236話 海鼠
翌朝、広島港で合流した陰陽同好会の面々は、幽霊巡視船に乗った。
みやこ型巡視船は、全長117メートル、全幅14.8メートル、総トン数3500トン。
同規模の船には、全長110メートル、全幅15.2メートル、総トン数3552トンの初代おがさわら丸があって、旅客定員1041名で東京と小笠原諸島を結んだ。
就役は、みやこ型巡視船が2020年代で、初代おがさわら丸が1979年。
みやこ型巡視船は40年以上も新しいので、花咲高校の全生徒を乗船させても余裕だ。
「船を撮影していないで、早く乗れ」
一樹達は、半ば修学旅行気分の後輩達を船に押し込んだ後、広島港から出港した。
目的地の阿多田島は、瀬戸内海に浮かぶ島だ。
島の面積は2.41平方キロメートルで、千葉のネズミ園5個分になる。
鼠の怨霊に幾度も襲われた結果、今では神社を建立しているだけの無人島と化していた。
「私は、幽霊巡視船を国に公認してもらう対価で、瀬戸内海の除霊を請け負っています。今回は、広島県が定期的に行っている海鼠祓いを行う形にしました」
操舵室に入った一樹は、今回の調伏に関する特別な事情を話した。
陰陽師が調伏活動を行うのは自由だが、それに加えて依頼も受けている。
自発的な行動か、行政から依頼を受けての行動かで、被害発生時の責任の重さも変わる。
「陰陽師が現場に見習いを連れて行くことも、慣習として認められています」
一樹達が瀬戸内海で行う調伏は、完全に根拠が押さえられていた。
そして参加者の148人は、陰陽師見習いとして、現場体験を行ったことにもなる。
霊符作成を習い、現場体験を行い、自分で怨霊を倒して、式神として使役した。
そこまでやれば、国家試験に受かった後輩達が陰陽師を名乗っても、世間的に許容範囲だろう。
国家試験に受かれば陰陽師だが、依頼が来るか否かに影響するので、世間の理解は必要である。
協会が斡旋した師匠が居るとはいえ、世間から見て送り込む側である一樹は、最低限の形になりそうなことに安堵した。
「それではお春先生、修学旅行気分の後輩達に、船内放送で注意喚起をお願いします」
「承りましょう」
一樹の依頼を受けた春は、マイクに近付いて話し始めた。
これはホテルの宴会場で、全員に一斉通達できなかった代わりである。
『皆様、これから皆様が使役する鼠の怨霊について、改めてご説明します』
その怨霊は『阿多田島悪鼠履歴取調書』(明治41年)に記される。
最初の発生は、正徳2年(1712年)10月初旬。
阿多田島でイワシ漁をしていた新屋三右衛門は、周防の国(山口県)大島郡八代浦字小泊の沿海でイワシが大量に獲れると聞き、漁夫35人を船に乗せて、小泊沖合に向かった。
イワシは大量で、小泊村の村人が分けてくれるよう求めてきたので、分ける余裕もあった。
ある日、三右衛門が漁をしていたところ、小泊村の村人が船に乗って20人ほどで現れた。
「イワシの半分を寄越さなければ、今後この海で漁はさせない」
そう言った小泊村の村人達は、三右衛門の船に乗り込み、イワシを強奪しようとした。
三右衛門たちは怒り、両者は船の舵なども使った殴り合いとなって、多数の負傷者を出した上、小泊村の茂左衛門という者が死んだ。
茂左衛門の遺体は父親に引き渡され、三右衛門達は殺人罪で、小泊村の役場で取り調べを受けることとなった。
その話は、阿多田島の役人から、安芸国(広島県)佐伯郡の郡奉行にも伝わる。
そして佐伯郡の郡奉行から派遣された者達と、大島郡の郡奉行との間で、話し合いが行われた。
『他国の漁船に乗り込み、魚を奪うことは、泥棒である。抵抗されて死んでも、仕方がない』
そのような結論が出て、三右衛門達は無罪となり、解放されて阿多田島に帰れた。
安芸国の三右衛門達を有罪とするならば、逆に周防国が漁船に乗り込まれて魚を強奪されることも、周防国の荻藩は許容しなければならなくなる。
一樹は鹿野の経験から、関ヶ原で負けた周防国の荻藩(毛利家)が、勝った安芸国の広島藩(福島家)よりも石高が上である事は認められないと、幕府に叱られたことを想起した。
両藩の関係で考えても、理不尽な判決は、出せなかったのであろう。
郡奉行の判決は、現代人が聞いても納得できる内容であった。
