かって、飛び去っていった。
「あいつらの派手なパフォーマンスは、鬼に上下関係を教え込むためにやっているのかな」
一樹の思い付きに対して、蒼依は微笑んだ。
「そうかもしれませんね」
そもそもカラスは、巣の周囲にテリトリーを作る生き物だ。
子育ての時期に何かが近付けば、観察、威嚇、攻撃をして、追い出す習性がある。
であれば、カラスと混血した八咫烏達も、テリトリーを作る習性があっても不思議はない。
八咫烏達は子育てをしていないが、式神なので、使役者の一樹や、式神仲間で育ての親である蒼依を守ろうとする。
鬼に威嚇や攻撃をするのは、テリトリーを主張する行為だと考えれば、派手さにも納得できた。
なお、地獄で妖気を知覚し続けた一樹は、一つの市を覆う以上に感知できる範囲が広い。
それを共有する八咫烏達が主張するテリトリーは、感知できる範囲全域だ。
「このままだと、鹿角市の全域から、鬼が追い出されるが……まあ良いか」
一樹が割り切ったのは、かつて協会長に諭されたからだ。
『人間や妖怪は、自然の一部だ。我々の活動で生態系が変化しようとも、不都合が生じて再構築しようとも、なるようになる。気にする必要はない』
昔から妖怪は日本中のどこにでもいて、現代では概ね対応できる。
E級以下は、5.56ミリ小銃。
D級の中鬼は、12.7ミリ重機関銃。
C級の中魔は、個人携帯対戦車弾。
八咫烏が追い散らせる程度の妖怪であれば、現代兵器が通用する。
そして人間の領域が危険だと教え込まれている妖怪は、あまり人里に来ない。
妖怪の領域である山や、森の中を移動するのであれば、普通に暮らす人間に影響は無い。そこで何が起ころうとも、「なるようになる」というのが協会長に諭された話だ。
一樹が懸念するのは、大森山を流れる地脈の力を得た怪鳥だけだ。
かつて倒された怪鳥は、両翼24メートル、全長は推定で8.8メートル。
だが小柄な小鬼程度では、餌にならないらしく、一樹が感知できる周辺にはいなかった。
「それじゃあ、怪鳥を呼び寄せるために陣を敷く。付近の妖怪は八咫烏達に任せるとして、蒼依達は、放棄された尾去沢鉱山の事務所で、宿泊の準備をしてくれ」
「分かりました」
蒼依の返事と、沙羅の頷きを確認した一樹は、折れていた木の幹を拾った。
そして尾去沢鉱山の地面に、大きな陣を描き始めた。
相手が妖怪であれば、何らかの習性や法則を持っている。
今回の場合、大森山の怪鳥は、地脈から金行の力が流れ込んで変じた。すなわち、地脈から流れる気が、怪鳥の力の源だ。
それを堰き止めれば力が減じるし、地脈の流れを変えれば誘導もできる。
五行相克図では、火剋金で、金に勝つのが火だ。
五行相生図では、土生金で、土から金を得る。
それらに基づけば、火行を用いて、地脈から流れる金行の力を追い立てる一方、土行で引き寄せる陣を描けば良い。
地脈に影響を与えるほどの呪力を流し込む必要はあるが、それは一樹自身が保有している。
力押しだけでも可能だが、雪女を引っ張り出したときと同様に、五行だけ変えた呪術図形・ドーマンで補強すれば効果的だ。
地脈の力を得ている怪鳥は、地脈を堰き止められて流れを変えられれば、力を維持するためにも引き寄せられざるを得なくなる。
「調伏するには、由来を知ることだ」
蒼依と沙羅が事務所に移動し、一樹が一人で黙々と作業をしていたところ、一樹の影から水仙が姿を現した。
一樹は全ての式神に対して、顕現して全力で戦えるだけの呪力を、常時与えている。
牛鬼などが街で顕現すると大混乱が生じるため、普段は勝手に出て来ないようにしているが、人に化けて紛れ込める水仙に関しては、一樹も好きにさせている。
電車代を浮かせるために影の中に入っていた水仙だったが、移動が終わって、蒼依と沙羅も離れたことから、雑談をしに出てきたらしくあった。
「ダーリン、羽団扇を作るのは良いんだけど、魔王と戦うのは止めた方が良いよ」
水仙の言い分に、生存と繁殖が最優先の絡新婦らしい主張だと、一樹は納得した。
死後に霊的存在となっている水仙は、悪魔の孫であり、A級の大魔に至れば受肉できる。
出会った当初はC級上位だったが、一樹に使役されてB級下位に上がり、幾らかの捕食とムカデ神との戦いを経て、現在の力はB級中位に達した。
