32話 無謀な挑戦
『うちは上級が、あたしだけになったでしょう。だから気を籠める霊符の作成は、即応力が落ちるから出来ないの』
秋田県の上級陰陽師である春日結月は、沙羅からの電話にそう答えた。
日本陰陽師協会は、上級陰陽師72名を定数としている。
内訳は、A級が8名で、B級が64名だ。
そして協会は、強力な妖怪の出現に即応出来るように、各都道府県に最低1名のB級陰陽師が居るように調整している。
居住地に拘りの無い、C級陰陽師の上位者をB級に上げる調整もするが、昨年まで秋田県には、本当の実力を持ったB級陰陽師が3名居た。
沙羅の伯母である春日弥生、春日家の長男である一義、そして長女の結月だ。
昨年の夏、春日家は絡新婦との戦いで大打撃を受けた。
弥生と一義の2名が、ランクを複数落とす後遺症を負ったのだ。
A級の絡新婦が注ぎ込んだ妖毒が、B級陰陽師だった両名の全身に回って、気の巡りを阻害した。そのため呪力を十全に使えなくなり、D級やE級陰陽師のレベルとなって、引退を余儀なくされている。
『怪我だけだったら、呪力は使えたんだけどね』
一樹は沙羅を解毒して、手足も治したが、春日家までは治療していない。
無論、為す術が全く無かったわけではない。
蒼依が妖毒や呪いを受けたのであれば、一樹は何としてでも治したろう。
毎日、何ヵ月も、地蔵菩薩の修法である万病熱病平癒の気を送り続ければ、おそらく治った。
だが一樹と契約していなかった春日家に対して、一樹が受験や生活を放り出してまで、献身的に治療する必要はあるだろうか。
報酬の取り分は、春日家が2億7000万円、一樹が1000万円。当時の一樹はC級陰陽師で、B級陰陽師だった春日家の3名を指揮した訳でもない。
春日家も「自分達も治せ。その後、籠の中の鳥にされても、責任は負えない」とは言わなかった。
そしてB級陰陽師の2人が、引退に至っている。
同じ戦場に母と兄が居て、庇われた結月だけは、後遺症を負わなかった。
既に結月は完全回復して久しいが、秋田県が妖怪への即応力を維持するために、数日間も気を落とす作業は行えなくなった。
結月に即応力の維持が求められるのは、秋田県に上級が1名しか居なくなった上に、隣接する青森県の統括陰陽師が居なくなったままだからだ。
何ら対策を講じないまま、現状の青森県に数合わせのC級を送り込んでも、良いものか。
他にも上級陰陽師を配置すべき都道府県があり、青森県を保留した結果として、春日家は青森県の西側までフォローせざるを得なくなった。
結月の呪力維持は、現状では優先順位が非常に高かった。
『氷柱女は妖怪だから、鬼の陰気を籠めれば良いわよ。3人分だから3枚で、1枚の呪力は中鬼2体分。C級を籠める必要があるけれど、妖の気を持つB級陰陽師なら大丈夫。効力が落ちるから、毎年春くらいに1組卸していたわ』
「うちの一族を除くと、殆ど作れませんね」
結月から聞き出した作成のポイントは、妖である鬼の陰気を籠める点だ。
一樹の陽気を籠めた霊符を氷柱女に渡すのは、B型の人間にA型の輸血を行うようなもので不可能だ。
山の女神でもある蒼依や、鬼神の子孫である沙羅はAB型だが、単なる妖怪の氷柱女はB型なので補充できない。むしろ陽気で倒してしまう。
妖気を持つ女性の陰陽師は少なからず居るが、B級は滅多に居ない。
引退した陰陽師に作らせようと思っても、そもそも呪力が足りない。
100の力があっても、それを全て呪符に移すなど不可能だ。術式による変換効率は100%ではないし、全ての気を移せば術者が死んでしまう。
C級の呪力を符に籠めるならば、術者はB級の呪力が必要となる。
陰陽師協会の秋田県支部に依頼しても調達できるわけがなく、秋田県を統括する現役陰陽師の春日家が、わざわざ作っていた。
だが現在の沙羅は、結月と同等の呪力を持っている。
初めて作るのだから、作成時間は結月よりも必要だろう。だが作れるか作れないかの二択であれば、沙羅には作れる。
