83話 妖怪・蜃
瀬戸内海のクルージングから帰った日の深夜。
身体に怖気が走った一樹は、熟睡状態から不意に覚醒した。
ベッドから置き時計に手を伸ばし、点灯させたところ、時間は深夜2時を過ぎたところだった。深夜2時から2時半は、藁人形に釘を打ち込むのに最適な丑三つ時である。
――真夜中か。
8月10日は、夏休みの真っ最中だ。
だが相川家のライフスタイルは、昼夜逆転しているわけではない。夜中に動き回れば、蒼依に迷惑が掛かる。
そのため一樹は、スマホを手にしてニュースを検索した。
だが生憎と、発生源が都市部でもない限り、深夜2時過ぎに何かが発生したところで、即座にニュースに載ったりはしない。
一樹は感覚を研ぎ澄ませて、花咲市を見渡すイメージで気を飛ばした。
――花咲市ではないな。
気を感知することに関して、一樹は他の追随を許さないと自負する。
それは地獄にいた頃、責め苦を行う獄卒の鬼達の動きを感知し続けてきたからだ。
長年続けていれば、意志とは無関係に、魂に刻み込まれる。一樹よりも感知できる者など、居るわけが無い。
感知範囲を広げた一樹は、市内全域に一樹を殺せるほどの脅威は無いと断じた。
A級である花咲家の犬神は感じ取れたが、それが襲ってくることは有り得ない。就寝中の一樹が襲われるような脅威は、市内には存在しない。
だが遠方でありながら一樹を起こしたからには、最低でも一樹以上の力を持つとも判断した。
「明日……今日は、面倒になるな」
これから数時間は、事態が判明しないと思われる。
一樹が呼ばれるとしても、朝以降の話だ。
その際に徹夜なのか、睡眠を取った状態なのかは、対応能力に大きく影響する。
念のため、幽霊巡視船員の夜番を増やさせた一樹は、再び眠りに就いた。
◇◇◇◇◇◇
およそ6時間後。
一樹は相川家にある自分の事務所で、テレビの緊急報道番組を視聴していた。
深夜に起きた原因については、テレビが頻りに伝えている。
『本日5時17分、妖怪災害による避難命令が発令されました。該当地域の皆様は、直ちに避難して下さい』
テレビのテロップには、避難の対象地域も流れている。
静岡県は、小山町、御殿場市。
山梨県は、富士吉田市、山中湖村、忍野村。
神奈川県は、山北町。
『避難範囲は、拡大される可能性があります』
テレビの中継ヘリが流している映像は、静岡県の北側、富士霊園などがある小山町の上空だ。
小山町の田園地帯には、大きな建物が見当たらない。
そんな長閑な地域で、龍のような怪物が、蛇のように這いずっていた。
大きさは、一樹が使役している全長117メートルの幽霊巡視船にも匹敵するだろうか。
30階建てのオフィスビルほどの巨大な怪物は、大地に這いずった跡は残さずに迷走している。付近には、道路脇に停車した車があり、幾人かの住民も倒れ伏していた。
倒れた人間は、一見すると無傷だが、ピクリとも動かない。
一樹がインターネットで調べたところ、小山町の西側には、陸上自衛隊の富士演習場があった。富士演習場には、滝ヶ原駐屯地、板妻駐屯地、駒門駐屯地など、沢山の駐屯地も連なっている。
普通科教導連隊、教育支援施設隊、教育支援飛行隊、第34普通科連隊、第3陸曹教育隊、機甲教導連隊、特科教導隊、第1高射特科大隊、第1戦車大隊……等々。
教導と付くのは、他の部隊を教育するエリート集団だ。
龍が迷走しているのは、自衛隊でも優秀な部隊が、怪物に砲撃を加えているからだと思われた。
「実体を持つ妖怪なら、おそらく倒せるだろうけどな」
近代以降の兵器は、妖怪に対して、目覚ましい戦果を挙げている。
だがテレビ映像からは、今回の相手は、実体を持っていないように見える。
砲撃が、蜃気楼を通過するように通り抜けていくのだ。
攻撃を続ける自衛隊も、物理で仕留めるのは難しいと判断している。
そして現在は、国民を避難させる時間を稼ぐ一方で、政府を経由して協会に対応を求めてきた。そのため協会は、オンラインで臨時の常任理事会を開催するに至った。
『それでは会議を始める。諏訪様と豊川様は欠席されるが、宇賀様が委任されている』
協会長の向井が宣言して、珍しい形式での常任理事会が始まった。
一樹の机のモニターには、協会の常任理事7名のうち、序列1位の諏訪と、序列3位の豊川を除いた5名の姿が映っている。
テレビを消音にした一樹は、自身から送る音声はオフにしたまま、協会長の話に聞き入った。
『まずは宇賀様より、あの怪物についてご説明がある。宇賀様、お願いします』
協会長に話を振られた宇賀は、軽く頷いてモニター越しに話し始めた。
『あれは、蜃気楼を発生させる妖怪・蜃よ』
断言した宇賀に、あらかじめ聞いていたであろう協会長を除く全員が驚きの表情を浮かべた。
――人魚の予知か。
根拠に思い至った一樹は、その利便性に感心すると同時に、宇賀の境遇に同情した。
数百年も若いままに生きられる肉と、精度の高い予知能力を併せ持てば、権力者に狙われるのは必然だ。人間の力が増すごとに、宇賀が自由に生きられる範囲は狭くなっていく。
宇賀の判断の根拠を理解した一樹は、次いで蜃について思い馳せた。
蜃は、中国前漢の武帝の時代(紀元前)に司馬遷が記した『史記』天官書に載る。
『海の傍の蜃の気は、楼台(建物)をかたどる』
すなわち蜃気楼とは、蜃が吐く気で生じる光景だ。
蜃気楼を生み出す蜃とは、龍の成長途中である蛟竜と同じ属に分類される。
属について人類で表すならば、現代人と、100万年ほど前に分化した原人達が、同じ属だ。
脳が現代人の半分で、身長も最大で135センチメートルほどのホモ・ハビリスは、現代人と同じ属に分類される。
その両者と同様に、蛟竜と蜃は、似て非なる存在だ。
『蜃は、大きな龍の一種だと思ってくれて良いわ』
書物によっては、ハマグリが妖怪・蜃と間違われることもあるが、それには理由がある。
蜃という漢字は、『大ハマグリ』を表すが、元々『ハマグリ』は、辰と書かれていた。
辰は、ハマグリが貝殻から足を出している象形文字だった。
だが辰は、十二支の龍として使われるようになった。そのためハマグリは、辰に虫を付けて、蜃と呼ばれるようになった。
『史記』と同時期に編纂された『礼記』では、蜃に龍とハマグリの2説があるのは、ハマグリの蜃が、龍の蜃と同名であるために混同された間違いだと記されている。
中国の薬学書であり、世界記録遺産にも登録された『本草綱目』(1578年)には、龍の蜃が吐く気や、その脂で作った蝋燭の炎の中に楼台を現す様子などが細かく記されている。
それに対して、ハマグリの蜃は、海産物として食べ方などが載っている。
どちらが蜃気楼を生み出す蜃であるのかは、中国の『本草綱目』を読んでも明らかだ。
――ハマグリが、蜃気楼を吐くわけが無い。
龍とハマグリの両方に蜃という漢字を使う『本草綱目』は、1607年に日本にも輸入されて、徳川家康に献上されて研究されている。
そして本草学者(医薬学者)の貝原益軒による本草書『大和本草』(1709年)では、蜃を龍の一種だと記した。そのため、当時の知識層には、蜃が龍の一種であると正しく伝わった。
だが、鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』(1781年)では、「蜃とは大蛤なり」と、解釈を間違えてしまった。『礼記』や『本草綱目』、ハマグリを蜃に変えたことを知らなかったのだ。
そんな『今昔百鬼拾遺』の知名度が大きすぎて、庶民には誤解が広がった。
そのため蜃には、龍の説と、勘違いのハマグリ説がある。
人間側の事情など、つゆ知らず。
龍の一種である蜃は、その巨体で堂々と、小山町から御殿場市へと這いずっていた。
『力は、A級以上。あたし達は、1等級以下の原則に従って、今回は戦わないわ』
上位の3者が戦わないと宣言したことに、一樹は驚いた。
協会は「A級であればB級以下、B級であればC級以下と戦え」と通達している。それは互角の相手と戦えば、半々の確率で死んでしまうからだ。
槐の邪神退治では、相手はA級下位で、協会側はA級上位の豊川とA級中位の一樹を投入した。1ランク差を保てなくても、それくらいの安全マージンは取る。
それに対して蜃の場合は、確証と安全マージンを取れないらしい。
ゆえに危険を察知した宇賀は、人外の3者を参加させないと決めたのだ。
その上で、立場や役割から諏訪と豊川を外して、宇賀が断わる形を取った。
宇賀は、元から厳しい役割を担っており、断わっても評価は変わらない。
――かなり危険なのか。
本来であれば、能力が詳らかになるまで、手を出さないほうが安全だ。
人外達は、人間に慮らなくても良いので、原則を守れる。
だが3県に避難命令が発令されており、自衛隊が時間稼ぎをしている状況では、一樹達では注視が難しい。
『依頼を受けるなら、蜃の勢いを弱めることを契約内容にして、協会のホームページにも載せて、各メディアにも事前に伝えてから挑んだほうが良いわ。それと逃げる算段も、付けておきなさい』
対応せざるを得ない協会長に対して、宇賀は忠告を付け加えた。
























