266話 屈斜路湖の女神
修学旅行の二日目は、バスによる北海道の横断となった。
午前中には、登別市から富良野市まで3時間も移動した。
辿り着いたのは、観光名所の一つである富良野のラベンダー畑だ。紫のラベンダーが咲き乱れており、空の青と見事に調和していた。
「ラベンダーアイス、美味しかったですね」
「柚葉は花より団子だったな」
これでは母龍から、まだ子供という扱いをされるのも無理はない。
もっとも一樹も、北海道は雄大だという感想を抱いただけだった。
一樹達を乗せた観光バスは、さらに東へ3時間の移動を始めた。
「次は硫黄山と屈斜路湖らしいけど、一日で移動するには遠すぎるんじゃないか」
「とても長い移動時間ですよね」
学校側の目的が、生徒に北海道の自然を体験させるということであれば、見事に達成している。
車窓からの景色は、徐々に変化していった。
農村風景の向こうには次第に原野が広がり、道路の両脇に白樺やカラマツの林が増えていく。
雲が低く垂れ、山並みの輪郭が青く霞んでいた。
道路の片側には牧草地が続き、黒い牛が群れをなして草を食んでいる。
もう一方には、川が緩やかに流れ、岸辺にはハマナスの赤い実が点々と見えていた。
「この地域は、どうやって身を守っているのですか」
「確かに北海道は広大すぎて、陰陽師がすぐには駆け付けられないな」
蒼依が発した疑問に、一樹は頷いた。
通報から到着までに時間が掛かりすぎると、対象の妖怪は移動してしまう。
陰陽師が駆け付けても、相手を見つけられない。
「肉体がある小鬼は、猟銃で撃つ。そうすれば賢い小鬼達は、警戒して近付かなくなる」
「チンパンジーくらい賢いんでしたっけ」
「それくらいの賢さは、あると思って良い。野生動物と同じだな」
北海道の開拓は、銃器を使って一気に進んだ。
明治時代、政府が陰陽寮を解体したほどには、銃は有用だった。
「それに雑霊なら、アイヌの木幣という祭具に、魔除けの効果がある」
「木幣とは、どういうものですか?」
「神道の祭祀に使う御幣に似た祭具で、御幣では紙の部分が、木幣では木になっている」
「効果も同じなのですか?」
「祓えの効果はある。その木幣で駄目なら、ようやく陰陽師が呼ばれることになるな」
銃と木幣の多用によって、広大な北海道の3分の1が、人の領域と化している。
一樹が口を閉ざすと、添乗員の山本がマイクを通して明るく話した。
『そろそろ硫黄山に到着します。硫黄山は観光地として有名ですが、興味深い歴史もありますよ』
日本には、硫黄山と呼ばれる山が複数ある。
その中で一樹達が赴いたのは、屈斜路湖からバスで10分ほどの距離にあり、アイヌ語ではアトサヌプリと呼ばれる活火山だ。
アイヌが口伝で歴史を伝えてきたため、噴火した時期の正確な記録はない。
過去2700年で7回の爆発的な噴火が起こったと推測されており、最新の噴火は300年から400年前と考えられている。
『硫黄は、マッチ、火薬、紙、ゴムなど、当時の文明を進展させるために重要な資源でした』
マッチは、マッチ頭の主要成分に、赤リンと混合した硫黄が使われている。
火薬や黒色火薬は、三大成分が硝石、木炭、硫黄だ。
紙やパルプは、漂白や製紙工程に二酸化硫黄が使用される。
ゴムは、生ゴムを硫黄と加熱して弾性を高める処理に使われる。
そのほかにも、医薬品、農薬、化学肥料などにも使われている。
『硫黄は、明治時代の産業発展には欠かせない資源でした。そのため鉄道が敷かれて、採鉱された硫黄が大量に本州へ送られました。やがて硫黄は枯渇しましたが、残った鉄道が、北海道の開拓を押し進めることになりました』
高校生の修学旅行だからか、添乗員が修学に相応しい話をした。
やがてバスは、硫黄山の麓にある駐車場へ辿り着く。
バスのドアが開くと、たまごの腐ったような臭いが鼻を突いた。
車外には地面が白く焼けたような岩肌が広がっており、あちこちから蒸気が立ち昇っていた。
「噴き出している蒸気って、何度くらいあるんだ?」
「北村くん、危ないよ」
噴き出している蒸気は、100度ほどあるらしい。
北村を班員が制止する様子も眺めながら、一樹は硫黄山の見学を終えた。
再びバスに乗り込んで、今度は屈斜路湖に移動する。
針葉樹の森の向こう側には、遠くに淡く銀色に輝く水面が見え始めた。
『屈斜路湖は、数十万年前から数万年前の火山活動によって形成された巨大な窪地に、水が溜まって生まれた、日本最大のカルデラ湖です。最後の噴火は、最終氷河期の中頃、今からおよそ3万年前に起きたと考えられています』
活火山の定義は、過去1万年以内に噴火があることだ。
屈斜路湖を生み出した火山活動は、休止していることになる。
