43話 勧誘の練習
「一樹さんに、ご相談があるのですが」
沙羅が切り出したのは、鹿児島のホテルに戻って夕食を摂った後だった。
テレビの画面では、首相が幽霊捕鯨船の除霊成功を発表しており、陰陽師のリーダーである義一郎は、第十管区海上保安本部に呼ばれている。
一樹達はホテルに入り、翌日には帰宅する予定だったが、そこで沙羅から話があった。
「相談って、何だ」
「はい。紫苑も恩義を気にしているので、一樹さんの事務所に所属させるのはどうかと思いまして」
それは一樹にとって、予想外の話だった。
紫苑は一樹に対して素っ気無くしており、助けられた恩義を感じていない訳では無いだろうが、態度を一言で表わすならば『武装中立』に見えた。
上目遣いでお伺いを立てる沙羅に、一樹は迷いを見せる。
沙羅であれば、一樹が居なければ確実に死んでいたし、助けた後もアフターフォローしなければ、右手と左足が無かった。
精神状態も芳しくなく、一樹がフォローした結果として、今に至っている。
陰陽師は危険な仕事だが、沙羅は元々陰陽師で、一樹の事務所で再び絡新婦のような事態に陥っても、『あの時に助かり、やり直せて幾許か幸せに過ごせた』と考える事が出来る。
沙羅の父親は絡新婦で失敗しており、一樹を責める資格が無い。
覚悟の決まった沙羅と、事情を承知している沙羅の家族によって、一樹は沙羅と沙羅の家族に対して全く遠慮せず、陰陽師の仕事に連れ回せるのだ。
そのような考えについて、一樹は敢えて沙羅に説明した。
「だから沙羅には全く遠慮していないし、俺に付いて来いと言える。だけど紫苑は、どうなんだ」
「勿論、私は一生付いていきます。そう仰っていただけて、嬉しいです」
微笑みながら答えた沙羅は、次いで紫苑について語った。
「紫苑に対しても、来いと言って頂ければ、来ると思います。いずれB級になりますし、飛べる五鬼童は便利ですよ。それに紫苑が断われば、自分から断わった事になりますので、今後は拗ねる理由が無くなります」
「紫苑は除け者にされた感覚で不機嫌なのか?」
紫苑の心理状態について、一樹は沙羅の説明を訝しんだ。
だが紫苑は、他ならぬ沙羅の双子の妹である。紫苑自身を除けば、紫苑をもっとも分かっているのは沙羅のはずだ。
「シミュレーションをしてみませんか。今から私が紫苑の役をしますので、事務所に誘ってみて下さい」
沙羅は結っていた髪を解き、紫苑と同じストレートヘアになった。
そして小さく「あたしは紫苑」と呟き、目を僅かに釣り上げて、硬い表情になる。
(雰囲気まで似ているな)
急激な沙羅の変化に、一樹は目を見張った。
そして戸惑いつつも、紫苑に化けた沙羅を事務所に誘ってみる。
「……と言う理由で、俺は沙羅には遠慮しないが、紫苑には貸しを作ったと思っていない。それでも紫苑が気にするなら、うちの事務所に所属しないか。事務所の所員を守るのは当たり前だから、俺に借りなんて無しで良いだろう」
丁寧に説明した一樹だったが、紫苑に扮した沙羅は即答しなかった。視線を逸らして俯き、長い髪の毛先を右手で軽く弄っている。
恩義を気にして、事務所に所属したいと思っていたのでは無いのか。
沙羅を疑わし気に眺めた一樹は、チラチラと伺うように視線を向けてきた沙羅の様子を見て、不意に脳裏に閃いた。
(まさか、『俺に付いて来い』か)
そんな言葉で付いて来るのは、そもそも付いてくると決めている蒼依か、一樹に心酔している沙羅くらいだ。
先程の一樹は、沙羅なら付いて来ると分かっていたから口に出来たのであって、断わるかもしれない紫苑に対して宣う勇気は無い。
俺に付いて来いと言って紫苑が断わったら、一樹は赤っ恥である。
阿呆な告白をして、振られる目に遭うなど、そんな酷な話は無いだろう。
(よし。もしも振るなら、演じた沙羅にお仕置きしよう)
沈黙されて埒が明かなかった一樹は、開き直って偽紫苑に告げた。
「紫苑、悩むな。俺に付いて来い」
どこの少女漫画だと、一樹は内心で激しいツッコミを入れた。
そして驚いて顔を上げた偽紫苑に対して、再び告げる。
「いいから、俺に付いて来い」
