85話 荒ラ獅子魔王
「今すぐ、逃げよ」
獅子鬼が跳躍したのは、良房の警告と殆ど同時だった。
斧の重さなど感じさせない大きな跳躍で、大きく飛び上がった獅子鬼は、降下していた義一郎に斧を振るっていた。
獅子鬼が身長150センチメートルの人間であるならば、義一郎は割り箸の21センチメートルや、500ミリリットル入りのペットボトルの長さ20.5センチメートルよりも小さい。
そんな獅子鬼の振るう斧の斬撃が、轟音と共に義一郎に迫っていく。
刹那、義一郎の身体から桃色の光が煌めき、1羽の海鳥が姿を現わした。
『竜宮壁』
義一郎を包んだ桃色の膜は、斧の衝撃を大きく緩和させた。
「一体、何が!?」
一樹が呆然と眺める中、原形を保ったままに叩き飛ばされた義一郎は、富士山の山肌に激しく衝突していった。
サイズ的には、割り箸やペットボトルに、斧の刃先を叩き付けたようなものだ。あるいは、野球のバットで殴り飛ばしたようなものだろうか。
大型トラックで人間を弾き飛ばすどころか、3階から4階建てのビルを投げ付けて、それで人間を押し潰したにも等しい。
対する桃色の光は、どれ程の緩和があったのか。
とても無事とは思えなかったが、獅子鬼は健在で、今は義一郎の安否を確認するどころではなかった。
他方、義一郎の懐からは、桃色の海鳥が飛び出していた。
海鳥は高速で飛び回りながら、口から水弾を吐き出して、獅子鬼に浴びせ掛ける。
その水が獅子鬼の身体に触れると、酸が掛かったように身体から白煙が上がった。
「グゥヌウッ!?」
水を浴びせられた獅子鬼は、思わず呻き声を上げた。
海鳥は飛び回りながら、女の声で嘆声を上げる。
『だから各地に統括者を配置しろと、何度も言ったのよ』
嘆いた海鳥は、さらに水弾を生み出して、獅子鬼に浴びせ掛ける。
それは僅かな量であったが、獅子鬼を苦しめた。
『フルオロアンチモン酸って、ご存じかしら』
フルオロアンチモン酸とは、最強の酸性を持つ化学物質だ。
自然界には存在せず、硫酸の1000倍の強さを持つ超強酸と比べて1京倍という強さを持ち、有機物全般を溶かせる。
2013年9月、韓国の工場でフッ化水素酸が漏れた爆発事故では、従業員が全員死亡した。
さらに現場に駆け付けた警察や消防、地域住民など3572人も死傷し、周辺は特別災難地域に指定された。
また日本でも悲惨な事故や、犯罪でも使われており、死者も出している。
恐ろしい化学物質を浴びせられた獅子鬼は、斧を振り回して、突風を巻き起こした。
それは単なる物理的な突風ではなく、妖力を籠めて放った風の術だった。
水弾を吹き散らされ、さらに吹き飛ばされた海鳥は、天高く舞い上がっていく。
『ああ、やだやだ。あたしって、本当は、か弱い系の女子なのに。イメージが酷いわ』
高らかに舞い上がった海鳥は、獅子鬼の直上から水弾を落とし始めた。
対する獅子鬼は、斧を振るいながら術を使い、水弾を吹き散らしていく。
その時、現地の部隊に無線が入ってきた。
『陰陽頭・諏訪頼軌より、全陰陽師に撤退を命ず。五鬼童は、八百八狐で回収する』
通信を耳にした一樹は、慌てて戦闘指揮所から飛び出した。
A級1位の諏訪は、建御名方神の御魂を宿らせる現人神であり、人間に乗り移り託宣を行える。
無線機を持つ誰かに乗り移ったのであろうと考えた一樹は、いかに危機的な状況なのかを理解した。一樹は巡視船の戦闘指揮所から飛び出して、巡視船の甲板に走り始めた。
諏訪が指示を飛ばす間、すでに黒鬼は、北にいる花咲の側へと駆けていた。
相手を観察していたのは、人間側だけではない。
人間が蜃を観察する間、獅子鬼達も人間側の戦いを観察していたのだ。
犬神使いである花咲は、式神こそA級であるが、術者自身は中級陰陽師に過ぎない。それを見定めた黒鬼は、不意を突いて瞬く間に駆け寄ると、花咲に斧を振り下ろした。
A級の鬼が振るった斧は、D級陰陽師の身体を一撃で粉砕した。
そのまま花咲を踏み付けた黒鬼は、術者との繋がりを断たれた犬神が無念そうに消えるのを見届けた後、協会長を探した。
協会長は、自衛隊の車輌に乗り込み、北の富士吉田市へと逃げていた。
「A級1体を倒しに来て、S級1体とA級1体の増援など、冗談ではない」
事前の避難命令によって、道路は空いている。
爆走する車を見た黒鬼は、それを走って追い始めた。
