254話 海坊主
東の空が薄紅に染まり、水平線の向こうから太陽がゆっくりと顔を覗かせていた。
宿泊したホテルから幽霊船に戻った一樹と沙羅は、船に残していた隆士と合流した。
「首尾はどうだ」
「海童に助力を得られました。今日であれば、海を荒らす妖怪と戦う際に力を貸してくれます」
二百数十年前の伝承通りに、隆士は海童と遭遇したらしい。
伝承と全く同じ場所で、同じ行動を取ったのだから、酒好きな同一個体であれば釣られてやってくるのは不思議な話ではない。
――酒を飲む妖怪に、童の漢字を宛がうのはどうかと思うけどな。
念のため倍量を持ち込んだ一升瓶は、半分が空になっていた。
「海童は、一斗しか飲まなかったのか」
「いえ、手伝ったら残り半分も渡す約束になっています」
「そうか。やはり多目に持ち込んで良かった」
伝承では、人を助けることを褒めたところ喜んだとしか書かれていない。
おそらく船は守ってくれたのだろうが、追加で与力を得るのは別料金ではないか、あるいは交渉材料が必要になるのではないかと考えて、多目に用意しておいたのだ。
「ところで海童の姿は、伝承通りだったか」
「はい。子牛ほどの大きさで、猫の顔にカワウソのような胴体でした」
「猫顔の大きなカワウソか。文献は、表現が迂遠になったのかな」
隆士の元に現われたのが海童だと判断した一樹は、海童自体の使役について検討した。
海童は陸上歩行が困難と記されていたので、隆士の式神候補から除外していた。だがカワウソのように歩けるのであれば、使役する価値はある。
もっとも海童が霊体ではないのなら、預けるか連れ回さなければならず、隆士の負担になる。
やはり海童自体は使役が困難だと再確認した一樹は、霊体の水仙を回収して、沙羅を伴いながら船に乗り込んだ。
「予定通り出発する」
「了解です」
幽霊巡視船員に操舵を念じた一樹は、入り江から出港した。
雲の合間から時折姿を現す陽光が、大海原を青灰色に染めている。
波は穏やかで、幽霊巡視船の一部である救難艇は音を立てず、海上を滑るように北上していく。しばらく進んだところで、船が停船して、幽霊巡視船員も姿を消した。
そして釣り船のように、波間を漂い始める。
「さて、今回使役を試みるのは、海坊主だ。海坊主について予習はしてきたな?」
「日本各地の海に出没する有名な妖怪ですし、再確認してきました」
「そうか。念のため言ってみろ」
一樹が指示すると、隆士は海坊主について語り始めた。
「はい。海坊主とは、海上に現われる大男の怨霊です。大きさは数メートルから数十メートルで、海上を移動できて、船を捕まえます。船を捕まえると、ひしゃくを貸せと言い、ひしゃくを貸すと海水を入れて、船を沈めて人を殺します」
「そうだな。合っている」
海坊主とは、日本各地に伝承が残る妖怪だ。
江戸時代の浮世絵師である歌川国芳の 『東海道五十三対 桑名』では、「沖合にて俄に大風大波立て 大山の如き大坊主舩の先へ出ける」との解説と共に、船ほどの巨大な坊主が姿を現す姿が描かれている。
その正体は怨霊で、海で死んだ者の亡霊が、生者を殺して気を喰うことを目的としている。
怨霊なので海上を歩けるし、大きさも多様だ。
三重県にも海坊主の伝承は伝わっており、大島や佐波留島の沖に現れる。
一樹達の現在地は、まさに佐波留島沖だった。
「海坊主は知能が低くて、底の抜けたひしゃくを渡すと、それを使って海水を入れようとします。その場合は船を沈められなくて、諦めて帰ります」