煮え切らない偽紫苑の様子に、一樹は堪え切れなくなった。
そして沙羅の傍に寄ると、手を引いて立ち上がらせ、少女漫画のように引き寄せた。
一樹が、ふらついた偽紫苑を抱き止める。そして至近で見つめながら、最終通告した。
「付いて来い。良いな?」
一樹は開き直って、強引に攻めてみた。
すると偽紫苑は、頬を朱に染めながら、首を小さく縦に動かす。
いつの間にか少女漫画と化していたのは、何故だろうか。
世の中には、よく分からない『その場の雰囲気』や、『勢い』というものがあるらしい。
「お前は俺の身内だ」
自分でもよく分からないまま、一樹は少女漫画に出てくる男を演じた。そして偽紫苑を引き寄せて抱きしめた。
偽紫苑の潤んだ瞳が、一樹の視界の正面に捉えられる。彼女は、顎を上げて唇を突き出し、静かに目を瞑った。
(……俺は事務所に、陰陽師を迎え入れるのでは無かったのか)
蒼依を思い出した一樹は、不意に我に返った。
すると何故か、キスをせがんでいる偽紫苑が腕の中に居た。
1つだけ分かった事は、紫苑がツンデレだという事である。一樹が絡新婦から助けて以降は好感度が高くて、押せばデレる状態にあるらしい。
腕の中にいる偽紫苑を解放した一樹は、沙羅に尋ねた。
「紫苑が来ると、厄介な気がしないか」
賀茂一樹陰陽師事務所が、ドロドロとした昼ドラの現場になりかねない。
そんな一樹の懸念に、沙羅は同意した。
「はい。紫苑を誘うのは、止めましょう」
前言を撤回した沙羅は、中々離れずに頬を染めて一樹を見つめ続けた。
沙羅が部屋から去って冷静になった一樹は、「自分は一体、何をしていたのだろう」と、行動を振り返った。
行動を言語化するのは容易く、アドリブの少女漫画ごっこをしたのである。
だが、そのような行動に走った理由は、論理的には説明できない。紫苑を事務所に誘うか否かの話であったはずだが、何故か明後日の方向に進んでいった。
少女漫画の登場人物達が、みんな揃いに揃って論理的に行動する訳でもないだろうが、雰囲気に流されるとは恐ろしいものである。
暫く呆然としていた一樹は、掛かって来た電話をこれ幸いと受けて、妄想から現実に戻ってきた。
最初に電話を掛けてきたのは、義一郎だった。
そこで「電話番号を教えて良いか」と確認されて了解したところ、今度は陰陽長官からテレビ電話が繋がれた。
「まずは任務達成、ご苦労だった。疲れたのでは無いかね」
一樹より半世紀ほど年長の陰陽長官は、今回の依頼主である海上保安庁と、五鬼童を繋いだ人物だ。
今回の依頼は、幽霊捕鯨船の調伏と子竜の解放で140億円。
それらは全額が払われ、協会に1割を収めた残り126億円については、A級の義一郎側が66億円、B級の賀茂事務所が60億円を受け取った。
1ランク差は10人分と考えられている。今回であれば、A級の義一郎が10、B級の一樹が1、他に五鬼童のB級が2人居て2。
一樹の報酬は、全体の12分の1にあたる10億5000万円が相場となる。
それが60億になったのは、絡新婦の貸し借りを清算する意図があったからだ。一樹の依頼人は沙羅であり、既に報酬として一樹の事務所に来ているが、五鬼童も何もしないわけにはいかなかったのだろう。
A級妖怪への対応は、報酬の目安が100億円。
一樹が一人で倒したわけでは無いし、B級陰陽師の一樹が、A級陰陽師よりも高額の報酬を受け取るわけには行かないので、今回の現実的に渡せる上限金額だ。
報酬に上積みされた49億5000万円は、100億円の49.5%。
残りを正式な依頼人である沙羅が返すとすれば、沙羅が一樹に恩義を返す割合の過半数を占める形にもなるので、沙羅の顔も立てている。
(流石は五鬼童家、義理堅いな)
一樹は60億円を受け取る事にして、1割にあたる6億円は沙羅に分配した。
沙羅は恩義を返すために一樹の事務所に所属しているが、報酬に関して一樹は、正当に渡す考えでいた。
正当な報酬を払ったとしても、五鬼童家の沙羅が事務所に所属しているだけで、一樹には様々な恩恵がある。所属された時点で、充分な恩返しになっている。
残るは54億円だが、一樹は自身を守る保険として一部を使おうと考えた。
