217話 火行の世界
「それで絵馬を使う話になったのですか」
呆れた声が、香苗の口から発せられた。
その先には一樹が居て、叱られた家猫のようにションボリとしている。
今回の場合、香苗に協力を求めるには、洗い浚い吐いたほうが良かった。
香苗の不利益には繋がらず、多少なりとも一樹に貸しを作れるという利もある。正直に言えば、香苗に反対されないだろうと一樹は予想した。
そのため全ての事情を話して、香苗に呆れられたところであった。
「下の7人を引き上げたら、中間の182人も指導してほしいと言いませんか」
「これは赤点を取った生徒への補習だ、と言う」
我ながら名案だと、一樹は自負した。
新入生の中で7人の呪力は、下から数えて1番目から7番目だ。
このままでは国家試験の一次試験にすら不合格になりかねないので、補習は不可欠である。
学校でも、補習を行うのは落第点を取った生徒であり、及第点の生徒にまで補習は行われない。それは日本で広く一般的な話であり、少なくとも182人の希望を断る名目は立つ。
「凪紗達に神域を使わせた理由は、何と言うのですか?」
「特別進学コース。あるいは幹部養成コース」
一樹達の引退後、同好会の会長や副会長は、凪紗達になる。
陰陽師の不文律を考えれば、会長や副会長は、等級の高い者が就任するしかない。
下級陰陽師が指示したところで、中級以上の陰陽師からは、「こいつは何を言っている」と思われて終わりだ。
次期会長や副会長を特別扱いするのは、納得される理由ではないかと一樹は考えた。
「あたしへの説明としては、赤点ですね。鹿野は、駄目です」
狐目の採点者が無慈悲に告げて、一樹の自己評価は却下された。
絵馬は一樹の式神だが、絵画の世界に入る権能は香苗が所持している。
「鹿野が駄目と言われても、俺は鹿野しか描けないが」
一樹が鹿野を鮮明に思い描けるのは、還暦を超えるまで暮らし続けたからだ。
錦川の水を引き、村中の大地を耕し、芝刈りや山菜採りで山を練り歩いた。
季節や天気、時間に応じた空気の違い。場所によって異なる土の感触、草木の香り、様々な生き物の姿と鳴き声。一樹は、その全てを鮮明に思い描ける。
一方で香苗が断る理由は、鹿野が一樹と香苗の暮らした家だったからだ。鹿野の廃村に滞在する場合、まともな家は一つしか無い。
狐の巣穴に、他人を招き入れるのは嫌というわけだ。
物事の道理を考えれば、一樹としても押し通せない。
――家だけを消した絵を描くことは、出来るかな。
家に入れなければ、香苗は認める可能性がある。
だが記憶をそのまま描くよりも、一部を書き換えることのほうが難しい。
一樹が困っていると、香苗が助け船を出した。
「あたしは、護法神の記憶にある5つの世界を描けます。木行ではない世界なら、構いません」
「それって源九郎狐とか、小女郎狐の世界か?」
香苗が提示した妥協案に、一樹は大いに困惑した。
源九郎狐は、源義経の愛妾である静御前を守ったり、大坂夏の陣で焼き払われそうな城下町を守ったりした歴戦の古強者だ。
小女郎狐は源九郎狐の妻で、源九郎狐の暗殺から60年ほど後、伊賀忍者の里があった伊賀市の広禅寺で暮らしていた。
それらは千体の霊狐達の中でも、飛び抜けて優秀な五狐が、狐生を賭して挑んだ世界だ。
源九郎狐の秀抜した剣術や、小女郎狐の卓絶した幻術が無ければ、とても生き残れない。
「生還が絶望的な激戦地に、徴兵した新兵をそのまま送り込むようなものじゃないか」
「兵は、よく分かりません」
「だったら中級陰陽師と中級妖怪が入り乱れる戦場に、見習い1年目を放り込むようなものだ」
「それは酷い話ですね」
「お前の提案だ」
一樹から鋭いツッコミが入った。
水行や金行の世界に7人を送り込んだ場合、ほぼ確実に死んでしまう。
生き残れたところで、実力で状況を打開できていないのだから、学びは発生しない。
学べるのは、逃げるが勝ちとか、味方は盾にしろとか、二次試験とは無関係な生存戦略だけだ。