「なぜ海坊主は、その巨体で船を沈めようとしないのか、理由は想像が付くか?」
「巨体に見合う呪力が無くて、実体化しても密度が薄いから、船を沈められないのでしょうか」
「良い答えだ」
無念を抱いた霊は、海で呪力を集め続けた場合、どれほどの力を持つのか。
海鼠は、G級の分霊が数千匹となっており、合計すればD級上位だと考えられる。
ナナカマス(菜々花)は、香苗が使役した時にD級中位だった。
どちらも呪力的には一般人で、殺された後に、三百数十年ほど海で力を蓄えている。
だがD級では、数メートルから数十メートルもの巨体は維持できない。
8メートルの牛鬼で、B級の大鬼となる。
霊体の密度が、B級の100分の1では、船を掴んで沈めるのは不可能だ。
「流石に、4月から学び始めた連中とは知見が異なるな」
綾部九鬼は陰陽師ではなく、江戸時代に大名、戦前に華族だった家柄だ。
それでも元海軍の九鬼として、代々に亘って海犬を使役しており、海鼠や化鼠の使役で四苦八苦する一年生達とは一線を画していた。
「それなら海坊主が、ひしゃくを貸せと要求するのは、何故だか分かるか?」
「海坊主が仕掛ける心霊戦だと考えます。ひしゃくを渡すと、攻撃を受け入れることになります。海水を入れられた分だけ、自分の霊体が引き込まれていき、最終的に殺されるのでしょう」
「それなら、底の抜けたひしゃくを渡すと、沈められなくて逃げる理由は?」
「対象が霊的なダメージを受けないことから、海坊主が自分より強いと思うからでしょうか」
「よし、特に言うことはないな。その考えで相対しろ」
「分かりました」
隆士が返答した後、一樹は口を閉ざした。
周囲には船が見当たらず、潮騒の音だけが響いてくる。
一樹が船の縁にもたれ掛かると、沙羅が隣に座って身体を預けてきた。
しばらく待つと、空気が急に冷たくなったように感じ、隆士は眉をひそめた。
「来たようです」
「俺達が呪力を発すると、海坊主は逃げていく。隠形しているから、一人でやってみろ」
「頑張って下さいね」
一樹と沙羅は、まったく動かない意思を示した。
その様子を見て、隆士は船上で一人警戒を始める。
すると突如、救難艇の揺れが大きくなる。船の下から大きな水流が巻き上がり、静かだった海面が不穏にうねり始めた。
突如、海面が裂けたように大きな水柱が立ち上がる。
水飛沫の中から現れたのは、巨大な頭部。滑らかで禿げた頭頂部が海上に現れ、次いでその下に浮かび上がる顔は、無表情ながら異様な威圧感を放っていた。
海坊主は、寺の坊主を巨大化して、黒い影っぽくしたような姿だった。
「これが海坊主か」
海坊主を睨め付けながら、隆士は静かに呟いた。
7メートル型高速警備救難艇に匹敵する巨体は、じっと船内を見下ろした。
そして、隆士が持ち込んだひしゃくに目を付ける。
『ひしゃくを貸せ……』
低く、湿った声が空気を振動させた。
言葉というよりも、うめき声に近いその響きが隆士の耳を打つ。
隆士は、素直にひしゃくを渡したりはせず、海坊主を睨め付ける。
『ひしゃくを貸せ……』
海坊主は動かず、ただひしゃくを求める言葉を繰り返した。
そのたびに低く響く声が波間に広がり、海面が微かに揺れた。
2度目の声掛けで、ようやく隆士は底の抜けたひしゃくを持ち、一歩ずつ海坊主に近付く。
海坊主は、その動きをじっと見つめていた。
「これで良いか」
隆士がひしゃくを海坊主に差し出すと、その巨大な腕が伸びてきた。海水に濡れた手は分厚く、爪は短いが鋭さを感じさせる。
ひしゃくを掴んだ瞬間、海坊主の瞳は暗く輝いた。