全長8メートルの黒鬼は、身長160センチメートルの人間の5倍の大きさだ。
歩幅は5倍で、力も尋常ではなく、走ればオリンピック選手どころではない速度になる。
「くそ、先に呪力を使いすぎたか」
愚痴をこぼした協会長は、呪術を唱えながら、窓から呪符を次々と放り投げた。投げ出された呪符は、狸の姿を形作ると、足止めを図るべく黒鬼に向かっていく。
それから次々と爆発が発生していった。
その間、獅子鬼は手にしていた斧を上空に投げ飛ばしていた。
斧は回転しながら飛んでいき、素早く躱した海鳥と交差した瞬間、粉々に砕け散った。
飛び散った斧の破片が、至近を飛行する海鳥の身体を乱打する。
『ここまでかしらね』
無数の破片には、大量の妖気が籠められていた。
それによって術を破壊された海鳥は、ついに力を失って墜落を始めた。
落ちていく海鳥は、かつて一樹が無人島で見た、桃色の髪の女性が髪に挿していた珊瑚の簪に戻っていった。
ひび割れた簪は、北富士演習場の片隅に落ちて、無力に転がる。
それを踏み潰した獅子鬼は、呪力で新たな斧を生み出すと、山中湖上に向かって駆け始めた。
すでに巨大な鳩を生み出した一樹は、巡視船を消して、空に逃げている。
良房は時間を稼ぐべく、巡視船を飛び降りて、湖上を獅子鬼に向かって駆けていた。
湖面に映る姿は、人から白狐へと変化していき、次第に大きくなっていく。
『一度生を享け、滅せぬもののあるべきか』
やがて獅子鬼の半分ほどの大きさに変じた白狐は、その巨体で獅子鬼に襲い掛かった。
『狐火』
飛び掛かった白狐は、正面に巨大な炎の塊を生み出して、獅子鬼に飛ばした。
炎を投げ付けられた獅子鬼は、炎塊に斧を叩き付ける。
籠められた呪力同士がぶつかり合い、発生した衝撃が大気を振るわせた。
『これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』
狐火が消えた瞬間、白狐は獅子鬼の右手に食らい付いていた。鋭い牙で噛み付いた白狐は、身体を捻って獅子鬼の皮膚を噛み裂く。
獅子鬼は左手を振り上げて、白狐を殴ろうとした。
その時、上空から100羽の鳩が飛び込んできた。瞬く間に飛び掛かった鳩が、獅子鬼の全身を打つ。
「ええい、忌々しい」
苛立ちの声を上げた獅子鬼は、左手で白狐の首筋を掴むと、腹を右足で蹴り飛ばした。
何度も蹴ると、やがて白狐の術が解けて、一樹が奉納した人型に変じて消え失せた。
獅子鬼が空を見上げると、第二陣となる式神の鳩達が飛んで来ている。周囲には、自衛隊の部隊も配置されており、味方の陰陽師が消えれば砲撃を再開するのも時間の問題だ。
一つ舌打ちをした魔王は、部下と使役する龍に命じた。
「羅刹、戻るぞ。蜃、起きろ」
『ははっ、畏まりました』
再び動き出した蜃が、気を吐き出した。
すると獅子鬼と羅刹の身体は、蜃気楼の中へと消えていった。
◇◇◇◇◇◇
臨時の常任理事会が開かれたのは、富士山麓での交戦から4日後だった。
奈良県にある協会本部に集ったのは5人。前回と比べると、義一郎と花咲の姿がなく、代わりに諏訪と豊川が姿を見せている。
先の交戦では多数の死者を出したが、陰陽師の殉職者は、7位の花咲だけだ。
ただし、狐達に回収された義一郎は、脊椎を損傷する重傷だった。
脊椎の損傷は、位置と程度によって障害の状態が変わってくる。
脊椎とは背骨のことだ。背骨は、上から頚椎7個、胸椎12個、腰椎5個、仙骨と尾骨で、合計26個で構成されている。
そして背骨の中間に保護されるように、脊髄という神経の束が伸びている。
人間が身体を動かそうと思ったとき、脳が神経を介して動くように指令を出している。脊髄が損傷すれば、脳からの命令が届かなくなり、身体を自由に動かせなくなる。
脊髄は、脳に近い位置から、頚髄、胸髄、腰髄、仙髄に大別されている。そして脳に近い位置の脊髄が損傷するほど、身体の上から動かなくなる。
義一郎は、背骨が折れて、脊椎を損傷した。
現代の医療技術では脊椎損傷を治し切れず、鎌鼬も頭と身体を切り分けて治すなど無理だ。そのため義一郎の引退は不可避で、協会は真のA級2人を失ったのだ。
――流石に協会長も、顔色が悪いな。
協会長の顔色は、血の気が引いて白くなっている。
対する宇賀は、「だから言っていたでしょう」と目で訴えている。
