33話 混浴温泉
「寝かせておけば、回復するだろう。起きるまで、水仙が見ていてくれ」
「えー、面倒だなぁ」
倒れた晴也を旅館の部屋に運び込んだ一樹は、腹に手を当てて陽気を注いだ。症状は気の欠乏であるため、気を補充して休めば回復する。
念のために水仙を残すと、自分達の部屋に向かった。
妻と娘を助けるからであろうが、一樹達には特別室が宛がわれている。
特別室には、ツインベッドルーム、1デイベッド、ダイニングルーム、洋リビング、そして部屋付きの温泉露天風呂が備わっている。
温泉露天風呂には洗い場もあって、大風呂に行かなくても済む。
蒼依と沙羅がツインベッドルームに視線を送ったため、一樹は早々にそちらへ2人を押し込んだ。
「女子2人は、そっちの部屋な。俺は、隣のデイベッドで寝るから」
どちらかと2人で温泉旅行に来たのであれば、何かを間違えたかも知れない。一樹が邪念を持ったのは、晴也の欲望に触発されてである。
首を横に振って邪念を振り払った一樹は、沙羅に指示した。
「沙羅、霊符作成は頼んだぞ」
「はい。それについてなのですが……」
言いかけた沙羅が、蒼依を見て言い淀んだ。
「何か問題でもあるのか」
「私の気を溜めなければなりません。一樹さんに補って頂けたら、早くなります。手を繋いで送って頂く形で大丈夫なのですが」
「ああ、そういう事か。分かった。数日は早まるだろうからな」
一樹は蒼依に言い聞かせるように、数日間の短縮が可能だと説明した。
費用対効果で妥当性を見出したのか、蒼依は否定せずに話題を変えた。
「夕氷さん、綺麗な方でしたね」
反対意見が出なかったので、手を握って気を送る件は受け入れたらしくあった。
「人を惑わして気を吸う妖怪は、それが出来るだけの容姿を持つんだ。晴也は、やり方を間違わなければ式神化できたはずだけど、見事に失敗したなぁ」
「主様は、夕氷さんを式神にするのですか?」
問われた一樹は、蒼依の不安を理解した。
晴也が夕氷に行おうとした契約に類する事は、一樹が蒼依に行っている。
式神の括りであれば、牛鬼1体、八咫烏5羽、絡新婦1体、鎌鼬3柱を持つが、いずれも式神として扱っており、それ以外の関係ではない。
蒼依は唯一の特別扱いで、一樹は家族が居なくなった相川家に、新たな家族として入ったような形だ。
「おはよう」や「お休み」を言い合い、一緒に食事を摂り、テレビを見て雑談し、他の式神と戯れたり、今回のように出かけたりもする。
蒼依の空虚は、その世界に入り込んだ一樹が埋めて塗り替えた。
だが戦闘を目的としない女性の妖怪が、永遠に蒼依だけである保証は無い。
夕氷と契約を結ぼうと思えば、一樹の呪力的には簡単に出来る。
「呪力だけであれば、出来ない事は無い」
夕氷と氷菜の姉妹は、A級どころか、B級でも無い。
春日家が渡していた呪符から逆算すると、強くてもC級程度だ。
他方、一樹は膨大な呪力を持っている。
自衛隊が確認しただけでも、A級下位2体分は確実にあると判明している。
それは絡新婦との戦いで、C級下位の力を持つ式神の鳩200羽を飛ばしたからだ。C級下位200体分の呪力は、B級下位20体分、あるいはA級下位2体分に相当する。
一樹は氷柱女の姉妹に対して、完全な式神化が可能だ。本人達が契約を拒まないのであれば、失敗のリスクも無い。
もしも一樹が氷柱女の姉妹に目移りしたら、蒼依はどうなるのか。
仮に目移りしたところで、一樹が蒼依に気を渡さなくなる性格でも、足りなくなる呪力量でも無い事は分かっている。
だが相川家から出て行ったら、蒼依はどうなるだろう。
そんな蒼依の不安に対して、一樹は明確に断言した。
「だけど俺は、夕氷さん達とは式神契約をしない。そんな事をしたら、今回の仕事に誘ってくれた晴也に悪いだろう」
蒼依の不安を取り除くべく、一樹は契約しない理由を述べた。
夕氷は美人で間違いない。そして母と妹にも気を与えるように求めた事から、家族思いの性格も垣間見える。
もしも晴也が条件に応じられたならば、夕氷は晴也の恋人にでも婚約者にでもなって、誠実に愛情を返しただろう。
そのような妖怪であれば、使役すれば一樹の事務所で働けるし、他にも色々と助けてくれるだろうと思われる。
戸籍を持ち、学校に通っており、運転免許も取れて、様々な手続きも行える。
