269話 ミンタラコロカムイ
「ここは、どこだ?」
一樹の視界いっぱいに、色鮮やかな花畑が広がっていた。
どれだけ広がっているかといえば、視線の彼方に森が見えており、その森に至るまでが花畑だ。
遠くには山が見えており、天空は澄んだ青空で、白い雲も浮かんでいる。
森までは、数百メートル。山までは、数キロメートル。
背後を振り返れば、登ってきた石の階段は消えており、あったはずの札幌市も消え失せて、前方と同様に花畑が広がっていた。
辛うじて1ヵ所だけ、花畑の中に社が建っている。
「どういうことでしょうか」
一樹と同様に、蒼依達も困惑している。
皆の視線を受けた香苗は、落ち着いた口調で語った。
「ここは異界です。塗り潰しの絵馬に描かれた世界が、近いかもしれません。時間は、過ぎていきますけれど」
「……異界」
異界と聞いて一樹が思い浮かべたのは、式神の召喚術だった。
式神の召喚は、大別して3つある。
1つ目、鬼神・神霊を、呪力と術で使役する陰陽道系。
2つ目、異界より喚び出す護法神。(神社の稲荷、寺の金剛力士等)
3つ目、紙や木片に、自分や誰かの呪力を籠める道教呪術系。
そのうち2つ目にあたる異界について、どんなところだろうと考えたことはあった。
それに対する答えの一つが、この空間であるらしい。
――護法神が、普段在る世界の一つか。
札幌の稲荷社を訪れた認識があることから、ここが異界の一つであると考えること自体は、それほど困難ではない。
もっとも、拭い去れない違和感は存在する。
妖狐が各地の稲荷社に張った結界にしては、強すぎることだ。
塗り潰しの絵馬も同規模以上の空間を生み出せるが、使役にはA級中位の呪力を要する。
A級上位の豊川りんであれば可能だが、豊川稲荷で生み出すのが精々だろう。
「豊川稲荷に張られていた結界の先よりも、凄くないか」
「豊川稲荷は、人払いの結界を施した上で現世に作っていましたけれど、こちらは異界ですよね」
A級に定席を持つ五鬼童家の沙羅が、家の常識を以て、一樹の違和感に賛同した。
この異界には、視界いっぱいに、色とりどりの花がある。
赤、青、紫、黄、緑、白。
六色が、厚みのある層を成しており、地表を覆っている。
それらは、一樹達が訪問したラベンダー畑のように人工的に並んで植えられているのではなく、バラバラに入り交じっており、それぞれが生命として力強く咲いている。
足の踏み場すら無いほどで、踏んで良いのかと躊躇う。
「それで、この花畑は何なんだ」
「ミンタラコロカムイという、アイヌに伝わる庭の神です。その昔……」
その話は、北海道の日高地方に伝わる。
その昔……赤、青、紫、黄色に彩られた着物を着た、酒好きの神が居た。
神は、他所の神に供えられる酒を見ては飲みたいと考えたが、誰も自分に酒を供えない。
そのため神は恨んで、アイヌの集落を泥の海にしようとした。
だが別の神に露見して、人の住処に近い場所へ連れて行かれ、身体を刀で斬り刻まれる。
その身体は人の世界にばらまかれたが、そこから赤、青、紫、黄、緑、白の六色からなる草花が生えるようになった。
以降、人々から庭の神として崇められて、酒を供えられるようになったという。
なおミンタラコロカムイというアイヌ語は、次の意味がある。
ミンタラは、『遊ぶ庭』や『遊び場』。
コロは、『持つ』や、『~のある』。
カムイは、『神』など。
ミンタラコロカムイは、それらのニュアンスを含む、庭の神となる。
「酒を供えないから泥の海に沈めようとしたなんて、厄介な神だな」
若干呆れながらも、神話ではよくある話だと一樹は納得した。
「神々の争いの果てに生み出された異界なら、人の力を越えた空間でも有り得るか」
「そうなのですか?」
「バラバラの草花にされたミンタラコロカムイが、地脈の力を使って、異界の神域を維持しているのかもしれない。確かに、塗り潰しの絵馬に似ている部分もあるな」
一樹と蒼依が話し合っている中、香苗は一樹が持ってきた手提げ袋から木箱を取り出して、神供用の酒を花畑の中にある社に持っていった。
木箱から一升瓶を出した香苗は、それを社に捧げる。