遥か以前から危険を伝えてルールを設け、自分達が参加しないくらいに危ういのだと警告して、宇賀は五鬼童に簪を持たせ、豊川は一樹に白面の三尾を付けた。
人間の陰陽師達を束ねる組織であるが故、人間を会長に据えて、行動を決めさせているが。
「豊川様、良房様のご助力に御礼申し上げます。おかげで助かりました」
「あれは、奉納に対する御利益ですので」
一樹が感謝を伝えると、豊川は素っ気なく応じた。
肝心の魔王達は、蜃の損傷が大きかったのか、そのほかの理由なのかは判然としないが、あれから姿を消している。
避難命令は、神奈川県の山北町に限って解除された。だが静岡県の小山町、御殿場市、山梨県の富士吉田市、山中湖村、忍野村の住民は、自宅に帰れていない。
荷物が必要で勝手に帰った者もいたが、効果の高い守護護符を持たずに入った者は、蜃に気を吸われて絶命した。そのため避難地域への進入は、禁止が徹底されて、道路も封鎖された。
相手の正体について宇賀は、荒ラ獅子魔王と配下だろうと予想した。
「魔王はS級中位で、羅刹はA級中位に思えるわ。蜃は、魔王の式神のようなものかしらね」
宇賀の評価を聞いた一樹は、獅子鬼が引き上げた理由に思い当たった。
一樹が使える気は、100万ほどの神気と、50万ほどの龍気だ。式神の使役に60万を使っており、自由に出来るのは90万となる。
それら90万のうち、8割ほどを蜃に叩き込んだ。
普通に計算すれば72万ほどのダメージを与えたはずだが、幽霊巡視船の砲撃は、燃費が悪い。いくらか弱まるが、それでも蜃がA級上位の40万以下であれば、おそらく倒せる。
だが蜃が、式神のような存在であれば、話は別だ。
獅子鬼がS級中位で、200万の呪力を蜃の回復に充てたならば、蜃は滅びない。
一樹の攻撃によるダメージを回復させ続けた獅子鬼は、妖気を想定以上に消費させられた。さらに宇賀や良房の攻撃を立て続けに浴びて、それなりに手傷も負って引いたのだ。
――地蔵菩薩の神気は、効くはずだが。
推定・荒ラ獅子魔王は、かつて毘沙門天と戦って敗北し、逃げ延びた。
仏教の仏は、如来、菩薩、明王、天部の序列順で分類される。
明王と天部との力の差は、逸話で分かる。
天部にして四天王でもある毘沙門天は、ヒンドゥー教ではクベーラと呼ばれる。
クベーラはヒンドゥー教の三主神である破壊神シヴァ(ヴィシュラヴァス)の息子だ。
クベーラとシヴァでは、シヴァのほうが強いとされるが、そのシヴァは明王である不動明王に連行されて、踏み殺されて、蘇生されている。
したがって天部(毘沙門天)と明王(不動明王)では、明王のほうが力は上だ。
そんな明王に命を下したのが釈迦如来で、菩薩は如来になる修行過程の者達だ。
そのため仏の序列は、如来、菩薩、明王、天部となる。
毘沙門天で倒せたならば、地蔵菩薩の神気も効くはずだ。
だが蜃の蜃気楼を使って逃げ果せたのであれば、逃げ隠れする力は相応だ。
「S級は、手に負えないわよ。あの辺りは、妖怪の領域になったと認識しなさい」
宇賀は協会長と一樹に向かって、認識を改めるようにと言い聞かせた。
魔王は肉体を持っている様子だったので、現代兵器も効かないわけではない。
だが蜃気楼の中に逃げられると通じなくなる。兵器で倒すのも困難だ。
「花咲は、暫くしたら犬神が一族の誰かに憑くわ。五鬼童は、嫡男がB級上位で、まだ伸びる。その2人をA級の後継にすれば良いわよ。それとB級も増やして頂戴」
協会長に対して、A級候補を指名した宇賀は、さらにB級の昇格も求めた。
「5月の常任理事会で、昇格できる者は昇格させております」
「その後に上がった五鬼童家の娘とか、元から上がっていた娘とか、居るでしょう。静岡だって、本当は居たのだし。直ぐに統括者にさせなくても、手が増えるだけでも良いわよ」
宇賀は一樹のほうを見ながら、語気を強めて告げる。
――槐の邪神退治で、豊川様が沙羅を視ていたか。
B級陰陽師が仕事をすれば、統括者の仕事と負担が減る。
一樹には、魔王が出た時期に昇格させたくない気持ちもあった。だが現状に鑑みて、沙羅と凪紗をB級に推薦する旨を伝えた。
今話にて、第3巻(約11万字分)が終了しました。
次話以降は、月曜&金曜の18時で予約投稿しました。
引き続き、お楽しみ頂けましたら幸いです。
