使役での強化は一度きりで、ムカデ神との戦いのようなこともイレギュラーだ。
だがB級を何度も倒す一樹の活動レベルであれば、水仙が順当に従っていても、陰陽師として定年を迎える44年後までにはA級に上がる。
本来であれば、これほど早く怨霊の力が上がることは無い。
それは敵を倒すために力を消費するし、倒した相手の力も取り込めないからだ。数百年単位で怨念を募らせて、ようやく1段階上がる程度だろう。
それに成長しない怨霊には強大化に限界があって、生者のように格を上げる事は難しい。小鬼の怨霊が、中鬼レベルに膨れ上がることは、有り得ないのだ。
水仙の力が上がるのは、一樹の呪力を使っているので消費が無い一方、式神として顕現しているために捕食も出来るからである。
「俺が死んだら、B級中位の怨霊には成れるだろうけれど、そこから調伏されずに千年くらいは永らえないと、格は上がらないだろうからな」
一樹が手を休めずに呟くと、隣に立った水仙は、大いに賛同した。
「そうそう。魔王と戦ったら、半々以上の確率で死んじゃうよ。この前、逃げられたのは、海鳥の式神とか三尾の狐とか、魔王にとっての初見がたくさん居たからだよ。次は死ぬからね」
「的確なアドバイスだと思うぞ」
水仙の言い分には、一樹も納得した。
魂に染み込んだ穢れを浄化しない限り、極楽浄土に行けないという大前提が無ければ、一樹も魔王を倒す必要性を感じなかっただろう。
穢れを抑え込むために持たされている陽気がS級下位。
自分の魂と繋がっていない邪であれば、同量を祓ったところで穢れは落ちないだろうが、10倍であれば流石に落ちるだろう。
S級下位100万の10倍だとすれば、SS級下位で1000万。
ムカデ神で100万を祓ったので、残り900万。
誤差もあるだろうが、幽霊船や絡新婦の母体を祓っている。
荒ラ獅子魔王はS級中位と評価されており、200万になる。
――死後に苦労するのは、一度で充分だ。
特殊な事情を踏まえた一樹の感覚は、「安全に倒せるなら、倒してみるか」だった。
「魔王に殺されてやる気は無い。A級に上げられるなら、上げてやるから、従えよ」
「そんなことを言われたら、従うしかないけれど、本当に気を付けて欲しいな」
逃がすことを諦めた水仙は、渋々と、近くに生える木の幹に背中を預けた。
水仙が大人しくなったところで、一樹は作業に集中した。
『火行を用いた火剋金で金行を堰き止め、土行を用いた土生金で金行を流す』
火行を強化するのは、木行だ。
一樹は陣の上を歩き、自らの呪力を木行に変えて、陣にある火行に流し込んだ。
父親の和則が命名した一樹とは、『世界にしっかりと立つ1つの樹』の意だ。一樹自身は、今世における自身の立場でもあるとも自覚している。
和則は『木の有から、無の紙になった符を、1つの樹(有)の一樹が力を加えて再び流転させる』として、一樹が作る符呪の力を増す名を与えた。
そして一樹は符呪のみならず、無を有に、陰を陽に変える力で式神にも適用範囲を広げている。
『臨兵闘者皆陣列前行。天地間在りて、万物陰陽を形成す。我が名は、一樹。神気を宿す、一つの樹なり。陰陽の理に基づき、我が樹(名)を、そして我が気を以て、火行に力を与えん。然らば、火行は、金行の流れを堰き止めよ。火剋金』
一樹が陣に力を注ぐと、尾去沢鉱山にあった地脈の流れが、燃え盛る1本の巨大な木によって、堰き止められていった。
荒れ狂う濁流と化した地脈が、幾度も波飛沫を上げる。
だが巨大な壁と化した燃える木は、金行の流れを受け止めて、逆に押し返した。
一樹が呪力を送るごとに、呪力の大木は天へと伸び続けて、青葉を一斉に生い茂らせていく。
青葉には火が燃え移り、それが落葉して金行の流れを、天から叩き伏せる。
そこで一樹は、新たな陣を起動させた。
『土生金』
完全に封じ込まれた地脈の金行に、新たな道が作られた。
陣の上をグルグルと周回して、地脈の力を浪費するだけの、無駄な流れである。
だが封じられた地脈は、そこを流れる以外に道が無い。新たな流れに沿って、金行の光が黄色く光り、大地が地熱を放ち始める。
これによって怪鳥に繋がっていた地脈の力は、完全に封じ込まれた。
次第に赤く染まる夕焼けを見上げると、一樹は静かに目を閉じた。
























