257話 布引の底
6月3度目の土曜日、一樹は夢乃と共に『布引の滝』を訪れた。
布引の滝とは、兵庫県神戸市にある新神戸駅の北側、生田川中流にかかる滝のことだ。
4つの滝を総称しており、上流から雄滝、夫婦滝、鼓ヶ滝、雌滝と呼ばれる。
新神戸駅からそれぞれの滝までは、徒歩で5分から15分程度。
日本三大神滝とされ、駅から滝へ遊歩道が整備されているが、平安時代から安易に赴ける場所で多くの貴族も訪れていた。
『源平盛衰記』(鎌倉時代)には、次のように記される。
平清盛の嫡男・平重盛が布引の滝(兵庫県神戸市)へ遊覧に訪れた折、ふと「この滝の深さを知りたい。泳ぎに長けた者はおらぬか」と問いかけた。
すると、備前国の難波六郎経俊が名乗りを上げた。
経俊は、二尺八寸(約84センチメートル)の秘蔵の太刀を脇に挟み、滝壺へと飛び込んだ。
水中を四~五丈(約12~15メートル)ほど潜ると、御殿の棟の上に着地したが、奇妙なことに、腰から上には水があり、腰から下は乾いていた。
庭を見れば、そこは四季が同居する不思議な世界だった。
東は春で、霞がたち、梅には鶯が鳴き、藤の花が咲いている。
南は夏で、杜若や菖蒲、卯の花が咲き乱れ、ホトトギスが鳴き、蛍が舞い、蝉が声を上げる。
西は秋で、荻や女郎花、薄が揺れ、鹿の鳴き声が響く。ムササビが飛び交い、紅葉は鮮やかに色づき、虫の音が風に乗って聞こえていた。
北は冬で、木々は枯れ果て、雪が積もり、氷柱が連なっていた。
庭には、金銀の砂が敷かれ、瑠璃や琥珀の橋が架かる。
瑪瑙の立石、珊瑚の礎、真珠の立砂が四方を飾り、絢爛豪華な屋敷が建っていた。
やがて、機を織る音が聞こえた。経俊が音のする方へと進むと、屋敷の中に、一人の女がいた。
年の頃は三十ほど、背丈は八尺(約240センチメートル)もあろうかという大柄な女である。
経俊は、女に問うた。
『ここは何処か、何者の住処か』
『ここは布引の滝壺の底、竜宮城なり。あやしくも来る者かな』
驚いた経俊が戻って平重盛に報告したところ、暗雲が滝を覆い、雷が鳴って大雨が降り、激しい雷光が目を眩ませた。
『私は雷に打たれて死ぬでしょう。近くにいらっしゃると万が一のことがあるかもしれないので、お離れになってご覧ください』
そのように経俊が訴えて、重盛は2町(218メートル)ほど離れて様子を見た。
すると暗雲が経俊を引き回し、雷の鳴る音や、何かがぶつかるような音が轟いた。
やがて空が晴れたので近付いてみると、経俊は引き裂かれ、うつぶせに倒れて死んでいた。
太刀には血が付いており、猫の足のようなものが切り落とされていたという。
「滝壺が入口になっています」
高さ43メートルから流れる雄滝の手前、立ち入り禁止の札が掛けられた木製の柵に手を掛けた夢乃は、その先にある滝壺を覗き込んだ。
柵の先には、岩肌を滑り落ちる白銀の水流が、絶え間なく滝壺へと注ぎ込んでいる。
垂直に切り立った岩壁を伝い、一本の絹糸のように流れ落ちる水は、陽光を受けて七色に輝き、滝壺の水面に無数の光の粒を散らしていた。
「蓬萊との出入り口が、滝壺にあるとは思わなかった」
蓬萊とは、『古代中国で東の海上(海中)にある、仙人が住む仙境の一つ』だ。
東方の海に浮かぶ三神山の一つで、不老不死の薬(仙薬)があり、古代中国の国家である燕や斉の諸王が探し求め、秦の始皇帝も方士の徐福を遣わした。
日本で有名な昔話の一つ、浦島太郎の原話となった『丹後国風土記』(8世紀)の浦島子では、辿り着いた先が蓬莱だったと記される。
「俺は浦島太郎のように、亀を助けてはいないが」
「御身は、踏み入る資格をお持ちとのことですが」
「一応、資格が無いこともない」
