226話 おゆう班の模擬戦
目の前には大きな沼と荒れ地が広がっていた。
人工物は見当たらず、遠くには大きな森が見える。
この地を目にした人間の大多数は、人が踏み入れない妖怪の領域を思い浮かべるだろう。
妖怪の領域であれば人間は踏み入れず、ほぼ手付かずの自然が残る。
数百年から数千年の樹齢を誇る大樹が、無造作に林立し、人間の領域からは駆逐されたニホンオオカミなどが、堂々と闊歩しているのだ。
そのような人跡未踏の秘境を彷彿とさせる大地で、何かが争っていた。
「そっちに行ったぞ」
「早いっ!」
戦っている陣営の一方は、6体の式神だ。
平安時代の村人らしき服装を身に纏っており、刀や木の棒などで武装している。
式神と判別が付くのは、身体が幽霊のように透けているからだ。
それは顕現させている術者の力量が低くて、術が不安定だからだ。身体が不安定な式神は、攻撃なども不安定になってしまう。
どこか使役者に似た顔立ちの式神達は、大きな影を追っていた。
「ウモーッ」
彼らが追っているのは、たいそう立派な体躯をした、それは見事な牛であった。
牛のほうは完璧に顕現しており、荒れ地を力強く疾走して、式神達を軽やかに引き離している。そして筋骨隆々とした体躯を翻して、追ってきた式神の一体に突進を始めた。
一瞬ではなくとも、不意を打たれた人間が咄嗟に回避できる速度は、明らかに超えていた。
無防備に身体に突進を喰らった式神は、ツノに突かれて、盛大に放り投げられた。
「うぼぁーっ」
宙に舞い上がった身体が、グルグルと回転しながら、重力に引かれて落下していく。
そのまま落ちていった式神は、頭から荒れ地に衝突して、身動ぎしなくなった。
高校生である6人の術者は、医学の知識など皆無だ。
だが式神の首はおかしな方向に曲がっており、それが物凄く拙いことくらいは知っていた。
「ああっ、智哉の式神がやられたっ」
「なんて凶悪な牛なんだ」
それは牛を使役する側にとって、褒め言葉である。
訂正を求めるとすれば、当初は牛のつもりで描いたわけではなかった点だろうか。
「立派な牛ですね」
「……どうもありがとうございます」
おゆうに褒められた一樹が、顰めっ面で礼を述べた。
塗り潰しの絵馬を使役した一樹が、自分で最初に描いたのが、牛……太郎である。
物事は、練習するほど上手くなる。
絵には才能の有無もあるが、同じ人間が練習をした場合、10よりも100の練習をしたほうが上手く描けるだろう。
であれば牛鬼を描いたことが無かった一樹の絵は、上手いはずがない。
そのような言い訳を内心で並べ立てながら、一樹は立派な牛……太郎を見守った。
「ウモオォーッ」
「ぐぼあーっ」
二体目の式神が、ツノに引っ掛けられて放り投げられた。
不安定な霊体が相手でも、しっかりと顕現して霊気も帯びた身体であれば、吹き飛ばせる。
平安時代の格好をした男が、牛に襲われて、宙へと舞い上がっていった。
どこか現実離れした光景だが、これは実際に起きている戦いだ。場所は塗り潰しの絵馬の中で、新たに描けるようになった八条ヶ渕の付近である。
一樹が重なった飛脚は、不動根本印を結び、この沼全体に中呪の慈救咒という術を放った。
慈悲で救う呪いと書いて、慈救咒という。
不動明王の中呪は、柚葉が重なった娘に対する哀れみと思いやりを以て、放った術だった。
襲ってきた娘を外に逃さぬように、だが娘にも仏の救済があるように。
この沼と周辺を術で満たした一樹は、この地を描けるようになった。
――火行を継承した香苗は、火行護法神の世界を描けたが。
一樹の絵馬であるにも拘わらず、描ける内容には差があった。
絵の才能について一樹が思いを馳せていると、おゆうが一樹の意識を引き戻した。
「あの式神達は、実際の式神ではなくて、賀茂殿の絵馬で描いているものなのですよね」
「はい、その通りです」
各々が出している式神は、塗り潰しの絵馬を経由して描かれている。
そのため牛太郎は、牛になっていたりするわけだ。
この行為には、大きなメリットがある。
「ここに現れる式神は、私の絵馬と呪力で出しているので、彼らは呪力を消費しません」
「絵馬で守護護符を描くのと、同じ理屈ですか」
「そういうことです」
この世界で式神を出しても、呪力を消費しない。
正確には、絵馬の世界を維持する一樹が、負担を肩代わりしている。