人材としては非常に惜しいが、そもそも依頼人に対して不義理になるため、一樹が使役する選択肢は有り得なかった。
「仕事で不義理を働けば、信用されなくなる。だから、式神契約は無しだ」
「それなら契約できませんね」
「信義は大切です。霊符が必要でしたら、今後も私が作りますので」
蒼依は安堵し、沙羅も異口同音に賛同して、氷柱女の式神化は廃案となった。
蒼依の不安を解消した一樹は、デイベッドがある和室に入って荷物を放り出し、冷たい畳の上をゴロゴロと転がった。
(だけど晴也は、対応できないんだよな)
一樹達は応援で来ており、沙羅の対応は応急的なものだ。
霊符作成のために逗留する数日で、今後の解決手段も考える必要がある。
手が届く位置に座布団があったので手繰り寄せた一樹は、容易には思い浮かばない対策に頭を悩ませながら、座布団を枕に目を瞑った。
床で眠っていた一樹は、不意に目を覚ました。
目覚めたのは、蒼依と沙羅が部屋付きの露天風呂に入る物音がしたからだ。
2時間ほど経ったようで、2人は寝ていた一樹を起こさないように気を使ったらしくある。
(どうせなら、ベッドで寝れば良かったな)
一樹が起きて室内を彷徨いたところ、既に夕食の時間に入っており、夕食がダイニングルームに運んであった。
特別室だからか、サービスされているのか、山海の幸が豪勢に並んでいる。
料理を下げる時間もあるかと考えた一樹が食事を平らげ、テレビで秋田県の地方番組を見ていると、蒼依と沙羅が温泉から上がって、一樹にも勧めてきた。
「内線電話で連絡すると、料理を下げてくれるそうです。そちらは連絡しておきますので、主様は次に温泉にどうぞ」
「部屋のお風呂なのに、結構広かったですよ」
浴衣に着替えた2人に言われるが儘に、一樹は露天風呂へと向かった。
客室の奥には、引き戸で仕切られた流し場がある。そして奥には、大きな石で囲われた露天風呂が設置されていた。
湯が流れる音が、一樹の心を安らげる。
温泉専用として開発して貰ったであろうシャンプーやコンディショナーを使い、一樹は流し場で大雑把に髪を洗った。
一樹が今世で温泉に入るのは、今日が初である。
父親の和則は、家族を温泉旅行に連れて行く甲斐性が無かった。
一樹が絡新婦の依頼料を半分渡したので、今は借金の清算も済んでいるだろう。だが一樹が小さい頃であれば、余裕が出来ても呪具に使ったであろうから、結局温泉には行けなかった。
和則が稼げたのは一樹の甲斐性であって、母親から離婚された和則の問題が解決された訳でも無い。
「再婚は、無理だな」
両親の離婚は、父親だけが悪いわけでも無いと一樹は考える。
父親の甲斐性に問題があるのは明らかだが、母親も父親の職業や性格を知った上で結婚したのだ。
喩えるなら、晴也に甲斐性が無いと分かった上で、夕氷が晴也と結婚したようなものだ。夕氷には断る選択肢もあったのだから、2人の子供から見れば、母親も単なる被害者ではないだろう。
一樹としては、両親の問題は両親が決めれば良いと考える。
だが血の繋がった妹だけは、兄として気がかりだった。
そんな風に思いながら、良い香りのするボディーソープで身体を洗って、いよいよ温泉に足を踏み入れた時だった。
引き戸が開かれて、身体にタオルを巻いた蒼依と沙羅が入ってきた。
「…………はっ?」
数秒ほど固まった一樹は、混乱状態で発声した。
そもそも2人は、先程まで温泉に入っていなかったか。
鳩が豆鉄砲を食ったような表情の一樹が、腰にタオルを巻きながら温泉に沈み込んでいく中、蒼依が取って付けたような説明をした。
「せっかくの温泉ですから、1度だけだと勿体ないですよね」
蒼依が嘘を吐いている事は、一樹にも理解できた。
2度風呂が悪い訳では無いが、2度目の入浴があまりにも早過ぎる。しかも、一樹が入っているタイミングである。
一樹が素早く2人の表情を伺うと、蒼依は顔を真っ赤にして緊張しきっており、沙羅は恥ずかしそうにしつつも微笑を浮かべていた。
(犯人は、9割方は沙羅だな)
冤罪が嫌いな一樹は、確信しつつも断定は避けた。
おそらく誘導されたのであろう蒼依は、着物が似合いそうな首の細いなで肩で、腰が低くて幼く見え、体の凹凸が少ない純日本人体系だ。
現代の高1女子の平均的なバストサイズは、81センチメートル程で、カップはAからB。純和風の蒼依は、ごく標準的な日本人の体型である。