それからパンパンと手を打ち合わせ、二拝二拍手一拝を始めたので、一樹達も倣った。
すると花畑は、鮮やかに色を変えた。
赤や黄は熟れた果実のように濃く、青や紫は雪解けの川面を思わせる涼しげな色に変わる。
緑は若葉の芯までみずみずしく、白は輝いて光を反射した。
「行き先を決める時、札幌伏見稲荷では、ちょっとした御利益もありますと、言いましたよね」
「確かに、そう言っていたな」
「御利益とは、この庭の神の力を、塗り潰しの絵馬・大根に移植することです。そうすることで赤、青、紫、黄、緑、白の6色で描ける植物を作れるようになります」
「どうして、そんなことが分かるんだ」
「実際に、力を借りた妖狐が居ますので。北海道で妖狐が飢饉を救う話、沢山ありますよね」
「ああ、そういう繋がりがあるのか」
道理で北海道の妖狐には、人々の飢饉を救う話が多いわけである。
そんな風に得心した一樹は、6色で描ける植物について思い浮かべた。
「赤、青、紫、黄、緑、白で描ける農作物って、何があったかな」
生憎と一樹は、料理が得意ではない。
鹿野の経験で米は炊けるし、汁物も作れる。
だが自分だけで食べる料理など適当で、得意など烏滸がましいにも程がある。
それに江戸時代の一地方で採れる野菜は、種類も少なかった。
周囲の女性陣に視線を向けると、蒼依、沙羅、柚葉が相次いで答えた。
「主食だけでも、稲、小麦、トウモロコシ、豆が6色で描けそうですね」
「野菜も、ニンジン、紫芋、カボチャ、大根、白菜、キャベツ、レタス、ほうれん草、キュウリ、小松菜は、6色に入るかもしれません」
「果物も、沢山ありますよ。リンゴ、ブドウ、イチゴ、バナナ、キウイ、スイカ、メロン、梨、桃、ブルーベリー……ブルーベリーアイス、美味しかったですよね!」
挙げられた農作物だけでも、鹿野で暮らしていたよりも遥かに豊かな食生活になる。
庭には家庭菜園も存在するので、庭の植物から逸脱はしていないのかもしれない。
はたして、どれだけの規模を出せるのか。
その答えは、目の前に広がる花畑が、如実に示している。
それは個人の感覚では、あまりに多すぎた。
小太郎も、正気かという表情を浮かべている。
「呪力消費は、どれくらいだ」
「自生する植物に必要なものは、絵馬の世界で賄えるのではありませんか。そうでなくとも、妖狐が扱えた程度に軽いですよ」
「とんでもない御利益だな。俺だと、上手く使い切れないかもしれない」
「御利益があるからといって、使い切る必要は無いでしょう。絵馬を出して下さい」
香苗に要求された一樹は、塗り潰しの絵馬・大根を顕現させた。
すると香苗のほうは、神刀・小狐丸を出す。
火行護法神を継承した際に引き継いだ、製鉄と鍛冶の神である天目一箇神が作刀させた神刀だ。それを香苗は、無造作に薙いだ。
すると神刀は、花には掠りもしていないのに、周囲の花々を高らかに舞い上げた。
――神話の再現か。
舞い上がった花々は、神話の如くバラバラに散らばって、一樹の絵馬にも吸い込まれていく。
一樹が呪力で拒否すれば弾けるだろうが、香苗の話を聞く限り、受け入れるメリットは大きい。
事前に聞いていた、神の御利益そのものだ。
見逃した結果、庭の神の分霊は植物が大地に根付くように、絵馬の世界に溶け込んでいった。
「酒好きだそうですので、たまにお酒を絵馬へ入れれば、良いと思います」
「俺が想像していた御利益とは、随分と違ったな」
「御利益の殆どは、怨霊との戦いとは無関係ですよ」
御利益とは、神仏の力によって受けられる恵み、幸運、または恩恵のことだ。
新年に初詣で無病息災を祈ったり、受験生が学業成就を祈ったりすることは、怨霊との戦いとは無関係な例の典型であろう。
日本人の大多数は、戦いとは無関係な参拝をしている。
「そうかもしれないけどな」
一樹は、ミンタラコロカムイの一部を取り込んだ塗り潰しの絵馬に念じる。
すると絵馬の表面に、白と緑の野菜が浮かんできた。
我ながら安直だと思いつつ、一樹はそれを顕現させる。
微細な呪力と引き替えに、立派な大根が落ちてきた。


