「水行や金行ではなく、火行護法神の世界にしようと思います」
「火行は、俺が知らない妖狐だな」
火行護法神の世界を提案された一樹は、眉を上げて驚きを示した。
「あたしが体験すれば、木行のように、火行護法神の力も使えるようになります。それなら絵馬を使わせることにも、大きな利が生じます」
「火行は、どんな力を得られるんだ」
「剣技と火の扱い、それに神刀と御利益です。身体の修煉は、不充分なので」
「香苗が力を付けるのは良い話だが、年数は大丈夫なのか」
木行護法神の世界では、一樹は幼少期の記憶を重ねたことに加えて、50年の実体験も積んだ。
おかげで江戸時代の前期における農民生活は完璧で、鹿野の土地も熟知している。少ない呪力で効率的に術を使う工夫も身に付けた。
一樹が平然としているのは、遥かに長い地獄の体験があったからだ。あるいは擦り切れた魂に、閻魔大王の調整があったのかもしれない。
また香苗が大丈夫なのは、種族が長命の妖狐で、取り込んだ木行護法神の魂と重なったからか、弁才天の御利益か、神使である小白の力か。複合的な要因があると、一樹は見ている。
後輩達が体験した場合、そのような耐性は無い。
絵馬の世界で長い年数を過ごした場合、7人は練達した陰陽師に成れるかもしれないが、老成と達観も付いてくる。
「同好会の下部組織に、老人会が連なるのは嫌だぞ」
恐ろしい未来図に、一樹は憂虞した。
「体験は飛ばし飛ばしで見るだけで、動く場面も少ないですから、直ぐに終わります」
「動くというのは、どんな場面だ」
「大蛇と戦う陰陽師達です。討伐には失敗するので、死闘を経験できます」
妖狐と大蛇の話を聞かされた一樹は、豊川稲荷の霊狐達が、いずれも戦いに身を置いた者達だと思い出した。
そもそも未練がなければ、死後に霊とはならずに、供養されて成仏している。
「源九郎狐よりも厳しい世界じゃないよな」
「いいえ、ぬるま湯です。7人には、大蛇を退治するVRゲームだとでも言って下さい」
「VRゲームにしては、リアリティが有り過ぎるが」
一樹が7人に説明して連れて行くこと自体は、簡単に出来る。
A級陰陽師で、協会の常任理事という肩書きには、相応の説得力が付随しているのだ。
体験型の修行で、身体は傷付かないと伝えた上で、事前に本人と保護者へ同意書を取っておく。すると後に問題とされることも、おそらく無いだろう。
なぜなら陰陽師に成るということは、死のリスクを負うということだ。
体験によって将来の生存率が上がると納得させれば、本人も親も反対しない。
「大蛇との戦闘、体験させてやるか」
「それでは、あたしとあなた、7人と指導者のおゆう、それと柚葉に協力してもらいたいです」
「どうして柚葉なんだ」
「大蛇役です。蛇のイメージは、あたしには難しいので」
ポカンと呆気に取られた一樹は、意外に妙案だと思い直した。
何しろ柚葉は、元々は蛇神の娘だ。
それも母親の単為生殖なので、完璧に由緒正しき蛇の妖怪だ。大蛇をイメージさせるにあたり、柚葉を上回る者などいない。
「柚葉なら適任だな。それに、柚葉自身の修行にもなりそうだ」
龍神から引き取った柚葉は、陰陽師の一樹が所有する手札の一枚だ。
陰陽師の資格を持ち、一樹から離れても行動できる柚葉は、実のところ役に立つ。
複数の依頼が同時に舞い込んだ時、一先ず柚葉を送り込んで時間稼ぎをする手も使えるわけだ。そんな柚葉に経験を積ませることは、一樹にとってメリットになる。
「柚葉は強制的に参加させるとして、おゆう先生を入れる理由は?」
「指導者が居ないと、何もできずに殺されて終わりでしょう。地狐でしたら柚葉も負けませんし、バランスも良いと思います」
「分かった。香苗の案でやってみるか」
こうして一樹達は、火行護法神の世界へ旅立つこととなった。
8月14日(水)~17日(土)は、毎日投稿になります。
