「分かりました。ありがとうございます」
『別に良いよ。それより賀茂さんって、入り婿についてどう思……』
笑顔で通話を切った沙羅は、直ぐにスマホの電源を落とした。
そして一同に、春日家が卸していた呪符の効果について説明した。
「春日家に聞きましたところ、人間から気を吸うのではなく、呪符で補う場合、妖の陰気を籠める必要がありました。ですから、妖の気を持つ女性が作る必要があるそうです」
「それは、あんたも作れるのかね」
尋ねた亭主に、沙羅は困った表情を浮かべた。
「作れますし、料金も春日家と同じで大丈夫ですけれど、作成には少し時間が掛かります。それと私は、秋田県を優先できない他県の陰陽師なので、将来的には別の手段が必要になります」
沙羅の優先順位は、一樹の仕事にある。
秋田県で呪力を消費して、いざという時に一樹の仕事の役に立てなくなるのは、沙羅にとって本末転倒だ。余力を残したいのは、春日家と同様である。
今回は一樹が晴也の依頼を受けて応援に入ったため、一樹の仕事を手伝うために沙羅も応じた。
だが根本的な解決策は、他に探して貰わなければならない。
「中身が分かって、一先ずの霊符が手に入るだけでも、充分に有り難い」
応急対応が可能だと聞かされた亭主は、安堵の表情を浮かべた。
一先ずの解決策を示した沙羅は、一樹の意向を問うべく視線を向ける。
一樹が沙羅に頼めば、もちろん延々とやってくれるのだろう。だが一樹としては、沙羅の活動に制約を設けて解決とはしたくない。
共同依頼を持ち込んだのは晴也であるため、一樹は晴也に確認した。
「俺達は延々とは付き合えない。根本的な解決には、他の方法を確立する必要がある。晴也が俺を呼んだ理由は、霊符作成ではなくて、式神契約を補助させたかったからじゃないか」
一樹を連れて来た晴也は、沙羅に呪符の作成を頼めた時点で、応急の対応は出来ている。
だが晴也が一樹を呼んだ理由は、沙羅を連れて来たかったからではないはずだ。そもそも晴也は、沙羅が一樹の事務所に所属している事など知りようが無かった。
夕氷に魅入られた晴也が望むのは、一樹と蒼依のような関係ではないか。
氷柱女と半妖の氷柱女が生きていくためには、気を必要とする。
家族から同意の下に気を吸うのは社会的に許される。だが他人から気を吸えば傷害罪であり、悪しき妖怪として討伐対象となる。
半妖の娘達が生活していくためには、家族からの安定した気が不可欠だ。
(気を安定して与えられると示せば、晴也は夕氷さんを依存させられるな)
気で依存させるのが卑怯だとは、一樹は全く思わない。
結婚相談所でも、結婚を望む男性側には、年収が求められる。
気を与えてくれるのは、妖怪や半妖にとっては夫が稼いでくれるのと同義だと考えられなくもない。
一樹が想像したとおり、晴也は霊符とは異なる解決策を考えていた。
「せや。霊符は籠められる気が目減りするし、料金も高くなるやろ。式神契約で気を与えれば、それが解決できると思うたんや」
話を振られた晴也は、我が意を得たとばかりに勇んで答えた。
一樹は納得した風に頷きながら、共同依頼を持ち込んだ晴也を立てる。
「契約を結べば、夏も普通に過ごせて、霊符も不要です。陰陽師の晴也であれば、妻と子供の分を渡しても、それが原因で老いたりはしません。与えられる気をいくらか溜めれば、晴也の死後も一生、他から気を吸わずに生きていけます」
一樹のあからさまな説明は、概ね伝わった。
亭主と女将は互いを見合った後、達観した様子で、特に何も語らなかった。
妖怪が気を獲得するのは、食事と同じで不可欠だ。誰かには取り憑かなければならず、それが陰陽師であれば最良の糧となる。
(妖怪にとって晴也は、鴨が葱を背負ってくるような好物件のはずだからな)
晴也は夕氷と同い年で、堅実に働けば確実に高収入を得られる陰陽師だ。
そして一般人とは比較にならないほど気の量が大きくて、それが最重要な半妖の夕氷にとっては、晴也以上の好物件はまず無い。
