218話 嫁取り橋の大蛇
人通りが少なくなった夕下がり。
二階堂と筒井を結ぶ街道に、疲れた馬の足音が響いていた。
「随分と、遅くなってしまった」
馬に跨がった一樹が、溜息を溢した。
一樹の仕事は飛脚で、大和国を縦で結ぶ「下ツ道」を往来している。
下ツ道は、大化の改新を行った天智天皇(中大兄皇子)の弟である天武天皇が造営した新益京と、新益京から遷都された平城京を繋いだ道だ。
平安京に遷都された今でも、重要な道に変わりはない。
飛脚の朝は早い。
日が昇り始める前に起きて、暑くなる前に荷を運ぶ。
そして馬を休ませ、昼下がりに戻る。
先々の駅には別の飛脚が居て、一樹から受け取った荷を次の駅に運ぶ。
その先にも飛脚が居て、駅がある最果ての国まで、荷を運ぶ体制になっている。
荷は、京から勅を下達し、諸国からは大瑞・軍機・災異・疾疫・境外消息などを上奏する文だ。そのような荷を運ぶ者達は、駅使と呼ばれる。
一樹は、天皇から駅鈴の支給を賜った官人にして、駅馬の乗用が許された精鋭であった。
「霊亀が現れたとか、どうでも良い文を出すなよ……」
今回運ばされたのは、非常に目出度い大瑞の報告だった。
大瑞の一つとされる霊亀は、良いことが現れる前兆として姿を見せることがある瑞獣の一種だ。霊亀は、治水の才を持つ者が生まれると、姿を見せると伝えられる。
ただし大瑞の報告には、致命的な欠点がある。
「どこで生まれた、誰の子供か分からないから、報告を出しても意味が無いだろう」
才人が生まれたところで、実際に治水に関わらなければ、その人物を見つけられない。
そのため一樹には、何のために出している文なのか、サッパリ分からない。
桓武天皇が平安京に都を移してから、早190年。平安の時代が長く続きすぎて、上のほうが平和ボケしたのではないかと、一樹は呆れ果てた。
「物の怪も出たし、今日はついていない」
意味不明な文を運ばされた上に、物の怪にも追われてしまった。
一樹は精鋭なので、中鬼くらいであれば苦もなく倒せる。だが従者や馬は傷付いてしまうので、逃げられる状況であれば、逃げる一択だ。
同行していた従者は、筒井に残している。筒井で交換した馬にも無理をさせており、一樹は馬の疲労に合わせて、ダラダラと帰路に就いていた。
それでも馴れた道であり、無意識でも進める。
ふと気付けば、時折寄る茶屋が見えていた。
「みまし、みまし」(あなた様、あなた様)
ほら声を掛けてきたと、一樹は内心で溜息を吐いた。
街道沿いは栄えているが、その茶屋は一樹にとって馴染みだ。なぜなら茶屋の娘が、一樹に必ず声を掛けてくる。
駅使である一樹の実入りは、1日あたり稲4把と酒1升(現代換算で、穀米2.4キログラムと酒720ミリリットルほど)で、それを現物貨幣として、物々交換に用いている。
庶民にとっては目も眩む額だが、茶屋では懐を軽くされてしまう。
茶屋の娘は、一樹が急ぐ往路ではなく、急がない復路に狙って声を掛ける。それも一樹の疲れ具合を見ながら、出す品を変えるという手練手管だ。
「柚葉か。今日は、もう寄っている時間は無いぞ。思ったよりも遅くなった」
「夕下がりですからね。帰り着く前に、日が落ちるのではありませんか」
「お前の言うとおりだ。今日は、野宿かもしれん」
いくら馴れていても、真っ暗な街道は進めない。
松明を片手に馬を牽く手段も存在するが、それは正気の沙汰ではない。
飛駅使と呼ばれる緊急の使者になった時には、夜通し突き進むことも有り得る。想定としては、異国の大軍勢が攻め込んで来た場合などだ。
だが、駅まで辿り着けない場合の定石は、完全に日が落ちる前に寝床を確保することである。
「明日は荷が出ないから良いが、早めに場所を探さなければならない」
「でしたら、うちにお泊まり下さい。嫁に行った姉から、クマザサの新芽(平安時代のタケノコ)を分けてもらいました。きっと美味しいですよ」
「生薬にもなるクマザサか。なんと贅沢な」
「それに道中で見つけたというシイタケも頂きました。どうしようかと困っていたところです」
「何、シイタケだと?」
古事記には、椎の木に生えた茸を食べたという記述がある。
そこから椎茸と名付けられたと伝えられるシイタケは、稲のように人工栽培は出来ず、倒木から偶然見つけるしかない。
シイタケは、容易に見つかるものではない。
雷が落ちた土地にはシイタケが生えると言われるが、真偽は定かではない。
少なくとも生立木には生じず、倒木の枯れ木などからしか見つからない。豊穣の地であること、人の入りが少ないこと、ほかにも様々な条件が揃わなければならない。
人が入る場所に倒木があれば、木材や燃料として持ち帰ってしまう。シイタケの発生条件など、そもそも揃わないのだ。見つかるのは、よほど幸運な時だけだ。
「お前は、俺を破産させる気か」
「えー、そんなことはしませんよ」
「野宿で物の怪に襲われると思えば、泊まるしかないが……シイタケか」
「きっとシイタケも、食べられることを喜んでいますよ!」
「とんでもない出費になるな」
交換経済においては、需要と供給で交換レートが変動する。
