表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
268/272

257話 布引の底

 6月3度目の土曜日、一樹は夢乃と共に『布引の滝』を訪れた。

 布引の滝とは、兵庫県神戸市にある新神戸駅の北側、生田川中流にかかる滝のことだ。

 4つの滝を総称しており、上流から雄滝(おんたき)夫婦滝(めおとだき)鼓ヶ滝(つつみがだき)雌滝(めんたき)と呼ばれる。

 新神戸駅からそれぞれの滝までは、徒歩で5分から15分程度。

 日本三大神滝とされ、駅から滝へ遊歩道が整備されているが、平安時代から安易に赴ける場所で多くの貴族も訪れていた。


 『源平盛衰記』(鎌倉時代)には、次のように記される。

 平清盛の嫡男・平重盛が布引の滝(兵庫県神戸市)へ遊覧に訪れた折、ふと「この滝の深さを知りたい。泳ぎに長けた者はおらぬか」と問いかけた。

 すると、備前国の難波六郎経俊が名乗りを上げた。

 経俊は、二尺八寸(約84センチメートル)の秘蔵の太刀を脇に挟み、滝壺へと飛び込んだ。

 水中を四~五丈(約12~15メートル)ほど潜ると、御殿の棟の上に着地したが、奇妙なことに、腰から上には水があり、腰から下は乾いていた。


 庭を見れば、そこは四季が同居する不思議な世界だった。

 東は春で、霞がたち、梅には鶯が鳴き、藤の花が咲いている。

 南は夏で、杜若や菖蒲、卯の花が咲き乱れ、ホトトギスが鳴き、蛍が舞い、蝉が声を上げる。

 西は秋で、荻や女郎花、薄が揺れ、鹿の鳴き声が響く。ムササビが飛び交い、紅葉は鮮やかに色づき、虫の音が風に乗って聞こえていた。

 北は冬で、木々は枯れ果て、雪が積もり、氷柱が連なっていた。


 庭には、金銀の砂が敷かれ、瑠璃や琥珀の橋が架かる。

 瑪瑙の立石、珊瑚の礎、真珠の立砂が四方を飾り、絢爛豪華な屋敷が建っていた。

 やがて、機を織る音が聞こえた。経俊が音のする方へと進むと、屋敷の中に、一人の女がいた。

 年の頃は三十ほど、背丈は八尺(約240センチメートル)もあろうかという大柄な女である。

 経俊は、女に問うた。


『ここは何処か、何者の住処か』

『ここは布引の滝壺の底、竜宮城なり。あやしくも来る者かな』


 驚いた経俊が戻って平重盛に報告したところ、暗雲が滝を覆い、雷が鳴って大雨が降り、激しい雷光が目を眩ませた。


『私は雷に打たれて死ぬでしょう。近くにいらっしゃると万が一のことがあるかもしれないので、お離れになってご覧ください』


 そのように経俊が訴えて、重盛は2町(218メートル)ほど離れて様子を見た。

 すると暗雲が経俊を引き回し、雷の鳴る音や、何かがぶつかるような音が轟いた。

 やがて空が晴れたので近付いてみると、経俊は引き裂かれ、うつぶせに倒れて死んでいた。

 太刀には血が付いており、猫の足のようなものが切り落とされていたという。


「滝壺が入口になっています」


 高さ43メートルから流れる雄滝の手前、立ち入り禁止の札が掛けられた木製の柵に手を掛けた夢乃は、その先にある滝壺を覗き込んだ。


 柵の先には、岩肌を滑り落ちる白銀の水流が、絶え間なく滝壺へと注ぎ込んでいる。

 垂直に切り立った岩壁を伝い、一本の絹糸のように流れ落ちる水は、陽光を受けて七色に輝き、滝壺の水面に無数の光の粒を散らしていた。


「蓬萊との出入り口が、滝壺にあるとは思わなかった」


 蓬萊とは、『古代中国で東の海上(海中)にある、仙人が住む仙境の一つ』だ。

 東方の海に浮かぶ三神山の一つで、不老不死の薬(仙薬)があり、古代中国の国家である燕や斉の諸王が探し求め、秦の始皇帝も方士の徐福を遣わした。

 日本で有名な昔話の一つ、浦島太郎の原話となった『丹後国風土記』(8世紀)の浦島子では、辿り着いた先が蓬莱だったと記される。


「俺は浦島太郎のように、亀を助けてはいないが」

「御身は、踏み入る資格をお持ちとのことですが」

「一応、資格が無いこともない」


 一樹は、泰山府君の神気を宿している。

 泰山府君は、道教における最高神・玉皇上帝の孫であり、東岳(泰山)に下りて神となった輔星の精にして、泰山を神格化した東岳大帝だ。

 泰山府君の神気を宿す一樹が、神山に踏み入ることを拒まれるわけがない。


「仙境には神仙が住むそうだが、夢乃はどうして入れるんだ」

「三田九鬼は、蓬莱の出入り口の一つに貢献しました故」

「神戸の開発には、三田九鬼が大きな役割を担っていたな」