ツンとすました表情を浮かべる夕氷は、やがて晴也に尋ねた。
「お返しに何が必要ですか」
照れと不安が混在した様子の夕氷は、晴也の要求を分かっているのだろう。
だが明確には口にしていないため、男の口から言わせようと水を向けたのだ。
はたして晴也は、暫く躊躇った後、要求を口に出した。
「俺が気を渡せたら、付き合ってくれ」
一樹は内心で「そうじゃないだろう」とツッコミを入れた。
これは中学生の男子が、クラスメイトの女子に告白するアオハルではない。
式神使いと式神との間で交わされる、一生傍に居る約束なのだ。
一樹が勝手に添削するならば「一目惚れしました。気には一生不自由させませんから、式神契約をして、一生傍に居て下さい」だろうか。意訳は、俺の嫁になれである。
同級生達が連れて来た晴也は、応援で呼んだ一樹達に霊符の代替を用意させて、母と妹が従来通りに生活できる見込みを立てた。そして夕氷には、一生分の気も用意すると言っている。
その提案を蹴れば、夕氷は気を得る目処が立たず、家族の霊符もいつか打ち切られる。なにしろ一樹達は、晴也が応援として連れてきた。一樹達が誰の味方をすべき立場なのかは、考えるまでもない。
晴也が夕氷を明確に求めたならば、夕氷は提案を受け入れるしかなかったのだ。
夕氷は覚悟もしていたのに、晴也からは想定していた告白を得られなかった。失望した夕氷は、冷たく答えた。
「母と妹の分も、気を下さるなら」
夕氷からの要求が、想定の3倍に増えた。
男らしく告白してくれなくても、甲斐性を見せてくれるのであればと、妥協した形だ。
春日家が渡していた霊符は、1枚がD級2体分で、3枚ではC級に届く。
一方で晴也はD級陰陽師だが、D級の気を毎月ないし2ヵ月に1回ごとに渡す形にすれば、年間の総量でC級は与えられる。
男らしさが無くても、優しさと甲斐性があればと、夕氷は妥協案を示した。
はたして晴也は、夕氷からの要求を無謀にも丸呑みした。
「よっしゃ、賀茂、術の準備を手伝ってくれ」
何も伝わっていない期待外れの晴也に、夕氷は残念そうな表情を向けた。
男らしさも無い、甲斐性も無い。
無謀にもC級に挑んで、自滅しようとしている。
そんな晴也に付き合えば、夕氷は将来的に困窮する。
二人の間に半妖の子供が出来れば、追加で必要な気はどうするのか。半妖を手に入れたいのなら、それくらいは考えるべきだ。
いかに同級生達が手を尽くして連れて来てくれたとしても、流石に夕氷には断わる権利があるだろう。
なお夕氷の妹である氷菜は、日本人形が薄く笑うような表情を浮かべて見守っていた。
妹にも、無謀な晴也が失敗する未来が見えているのだ。
自身の命運も掛かっているだろうに、それでも晴也に薄ら笑いを浮かべているのは、氷柱女の半妖としての面目躍如だろうか。
(晴也が夕氷さんを手に入れられる機会は、あったけどな)
一樹が渋々と手伝う中、晴也は一心不乱に陣を作成していく。
これは無謀だと止めるべきか、それとも見守るべきか。悩んだ一樹は、死ぬわけでもないので止めない事にした。
言うなれば晴也が行ったプロポーズが、言い方が情けなくて失敗しただけだ。
これはもう、晴也が悪いとしか言いようが無い。
とりあえず一回失敗してしまえと思った一樹は、武士の情けとして、晴也が致命傷を負わないように緊急で最低限の気を送る術式も組んだ。
そして結果の見えた戦いを見守る事にした。
「よっしゃ、いくで!」
準備が整い、晴也は意気揚々と術式を展開した。
そして気を送り始めてから20秒ほど耐えたところで、貧血のような症状を起こして、その場に倒れ込んだのであった。
水仙の糸で晴也の転倒を防いだ一樹は、深い溜息を吐いた。
「お付き合いの件は、無かったと言うことで、よろしいでしょうか」
霊符を用意してくれる事務所の所長である一樹に対して、夕氷は念を押した。
「残念ながら、そうなりますね」
氷の眼差しで晴也を見下ろす夕氷を見て、一樹は粛々と同意したのであった。