『湖の広さは約80平方キロメートルで、東京都新宿区が四つほど入る広さです。見学の際は足元に気をつけて、自然の景観を楽しんでくださいね』
添乗員が締めくくったところで、一樹達はバスを降りた。
視界には、見渡す限り湖面が広がっている。
空も青色で、一樹の視界の大半が青に染まった。
「湖に半島が突き出していますね」
蒼依が指差した先には、湖に半島が突き出して見えていた。
「あれは和琴半島といって、山の女神を祀る屈斜路神社が、建立されているそうだ」
「山の女神ですか?」
山の女神の一柱である蒼依が、同じ山の女神に関心を向けた。
日本には、山の神が数多存在しており、力の差も幅広い。
とはいえ神社が建立されるレベルであれば、立派に神を名乗れるだろう。
「アイヌではなく、和人の伝承だが……」
かつて屈斜路湖の湖畔に、木こりの男が住んでいた。
男には妻が居て、その妻が、山で働く夫の姿を見たいと言った。
夫は、山の神が怒るかもしれないと懸念を伝える。だが妻は納得しなかったので、夫は仕方がなく妻を山に連れて行った。
そして木を伐っていると、いつの間にか、とても美しい女性が夫の腰に抱き付いていた。
妻が驚いて誰何したところ、女性の姿が消えた。
直後、伐った木が夫に倒れてきて、夫は押し潰されてしまった。
「その夫に抱き付いた女性こそ、山の女神だったという話だ」
一樹が説明を終えると、蒼依が首を傾げた。
「女人禁制の山だったのですか?」
女人禁制という単語を聞いた一樹が、沙羅に視線を向けた。
すると沙羅が苦笑している。
「何かありましたか?」
「現代でも女人禁制とされる山の一つに、奈良県の大峰山がある。その大峰山麓に、沙羅の祖先である前鬼と後鬼が住んで、子孫が宿坊を開いた。前鬼は、大峰山前鬼坊と呼ばれる」
「ええっ、そうなのですか?」
「そうですよ。五鬼童家は、すでに活動拠点を移していますけれど、今も大峰山は女人禁制です」
沙羅は面白そうに、大峰山の女人禁制について語った。
「女人禁制の山に登ったら、どうなるのですか?」
「山を神域にしている神が、登ってきた女性に怒って罰を与えたら、神罰になりますよね。実際に神罰を与えた記録は、いくつかあります。例えば……」
富山県の『越中旧事記』や『諸国里人談』には、女人禁制の山を登ろうとした女が神罰を受けた話が記されている。
昔、止宇呂尼という尼僧が、年増女と少女の2人を連れて、女人禁制の立山に登ろうとした。
すると最初に入口で、その場に積んであった材木が石に変えられた。
止宇呂尼が警告を無視して進むと、坂道で年増女が、杉の木に変えられた。
恐怖した少女を連れて、なおも尼僧が進んでいくと、今度は少女も杉の木に変えられた。
それでも進もうとした尼僧は、額から角を生やして、石と化した。
それらは材木石、美女杉、カムロ杉、姥石と呼ばれるようになった。また止宇呂尼の額の角は、立山の雄山神社に納められている。
「どうして神罰を与えるのでしょうか」
「修行の妨げになるという理由で禁じているのに、人間が無視して登ったので怒ったとか」
神域にしている神ごとに、理由は異なるかもしれない。
「沙羅は、大峰山に登ったことはないのですか?」
「もちろん、ありませんよ。怒らせても良いことなんて、何もありませんから」
沙羅の断言を耳にした一樹は、不意に五鬼童家の事情が、脳裏を過ぎった。
五鬼童の本家と分家は、当主だけがA級、ほかがB級だ。
どうして同じ血筋であるにもかかわらず、当主だけが飛び抜けるのか、疑問を抱いていた。
だが大峰山に祀られた神が、五鬼童家の当主だけに御利益を与えるとしたら、辻褄が合う。
大峰山には、前鬼・後鬼を従えた修験道の開祖である役小角も祀られている。
役小角が五鬼童家に御利益を与えることは、繋がりが分かり易くて、納得感もある。
御利益は、五鬼童家が女人禁制を厳守し続ける理由にもなるだろう。
「ここには、来ても大丈夫なのでしょうか?」
湖の周囲には、いくつもの山が聳え立っている。
他神の神域に踏み込んで、大丈夫なのか。
そんな蒼依の懸念に対して、一樹は持論を述べた。
「おそらく大丈夫だろう。まずは、神罰が続いていない」
神罰が続いているのなら、修学旅行の行き先に屈斜路湖が入るわけがない。
誰も神罰を受けていないことに、蒼依は一先ず頷いた。
「それに通常なら山に登った女が神罰を受けるが、言い伝えでは男のほうが神罰を受けた」
「そうですね。なぜでしょうか」
「言い伝えでは、女神が男の腰に抱き付いている。女神が男に好意を寄せていて、男が妻を連れてきたから怒ったとか、色んな可能性が考えられる」
そんな話が有り得るのかといえば、主に目の前にある。
一樹が蒼依の瞳を見つめると、蒼依は納得するように、二度ほど頷いた。


