 新神戸駅の至近にありながら、滝壺の周囲は、深い緑に包まれている。

 夏に向かう季節の湿気を帯びた空気が、木々の葉を濃く鮮やかにしていた。滝の轟音とともに、ひんやりとした風が吹き抜け、頬を撫でるたびに心地よい涼しさをもたらす。


 柵の向こうでは、苔むした岩々が、水飛沫を浴びてしっとりと濡れ光っていた。

 根を深く張った木々が、滝壺の周りを囲むように生い茂り、その枝葉が日の光を遮ることで、滝壺の水は深い翡翠色を湛えている。

 水面は静かながらも、滝が落ちる衝撃で時折泡立ち、円を描くように揺れては消えていく。

 仙境の出入り口を保つべく尽力する一族ならば、仙境に踏み入ることが許されるかもしれない。


「九鬼の分家に手を貸して下さったように、此方の困り事にも、ご助力下さるのでしょう?」

「そうだったな。それじゃあ、行くか」


 いつまでも躊躇っていても仕方がない。

 一樹が応じると、夢乃は手すりを踏み越えて滝壺へと跳んだ。

 周囲の観光客が驚く間もなく、一樹も夢乃に続いて滝壺に飛び込んだ。


 激しい水音と共に、身体が水中へと沈み込む。

 目を開けると、水中には不思議な光の粒が舞っていた。

 まるで星々が漂う夜空のように、青白い光がゆらめき、滝壺の暗がりを照らしている。


 ――身体が浮かばない。


 滝から流れ落ちて生まれる水流に飲まれた一樹は、滝壺の底へと沈んでいく。

 一樹の身体から少し先には、夢乃が案内するように先行していた。

 夢乃は微かに振り向いて、一樹と視線を交わす。


 ――付いて来いと、いうことか。


 意図を察した一樹は夢乃に倣い、さらに下へと潜っていった。

 滝壺の底へ近づくにつれ、周囲の様子が変わり始めた。

 水の中にいるはずなのに、なぜか呼吸ができる。そして気付けば、腰から下に水が無かった。

 それはまさに、『源平盛衰記』に記された世界そのものだった。

 一樹は身体を屈めて、水の無い空間へと入り込んだ。


 目の前には、不思議な光景が広がっていた。

 東の空には淡い霞がかかり、梅の花がほころぶ枝にウグイスが止まり、さえずっている。足元には藤の花がしなだれ、甘い香りが漂っていた。

 南へ目を向ければ、夏の花々が咲き乱れ、蛍の光が幻想的な軌跡を描いていた。ホトトギスの鳴き声が響き、遠くで蝉が鳴いている。

 西には秋の風景。紅葉した木々が風に揺れ、黄金色のススキが波打っていた。鹿の遠吠えが静寂を破り、草陰では虫の音が細やかに響く。

 北へ目を向けると、一面の銀世界が広がっていた。雪の積もる木々、連なる氷柱、冷たい空気が頬を撫でる。


「ここが蓬莱、三神山の一つか」


 神仙が住まい、不老不死の仙薬すらあるという名高き仙境。

 中国の諸王や、始皇帝が探し求めた地は、確かに人が追い求める財に溢れている。

 一樹が降り立った中華風の宮殿にある庭の中央には、黄金の砂が敷き詰められた道が続く。

 瑠璃と琥珀でできた橋が川を渡り、真珠のように白く輝く立石が並んでいる。

 珊瑚の礎が築かれ、細工の施された瑪瑙の灯籠が並ぶ。


 日本の家とは異なる建築様式に、贅沢に使われている金銀財宝。力を持つ住人の神仙。

 浦島太郎が竜宮城と称すしかなかったのも道理の空間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本作が、TOブックス様より刊行されました。
【転生陰陽師・賀茂一樹】
▼書籍 第7巻2025年12月15日(月)発売▼
書籍1巻 書籍2巻 書籍3巻 書籍4巻 書籍5巻 書籍6巻
▼漫画 第2巻 発売中▼
漫画1巻 漫画2巻
購入特典:妹編(共通)、式神編(電子書籍)、料理編(TOストア)
第7巻=『七歩蛇』 『猪笹王』 『蝦が池の大蝦』 巻末に付いています

コミカライズ、好評連載中!
漫画
アクリルスタンド発売!
アクスタ
ご購入、よろしくお願いします(*_ _))⁾⁾
1巻情報 2巻情報 3巻情報 4巻情報 5巻情報 6巻情報

前作も、よろしくお願いします!
1巻 書影2巻 書影3巻 書影4巻 書影
― 新着の感想 ―
土地開発の阻止という貢献で神仙とコネできるんだなー
まさかの蓬莱突入。凄いところにきたもんだ。
仙人に与力される一族だからB級って事なのか、そもそも夢乃一人だけが特別な存在なのか。 まあそれだけの力を長年隠し続けて存続するってのはさすがに難しいだろうから夢乃が特別って事なのかな。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