一樹は、泰山府君の神気を宿している。
泰山府君は、道教における最高神・玉皇上帝の孫であり、東岳(泰山)に下りて神となった輔星の精にして、泰山を神格化した東岳大帝だ。
泰山府君の神気を宿す一樹が、神山に踏み入ることを拒まれるわけがない。
「仙境には神仙が住むそうだが、夢乃はどうして入れるんだ」
「三田九鬼は、蓬莱の出入り口の一つに貢献しました故」
「神戸の開発には、三田九鬼が大きな役割を担っていたな」
新神戸駅の至近にありながら、滝壺の周囲は、深い緑に包まれている。
夏に向かう季節の湿気を帯びた空気が、木々の葉を濃く鮮やかにしていた。滝の轟音とともに、ひんやりとした風が吹き抜け、頬を撫でるたびに心地よい涼しさをもたらす。
柵の向こうでは、苔むした岩々が、水飛沫を浴びてしっとりと濡れ光っていた。
根を深く張った木々が、滝壺の周りを囲むように生い茂り、その枝葉が日の光を遮ることで、滝壺の水は深い翡翠色を湛えている。
水面は静かながらも、滝が落ちる衝撃で時折泡立ち、円を描くように揺れては消えていく。
仙境の出入り口を保つべく尽力する一族ならば、仙境に踏み入ることが許されるかもしれない。
「九鬼の分家に手を貸して下さったように、此方の困り事にも、ご助力下さるのでしょう?」
「そうだったな。それじゃあ、行くか」
いつまでも躊躇っていても仕方がない。
一樹が応じると、夢乃は手すりを踏み越えて滝壺へと跳んだ。
周囲の観光客が驚く間もなく、一樹も夢乃に続いて滝壺に飛び込んだ。
激しい水音と共に、身体が水中へと沈み込む。
目を開けると、水中には不思議な光の粒が舞っていた。
まるで星々が漂う夜空のように、青白い光がゆらめき、滝壺の暗がりを照らしている。
――身体が浮かばない。
滝から流れ落ちて生まれる水流に飲まれた一樹は、滝壺の底へと沈んでいく。
一樹の身体から少し先には、夢乃が案内するように先行していた。
夢乃は微かに振り向いて、一樹と視線を交わす。
――付いて来いと、いうことか。
意図を察した一樹は夢乃に倣い、さらに下へと潜っていった。
滝壺の底へ近づくにつれ、周囲の様子が変わり始めた。
水の中にいるはずなのに、なぜか呼吸ができる。そして気付けば、腰から下に水が無かった。
それはまさに、『源平盛衰記』に記された世界そのものだった。
一樹は身体を屈めて、水の無い空間へと入り込んだ。
目の前には、不思議な光景が広がっていた。
東の空には淡い霞がかかり、梅の花がほころぶ枝にウグイスが止まり、さえずっている。足元には藤の花がしなだれ、甘い香りが漂っていた。
南へ目を向ければ、夏の花々が咲き乱れ、蛍の光が幻想的な軌跡を描いていた。ホトトギスの鳴き声が響き、遠くで蝉が鳴いている。
西には秋の風景。紅葉した木々が風に揺れ、黄金色のススキが波打っていた。鹿の遠吠えが静寂を破り、草陰では虫の音が細やかに響く。
北へ目を向けると、一面の銀世界が広がっていた。雪の積もる木々、連なる氷柱、冷たい空気が頬を撫でる。
「ここが蓬莱、三神山の一つか」
神仙が住まい、不老不死の仙薬すらあるという名高き仙境。
中国の諸王や、始皇帝が探し求めた地は、確かに人が追い求める財に溢れている。
一樹が降り立った中華風の宮殿にある庭の中央には、黄金の砂が敷き詰められた道が続く。
瑠璃と琥珀でできた橋が川を渡り、真珠のように白く輝く立石が並んでいる。
珊瑚の礎が築かれ、細工の施された瑪瑙の灯籠が並ぶ。
日本の家とは異なる建築様式に、贅沢に使われている金銀財宝。力を持つ住人の神仙。
浦島太郎が竜宮城と称すしかなかったのも道理の空間だった。
