そして誘導したであろう沙羅は、大天狗の血を引き、多少は空も飛べるためにスレンダーな体型である。平均よりも小柄で、やや小さい。
そんな2人が入って来たのは、如何なる意図からか。
機先を制された一樹が守勢に回る中、身体にバスタオル1枚を巻いただけの沙羅から、大義名分が示された。
「部屋風呂は、混浴も大丈夫なんですよ」
「なん……だと……」
日本に混浴の文化が存在する事実に、一樹は反論の術を失った。
かつて八咫烏を使役した際、一樹は八咫烏の親が子犬を食べる光景に、西アジアでは肯定的である点を思い起こした。
日本では捕鯨文化があり、他国からは否定的な意見も寄せられるが、文化の否定はいけないと思った。
『捕鯨文化の否定が良くないならば、混浴文化の否定も良くない』
『あの文化は良いが、この文化は駄目だと言うのは、二重規範になる』
咄嗟に論理的な反論が出来なくなった一樹は、硬直状態に陥った。
その間、一樹から制止されなかった2人は、堂々と温泉に入ってきた。
部屋付きの温泉は、ベッド2つ分に満たない大きさだ。
一樹が混乱する中、温泉の中で蒼依が右隣に、沙羅が左隣に寄ってきて、一樹は肩が触れ合う距離で左右を包囲された。
蒼依は長い髪を結っており、沙羅もおさげで、うなじまでハッキリと見えている。もしも一樹が、どうなっても知らないぞと言えば、本当になりかねない。
不意に一樹は、踏み込めば入り口が閉まる檻の中にぶら下がる肉を見つけた、若い狼の後姿が思い浮かんだ。
(これは罠だ)
一樹は、迷える子羊ならぬ狼となった。
2人が罠を仕掛けた目的は、何だろうか。
夕氷を式神化できたのだと知った蒼依は、危機感を抱いていた。
今回の夕氷は式神化しないが、これからも永遠に増えない保証はないし、今後の話は一樹も否定していない。
そして根が正直な蒼依は、心に迷いを見せたところを沙羅に突かれたのかもしれない。
ライバルを増やさないように共同戦線を張りましょう……等と持ち掛けられれば、今の蒼依であれば簡単に釣られるかも知れない。
蒼依に関して想像できた一樹は、次に沙羅の意図を想像しようとしたが、それは考えるまでも無かった。
一樹は好感度のパラメーターなど見えないが、A級妖怪から救い出して手足も治した沙羅の一樹に対する好感度は、確実に振り切れている。
命を救われた事、歩ける事、両手を使える事は、人生の殆どを占める。
逆の立場で一樹自身が助けられた場合を考えれば、一樹も可能な限り沙羅の望むようにするだろう。そして、1300年以上も義理を果たして来た五鬼童家の娘であれば、一樹が想像する以上に恩義を返すに決まっている。
昔話における最大の恩返しは嫁入りだ。
沙羅がそういう事も考えているのだろうとは、女心が全く分からない一樹でも簡単に想像が及ぶ。
「まさか蒼依も誘ってくるとは思わなかった」
出し抜けたのではないかと一樹が問うと、沙羅は小さく苦笑した。
「私を治して下さった時、蒼依さんが病院に先行して、一樹さんに位置を伝えて下さったと聞いています。その点は、非常に恩を感じておりまして、いきなり抜け駆けは出来なかったんです」
「はぁ、なるほど」
流石は五鬼童だと、一樹は納得した。
沙羅から「私は行きますけど、蒼依さんはどうされますか」と問われれば、蒼依も行ってらっしゃいとは言えないだろう。
かくして現状に至ったわけである。
2人の行動を理解した一樹は、右隣に居る蒼依に視線を向けた。
すると蒼依は顔を真っ赤にしながら、あからさまに視線を逸らした。
(逃げられると追いたくなるのは、何故だろうな)
人間が狩猟を行っていた時代の本能を刺激されるのだろうか。そっぽを向かれた一樹は、蒼依の肩に右手を回した。
すると蒼依の身体はビクッと小さく震えたが、拒絶したりはしなかった。
これが罠だからと言って、それが何なのだろうか。温泉の温度と湿度で、思考が廻らなくなった一樹は、蒼依を優しく引き寄せた。
そして自身の顔を蒼依の正面に回り込ませて、ゆっくりと近付けていき……。
「ダーリン、晴也が目を覚ましたよーって、あれぇ、何してるのー?」
水仙の乱入に驚いた一樹は、咄嗟に顔を上げて、慌てて蒼依から離れた。
一度冷静に戻った一樹の行動は、そこまでであった。
愚かで、哀れな絡新婦の末路は、一樹を除く3人のみぞ知る。


