物の怪に出会い、馬も連れている一樹は、危険な野宿を避けるために言い値で泊まるしかない。クマザサの新芽や、シイタケを出すと言われても、断って去ることは出来ないのだ。
「値段の分、ご奉仕もしますから」
「あまり期待しないでおく」
渋々と馬を牽いて、一樹は茶屋の隣に向かった。
その日の夕餉は、ツケ払いにするしかないと覚悟するほど豪勢だった。
案内された部屋も立派で、一樹の顔は引き攣るばかりだ。
ここまでされる理由に、一樹は心当たりがある。どうやら柚葉は、一樹に恋慕しているらしい。
街道を行き交う者は、いくらでも居る。
だが行き交う数多の者達の中で、飛び抜けて条件が良いのが、駅使の一樹だ。
天皇から直々に駅鈴を賜れるほどの血筋。
物の怪が蔓延る土地で、文を運べる能力。
男が6歳年上で、釣り合いの取れた年齢。
京の雅な立ち振る舞いも身に付けている。
だから夜更けに柚葉が部屋に忍び込んできた時、一樹にはやはりという思いがあった。
「起きていらっしゃったのですか」
「まあな。念のために聞くが、何用だ」
「夕下がりに、ご奉仕しますと、申し上げたではありませんか」
「この茶屋が、夜発(夜間の売春)をしているとは知らなかった」
「夜は閉めていますから、やっていませんよ。みましだけ、特別です」
一樹の視線の先には、獲物を見詰める蛇のような女が居た。
単に蛇のように見詰めているだけではなく、蛇のような呪力まで発している。
「物の怪が出る街道に、茶屋を出せていたのは、妖怪だったからか」
「ああ、知られてしまいましたね。母が蛇の土地神で、上野国に神域を持っています」
「すると単独行動を認められるお前は、中魔くらいか。道理で、俺を狙うわけだ」
生き物は、強い子孫を残そうとする。
それは妖怪も同様で、異性選びの判断基準には、強弱がある。
弱ければ歯牙にも掛けないし、逆に強ければ垂涎の的となる。
一樹は、京で名をほしいままとする安倍晴明の師匠であった賀茂の血族だ。中魔が血を欲しいと思う程度には、強い力を持っている。
「大丈夫です。取って食いはしませんから」
「別の意味で、食べてしまうのだろう」
「それはもう、えっへっへ」
起き上がった一樹は、柚葉の挙動に対応すべく、身構えた。
「どうして逃げようとするのですか。強い子孫を残すことは、みましにとっても良い話でしょう」
「生憎と親が病気で、3年間は女房を持たぬと神に誓っている。別の男を探すと良い」
「なんだか嘘っぽいです。それに、ここまで来てお預けは、無理ですよ」
「だったら……急急如律令!」
「ぎゃんっ?」
一樹が両手を合わせた先から眩い光が現れて、柚葉の視界を眩ませた。
思わず目を閉じた柚葉は、一樹に弾き飛ばされて、無様に部屋を転がる。
その隙に一樹は、茶屋から飛び出していた。
月明かりの下、暗い街道を走って逃げていく。
「もう、信じられません」
意中の相手に逃げられた柚葉は、怒りを露わにした。
妊娠期間の長い女が、相手を選別して、気に食わなければ逃げるのは理解できる。
だが男のほうが逃げるのは、柚葉にとっては理解不能で、有り得ない行為だ。
「逃げるなーっ!」
柚葉は一樹の後を追って、二階堂の方向へと駆け出した。
男の足と、女の足。
追われる側と、追う側。
優劣の付けがたい追いかけっこが続き、やがて八条村の渕まで辿り着いた一樹は、下駄の片足を脱ぎ捨てると、1本の松によじ登った。
そこで何らかの術を唱える。
柚葉が追い付いたのは、その直後だった。
「何処だ……居ましたねぇ」
脱ぎ捨てられた下駄があり、その先で一樹が座り込んでいた。
足を挫いたのだろうと判断した柚葉は、嫌らしい笑みを浮かべた。
「まったく手間を掛けさせて、これは大人のお仕置きが必要ですね。うへへへっ」
ギラギラと瞳を輝かせた柚葉が、その場で姿勢を低くした。
そしてビュンと跳ね飛んで、月の光で一樹が映った池の中に、飛び込んでいった。
「ノウマク、サンマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウン、タラタ、カンマン(あまねく諸金剛、不動明王に帰依し奉る)……『慈救咒』」
不動根本印を結んだ一樹の手から、不動明王の中呪による光が溢れ出した。
木の上に生まれた光は、そこから地上へ流れ落ちて、池を覆い尽くしていく。
真言を三度繰り返して唱えた一樹は、ようやく安堵の溜息を吐いた。
「母が上野国の土地神で、執念深い蛇だと、迂闊に殺せない……『隠遁術』」
松の木から飛び降りた一樹は、夜の街道を走り始めた。
もちろん京へ、扱いの難しい妖怪の出現を報告しに行くためだ。
馬を取りに戻ろうなどとは、決して思わない。柚葉に追い付かれるかもしれないし、柚葉が話していた姉に遭遇するかもしれないからだ。
現在の一樹は、最速で急報を伝える飛駅使と化していた。
その後、八条村の渕には大蛇が現れるようになった。
大蛇は女ばかりを殺し、通り掛かる花嫁は渕へと引き摺り込んだ。そのため渕の前にある橋は、『嫁取り橋』と呼ばれるようになった。
だが如何なる判断か、京の陰陽寮から大蛇を調伏に来る陰陽師は、一向に現れなかった。
