そこまでを説明した春は、声のトーンを1段階落とす。
『世の中には、話が通じぬ輩もおります』
死んだ茂左衛門の父親は、神職であった。
父親は、茂左衛門の墓前で、21日間の祈祷を行った。
「お前は命を奪われた上、泥棒だと断じられて、無念から霊魂が現世に留まっている。阿多田島に行き、その無念を晴らしてこい」
すると11月末の夜中、阿多田島の南方に数千匹もの鼠の怨霊が現れた。
鼠の怨霊は泳げて、海上から島に迫った。
そして島内に散らばり、家中の物品を壊して回り、農作物を食い荒らし、漁の網や縄を切って、島内に甚大な被害をもたらしたのである。
多大な被害を受けた阿多田島の島民は、怨霊の正体について、易者に尋ねた。
すると易者は、怨霊が茂左衛門の霊だと言い当てた。
島民は郡役所に報告して、役人が検視を行ったところ、姿は鼠だが、大きさは猫ほどで、足には鴨のような水かきがあったので、それは『海鼠』と呼ばれた。
事件が広島城代に報告された結果、安芸郡江野宮神社の神職の田所勝券が対応することとなり、彼は阿多田島の阿多田神社で、7日間に渡って海鼠退散の祈祷を行った。
同時に厳島神社でも、7日間の祈祷が行われた。
阿多田大明神の社前では、海鼠退散のために胡子神社という社殿を建立して、茂左衛門の像を彫刻して祀った。それは鼠神社として、現在も伝わっている。
これらによって12月中旬には、海鼠が島から退散した。
『お気を付け頂きたいのは、あくまで退散であって、調伏ではないという点です』
春が指摘したとおり、海鼠は何度も大発生している。
51年後の宝暦12年(1763年)10月、大発生。
前回と同様に暴れ回ったので、厳島神社で祈祷を行い、退散させた。
文化8年(1812年)10月、大発生。
阿多田神社で7日7夜の祈祷を行い、茂左衛門の像を再び彫刻して、退散させた。
文久3年(1863)9月、大発生。
島民総出で数千匹を捕まえて、役人に届けた。驚いた広島城主が祈祷を命じて、阿多田島神社で7日7夜の祈祷が行われたほか、厳島神社でも僧侶が経文数千巻を唱えて、退散させた。
明治30年(1897年)の旧8月、大発生。
阿多田島神社で、3日3夜の祈祷を行って、退散させた。
明治39年(1906年)の旧11月、大発生。
祈祷を行って、退散させた。
その後、島が無人島になって、発生の記録は確認が出来なくなっている。
定期的に大発生されて、家中の物品を壊し回られ、農作物を食い荒らされ、漁の網や縄を切って回られると、島民は生活していけない。
とりわけ大発生の頻度が、50年単位だったものが、近年になって10年単位に増したことは、島民にとっては致命的だったのだろう。
『ですが、茂左衛門は泥棒扱いのままであり、茂左衛門像を納めた鼠神社も祀られなくなりましたので、収まりは付いておりません』
春は船内放送を用いて、海鼠の情報を再通達した。
単独行動を避けて連携しろとか、怨霊に油断するなとか、当たり前のことは言っていない。
それよりも妖怪の詳細を語るほうが、よほど気が引き締まっただろう。
茂左衛門は、まともな話が一切通じない、逆恨みの怨霊である。
戦闘の際には、相手からの手心など絶対に有り得ないと分かる。
また使役した後は、使い捨てとして特攻させても、まったく心が痛まないで済む。
――呪力を使い切ると反抗しそうだが、G級の霊なら、護符で防げるからな。
一樹が使役するレベルの式神は、呪力を使い切った後に反抗されると、護符では防げない。
A級中位の天津鰐であれば、反抗すれば一噛みで殺されかねないし、鷲に化けて逃げられると、逃げた先での被害も甚大になる。
だが海鼠であれば、噛み付いても、護符で防げる。
護符を破ろうと力を消費することで、使役者よりも力が落ちて、支配下に戻る。
あるいは海鼠が単体で逃げても、道中で、ほかの妖怪に殺される程度の力しか無い。
そのためG級であれば、反抗的でも大した脅威ではない。
『活動時間は、日曜日の午前10時までです。半数が使役できれば成功として、花咲に帰ります。今回の機会を逃せば、皆様は式神無しになりますので、ご留意ください』
春の注意喚起が終わった頃、幽霊巡視船の前方に、阿多田島が見えてきた。
























