67話 水族館
「晴れて良かったです」
見上げた青色のキャンバスには、綿飴のような積雲が疎らに浮いていた。
気象庁が定義する『快晴』(雲の割合が1割以下)では無いが、確実に『晴れ』(雲の割合が8割以下)である。
雲の割合は、目分量で2割から3割くらいなので、快晴に近い晴れと言っても良いだろう。
そんな晴れ渡った空の下、一樹は蒼依と水族館に赴く事になった。
蒼依の服装は、空の青さと髪の黒さに映える、白いワンピースだった。
白色は少しでも汚れていると目立つため、医療現場で白衣にも使われている。そのため、きちんと着ていれば清潔感や清楚さを印象付けられる服だ。
心理学においては緊張感を持たせる色だが、それだけに風景に紛れず目立つ。
結婚式では、白無垢やウェディングドレスに使われる事から、万国共通で清らかさや美しさを表す色と認識される。あるいは降伏の白旗の色でもあり、あなたに従いますという信頼感を与える意味にも使われる。
着熟すのは難しいが、蒼依は見事に着熟していた。
水仙曰く、デートで女性の服装を褒めるのはマナーであるらしい。
莫大な精神的エネルギーと引き替えに、一樹は言い慣れない言葉を口にした。
「似合っている……可愛いな」
明日から顔を合わせ難くなるどころか、早速今から辛いが、一体どうしてくれるのだと自分を責めたが、口から出した発言は取り消せない。
一樹が内心で呻いたところ、蒼依からはより自然な返答があった。
「ありがとうございます。主様も格好良いですよ」
もうエネルギーが残っていないので、家の中に引き返したい。
そんな気持ちに必死で耐えた一樹は、蒼依の手を引き、水族館へと歩み出した。
海に面した花咲市には、水族館が作られている。
設置者は花咲グループで、30年前に地元への還元事業の1つとして始めた。
水族館は海と繋がっており、天然の海水を引き込んでいる。
展示している魚は、地元の港に揚がったものも多く、売り物にならない魚を餌用に分けて貰っている。
経費が浮いた水族館側は、水族館の食事処と駐車場を無料にするなど、地元への還元を強めた。
すると利用客が増えて、それを元手に投資を行い、その結果として利用客がさらに増える好循環が続き、施設は立派になっていった。
現在の収支は、年間で数億円の黒字が続いている。
(流石は、花咲か爺さんの一族。何をやっても上手く行く)
券売所で2人分のチケットを買った一樹は、水族館の中に入った。
最初に聳え立つのは、ジンベエザメの展示棟だった。
ジンベエザメの大きさは、クジラを除く動物では世界最大だ。
全長は平均5.5メートルから12メートルとされる研究があるが、別の研究ではもっと大きく評価されており、最大20メートルの個体も確認されている。
20メートルは、マンション6階分の大きさになる。
水槽を泳ぐジンベエザメは、全長が最大個体ではなかったが、流石に大きすぎるためか、建物が丸々1棟使われていた。
ジンベエザメの展示棟は、地下3階くらいから地上3階くらいまでの超巨大空間となっている。地下部分はコンクリートなどで、上の3階分が水槽のようだったが、水槽の耐久に不安を覚えるほどの巨大さだ。
プランクトンを主食とするサメの一種であり、海と水槽が上手く繋がっているために、おそらく食費は掛からないのだろう。
「ジンベエザメって、凄く大きいんですね」
「ああ、デカすぎるな」
花咲グループは、なぜジンベエザメを展示しようと思ったのだろうか。
そして巨大化したら、海に放流でもするのだろうか。
そのような事を考えながら、一樹が案内の看板を見たところ、ジンベエザメの紹介が載せられていた。
ジンベエザメの周囲にはイワシやカツオなどが群れるために、関東では大漁の吉兆とされる事もあった。
昔はジンベエザメを使った『ジンベエ釣り』なる漁法もあって、恵比寿にちなんでジンベエザメを『エビス』と呼ぶこともあったそうだ。
木下利次の『民俗学3(10)』(1931年)によれば、ジンベエザメは宮城県石巻市金華山沖に伝わる怪魚『ジンベイ様』であるとされる。
ジンベイ様は、カツオが良く穫れる時期に現れる。
カツオを食べると身体が爛れ腐ってしまうので食べない。そのためカツオは、ジンベイ様の周りに良く群れる。