国家試験に受かるか否かの後輩達ならば、高呪力の一樹にとっては負担にすらならない。
後輩達は、呪力も時間も消費せずに、式神を使った訓練を行えるわけだ。
もっとも、精神的な疲労はあるはずだ。
いくらでも呪力を使えるからといって、何度も連続して戦闘することは出来ないだろう。一樹も戦闘を繰り返せば、集中力が尽きてしまう。
もちろん、とても有用な式神であることに間違いはない。
「賀茂殿も、花咲の犬神くらいには理不尽ですね」
「私の場合は一代限りなので、花咲ほどおかしいわけではないと思いますが」
朱雀達を賀茂家に憑かせる予定の一樹は、おゆうから目を逸らしながら答えた。
最近の一樹は、自身が陰陽大家に呆れられる立派なA級陰陽師になってきた自覚が無くもない。もっとも最大の理不尽は閻魔大王で、それが流転しているに過ぎないとも認識するが。
そんな先輩のところへ来た後輩達は、当然の如く、理不尽を体感する羽目に陥っている。
「ぬおわあっ!」
吹っ飛ばされた三体目の式神が、淀んだ大沼に落ちていった。
盛大な泥飛沫が舞い上がり、倒された式神が沈んでいく。
「くっ、残る3人で同時に攻撃しろ」
判断が遅いだろうと、一樹は後輩達に赤点を付けた。
これが実際の妖怪調伏であれば、戦力の半数が倒された時点で、敗北確定だ。
この場合は、残る式神を足止めに使って、四方に分散して逃げるのが最善手であろう。
――大蛇に挑んだ時は、出来ていたよな。
相手が一樹の式神では、大蛇が相手のようには相対できないのかもしれない。
「死の危険が無い場で、経験を積ませ続けることは、良くないかもしれませんね」
「三次試験に出るなら有効ですよ」
「二次試験で好成績になるのは、霊符の作成が得意な者なので、可能性が皆無とは言いません。ですが下級の呪力者が、三次試験でまかり間違ってD級に成ったら、後が大変です」
陰陽師は結果が全てなので、三次試験で勝てば、D級に成る資格はある。
だがD級になれば、D級向けの依頼も斡旋されるようになる。むしろD級陰陽師に対して、D級向けの依頼を斡旋しないほうがおかしいとすら言える。
D級陰陽師向けの依頼は、E級妖怪で小魔クラスだ。
「小魔と戦うなら、3年くらいは欲しいですね」
おゆうが見詰める先では、3体で集まったF級の式神達が、次々と牛に突き飛ばされていた。
その様は、スペインの牛追い祭りで牛に突き上げられる人々を連想させる。
牛が相手の場合、鋭いツノが危ない。
首を振って自在に動かせるツノは、凶器を持って暴れ回るにも等しい。
瞬く間に蹴散らされた平安時代の男達は、抵抗虚しく消えていった。
「それでは選手交代で、お福の番ですよ」
「はーい」
のんびりとした声が上がって、狐耳を生やした妖狐の霊が前に出てきた。
恰好は、白の千早に、紅の切り袴で、少し昔の巫女服だ。
牛の前に出た彼女は、ジッと牛の瞳を見詰めた。
すると牛のほうも、大人しく福を見詰め返す。
「戦ったら、駄目ですよ。あなたは、良い子です」
福は牛に向かって、暴れないように言い聞かせ始めた。
これは模擬戦だぞと一樹は思ったが、相手を化かすのも、術をかけるのも、戦いのうちである。牛……太郎を小魔程度の脅威に抑えると、口出しを控えて様子を見守ることにした。
福は、牛を興奮させないようにゆっくりと動きながら、牛飼いのように牛の首を軽く動かして、一樹のほうを向けさせた。
すると牛は誘導に従って、素直に一樹のほうへ歩いてくる。
――鹿野でも思い出したか。
鹿野で一樹が飼っていた牛は、頭が良かった。
一樹の言うことは聞いたし、一樹が言い聞かせると、香苗の言うことも聞くようになった。
麓の村人の言うことは聞かなかったが、香苗と村人との識別が狐耳であったならば、福のことも言うことを聞く対象だと誤認したかもしれない。
何しろ一樹が攻撃を命じていない。
「これは、どう判断すべきでしょうか」
牛を従えてしまった福の様子に、おゆうが困惑を示した。
一方で、陰陽師協会の基準は明確だ。
陰陽師は結果が全てであり、何をやっても勝てば良い。
「相手を従えるのは、調伏の一つでしょう。花音とお福の勝ちです」
変則的だが、なかなか悪くない式神を使役したかもしれない。
そのように一樹は評価しつつ、おゆう班の模擬戦を終了した。
