具体的には、父親の和則にアドバイザー料の名目で、4億円ほど渡しておく。
もしも和則が妖怪退治で負傷したと連絡が入れば、一樹も気にせざるを得ない。また世間からも、『上級陰陽師の一樹が、陰陽師として育てた実の父親で師匠を助けもせず、恩も返していない』と言われてしまう。
何事であろうとも、批判する人は必ず出るのだ。
だが4億円も支援しておけば、一生食べるには困らない。
民放のバラエティ番組で煽ったり、ネットで一樹に文句を付けたりする人は、強い嫉妬心も持っている。そのため4億円を渡せば、確実に嫉妬して、和則は充分に支援されただろうと考える。
すると和則が負傷しても、『働く必要がないのに本人が勝手にやった事』だと考えて、怒りを一樹に向けないでくれる。
すなわち金を渡しておく事は、一樹の名誉を守る保険となるのだ。
一回だけ行えば充分であり、一樹は自身を守る保険を掛ける事にした。
一樹の名誉を担保してくれて、気兼ねなく過ごせる支援は、五鬼童が上積みしてくれた分で賄える。
あとの50億円は、税金で半分取られても25億円は残る。それだけあれば、人生の最後まで並以上の生活を送るには、充分すぎるだろう。
(五鬼童の恩返しは、父さんの件の解決と、俺の生活を助けてくれた形にするか)
五鬼童の恩返しについて、一樹は形になる使い道を定めた。
そして今回の依頼を五鬼童に出した陰陽長官に対して、丁寧に答えた。
「ありがとうございます。確かに疲れましたが、許容範囲内です。数日で回復すると思います」
むしろ疲れたのは、ホテルに帰ってからだった。
そんな戯言は内心に留め置き、一樹は支障が無いと報告した。
「結構だ。実は閣僚会議で、幽霊巡視船を式神化した件について、疑義が呈された。私は問題ないと答えたが、武装を不安視する者や、国の資産であった事を問題視する者も、居ないでは無い」
陰陽長官の声からは、淡々と事実を告げている風に聞き取れた。
スマホの小さな画面から表情まで読み取れなかった一樹は、テレビ電話用のモニターを使用しているのだろう相手に頷き返す。
「式神が術者を裏切る場合、大抵は術者の与える呪力が不足した事による、式神契約違反です。私は呪力に余裕がありますので、制御に関して心配は有りません」
妖怪に対して『気を与えるから従え』と言いながら、気を与えなければ、妖怪側も従う謂われは無い。
能力に応じた手当を支払わなければならないのは、妖力が明確な分だけ、人間社会よりもシビアである。
「その余力は、どれくらい残っているのかね」
「幽霊巡視船を完全破壊されても、万全の状態で即座に復活させられる程度には有ります。つまり復活させず影にしまえば、呪力不足で制御できない事には、成り得ません」
絡新婦の調伏において、一樹はA級下位2体分の呪力を飛ばした。自衛隊は報告しているであろうし、陰陽長官が知らないはずも無い。
であれば、その程度は答えても支障がないだろうと一樹は判断した。
一樹の父がC級陰陽師であるため、一樹がA級の力を持っていても、鳶が鷹を生んだ程度でしかない。
確かに奇異だが、奇怪と言われるほどでは無い。
呪力がS級と知られれば、間違いなく奇怪と言われるだろうが。
「結構な話だが、閣僚会議では君に対して、瀬戸内海の幽霊船団を排除させてはどうかと声が上がった。国の巡視船を使役する件について、国の命令で国の役に立つ実績を作れば、お墨付きを与えられる。どうだね」
問われた一樹の答えは、1つしか有り得ない。
是と言えば状況を追認され、否と言えば国から問題視されるのだから、答えは是である。
みやこ型巡視船は最新型で、建造費は144億円。
40ミリ機関砲は、自衛隊と海上保安庁でしか使用を許されていない。
それらを一樹が式神として使役する事に、政府がお墨付きを与える。
どれほどの大金を積んでも、通常であれば世間的に認められない特異な条件に鑑みれば、今回の依頼料は相応と考えられなくも無い。
「分かりました。お引き受けします」
かくして幽霊巡視船は、村上海賊船団に立ち向かう事になった。
