また、船がジンベイ様の背に乗る事があり、海中を覗くと海が淡く光っているので分かるという。
「穏和な妖怪も居たものだ」
海の巨大さに圧倒された一樹達は、普通サイズの魚達の展示棟へと移動した。
水族館は、海の生き物の他に、川や湖の生き物も展示している。
人が流れて行くのはイルカショーが行われている会場、そしてペンギンやアザラシ、ウミガメなどの展示棟だ。暗闇でクラゲが光る展示室などにも、程々には人が流れて行っている。
そんな中で一樹は、『カップル限定』と書かれている案内図に目を留めた。
「ご時世、同じ入場料を払わせた客を差別して、大丈夫なのか」
概ねA級陰陽師を輩出し続ける花咲家は、それなりの発言力を持つ家だ。
地元や近隣の県でも、花咲家とモメるのは嫌がる。凶悪な妖怪が出た時、花咲家とモメていれば、係争中だとして助けて貰えないからだ。
なぜ喧嘩を売ってきた相手のために、争っている最中に、命を掛けて助けに行かなければならないのか……と言った次第だ。
他のA級陰陽師に声を掛けたところで、A級陰陽師への扱いが悪いと分かっている県に対しては、他のA級陰陽師も協力的にはなれない。
花咲家が『ここはカップル限定だ』と言えば、争いになっても、おそらく通る。
「よし、行ってみよう」
花咲家が、一体何を考えてカップル限定の展示棟を作ったのか。
興味を抱いた一樹は、蒼依の手を引いて、カップル限定の展示棟へ乗り込んでいった。
なお意図を説明していない一樹の行動は、端から見た場合、『カップル限定コーナーを見つけて、強引に彼女を引っ張っていく彼氏』である。
途中で自身の行動に気が付いた一樹は、今更後には引き返せず、館内を足早に進んでいった。そして蒼依は、もちろん素直に付いてきた。
限定棟に入った一樹は、水槽に浮かぶ魚に驚き、思わず立ち止まった。一樹の左隣を歩いてきた蒼依も、思わず一樹の左手にしがみつく。
一樹達の前に現れた魚は、『乾鮭の怪物』であった。
江戸時代、京都の綾部藩士が記録した『綾部町史』には、次のように書かれている。
昔、京へ乾鮭を売りに行く男がいた。
男は道中で、罠に掛かっているキジを見つけた。そして自分が持っていた乾鮭と、罠に掛かっていたキジを勝手に取り替えて持っていった。
すると罠を掛けていた猟師は、山で罠に掛かった乾鮭を見つけて困惑した。
その山では、誰も鮭を食べる習慣がない。
そもそも口にして大丈夫かも分からない。
困った猟師は乾鮭を池に投げ込み、「再び生きて、この池の主となれ」と呟いた。
その翌年以降、雨の日や夕方になると池の主が現れて、災いを為した。
大雨の晩、池を通りかかった男の前に異形の怪物が現れる。男は大慌てで逃げ帰ったが、高熱が出てうなされ、様々なことを口走った。
村の者達が集まってきたところ、男の口を借りた池の主が『毎年秋に少女を1人、人身御供にせよ。然もなくば、祟る』と告げた。
数年後、乾鮭売りが村を通りかかると、人身御供を出している話を耳にした。
そこで乾鮭売りは池に赴き、人身御供の少女が池に引き込まれそうになっていたところを割って入り、乾鮭の怪物に対して「三分五厘の分際で何様だ」と叫び、頭を杵で何度も打ち据えて退治した。
村人が確認すると、退治された乾鮭の怪物は、長さが5尺から6尺(1尺=約30センチメートル)もあり、顔は鬼瓦のように恐ろしかったという。
なお乾鮭売りの男は、自分が勝手に交換した乾鮭だとは話さなかったが、自分の手柄で倒したのだとも言わず、杵の威徳だと誤魔化した。
「乾鮭の怪物は倒されたけど、子孫は残ったらしいな」
妖力は殆ど受け継がれていないが、鬼瓦のような恐ろしい顔付きと、大きな身体は継承している。
そんな乾鮭の怪物は、少女を連れて行く恐ろしい妖怪だ。
カップルで入れば、女性が怖がって男性に抱きつく。すると腕に触れた柔らかい感触で、男性は非常に嬉しい思いをする。「大丈夫だ、俺が付いている」などと言えば、株も上がるだろう。
「……大丈夫だ、俺が付いている」
一樹は、せっかくの花咲グループのお膳立てに乗ってみた。
そしてカップルコーナーの反対派が出たら、自分もA級陰陽師の1人として、花咲側に付こうと思ったのであった。
