ひしゃくを掴んだ海坊主が、その先端を海中に突っ込んだ。
だが底の抜けたひしゃくは水を保てず、流れ落ちた海水は再び波間へと戻る。空のひしゃくが船上に掲げられ、ひっくり返された。
『ぬうぅ……』
海坊主は不満げに唸り声を上げながら、再びひしゃくを海中に突き入れる。
無駄な行為が二度、三度、四度と繰り返された後、隆士が海坊主に告げた。
「海坊主、お前は弱い。お前の力では、俺を害せない」
『力は……さほど変わぬ……。海なら……勝てる……』
「いや、お前は弱い。現にお前は、まったく害せていないだろう!」
隆士は、海坊主が仕掛けた心霊戦に乗った上で、逆に相手を攻撃し始めた。
海水を汲んでも対象がダメージを受けなかった場合、逆に海坊主がダメージを受ける。
弱っていく海坊主に対して、隆士は次の手を打った。
『召喚・海童』
隆士が力強く言葉を放つと、海面が再び揺れた。
低い波が寄せるだけだった静かな海が、一瞬にして荒々しい水流へと変わる。盛り上がった波間から、何かが飛び出した。
それは、猫のような顔を持つ異形の存在――海童だった。
陽光を浴びて濡れた毛並みが鈍く輝き、背中の鱗が水を弾くたびに青白い光を反射する。
猫のように吊り上がった瞳が海坊主を捉えると同時に、海童は俊敏に海面から跳び上がった。
しなやかな尾が海を蹴り、まるで矢のような勢いで海坊主へと迫る。
――イルカのジャンプ。
海童の動きに、一樹は水族館のショーで跳ぶイルカを連想した。
海坊主が振り返る間に、海童の鋭い爪が黒い影のような腕を引き裂いた。
『ぬ、お、ぉ……』
海坊主の巨大な腕に、白銀の傷跡が走った。
霧のように黒い靄をまとった腕が、一瞬で裂かれ、そこから禍々しい気が滲み出た。
海坊主が苦悶の呻き声を上げる間、海面に潜った海童は反転して、真下から飛び掛かる。
海坊主が海水を巻き上げながら腕を振り下ろしたが、それよりも速く襲い掛かった海童は、爪で喉元を引き裂いた。
『がああっ』
叫びながら仰け反った海坊主は、喉元を押さえながら後退した。
今まで圧倒的な存在感で船を見下ろしていたはずの巨体が、怯えたように海面に沈みかけた。
それを海面から突き上げるように、海童が三度目の攻撃を行う。
鋭い爪が海坊主の腹を引き裂き、禍々しい黒い霧が海面に散った。
圧倒的な優勢を確信した隆士は、陣を記した霊符を取り出して、呪を唱え始めた。
『臨兵闘者皆陣列在前。我は汝に、式神契約を求む。さもなくば、汝を調伏する。我が術に従い、我が式神として力を貸せ。急急如律令』
隆士の拙い術について、一樹はいくつかの不満を抱いた。
九字が使役の用途に合っておらず、術が陰陽の理に則らず、自身と相手の気を対としておらず、あまりに拙い力技だ。
式神術への理解から、九鬼が陰陽大家ではないことが如実に表われている。
とはいえ今回は、かなり良い状態で使役が成功する。
術者が襲い掛かって使役を求めた場合、反発心を抱かれて、呪力の負担が大きくなる。
だが妖怪が襲い掛かって敗北し、消滅か使役かの二択となった場合、妖怪の自業自得だ。
その流れで、妖怪自身が従うことを選択した場合、呪力の負担は小さくて済む。
賀茂家の術ほど理想的ではないが、式神契約は成立する。
『した……が……う』
7メートルほどあった海坊主の巨体が小さくなり、2メートルほどの大男と化した後、隆士の影に溶けて消えていった。
後日、綾部九鬼から一樹への御礼の品として、大判小判が贈られた。
























