201話 山魈の領域
小山を登った先には、大きな穴があった。
野菜を畑から引っこ抜くように、大木を山から引っこ抜けば、このような大穴が生じるのだろう。
木の根ごと引き抜かれた大木は、跡形も無く消えていた。
「賀茂、説明してくれ」
一樹と香苗の挙動を不審に思ったのか、小太郎が事情を質した。
現在は、A級と評価されている山魈の調伏に来ている。
現実に引き戻された一樹は、閉ざしていた口を開いた。
「木の精である山魈は、木に宿る。ここの大木に宿って、移動したのだろう」
「ここに大木があったのか」
問われた一樹は、絵馬での体験と現実との関係について、改めて考えた。
一樹と香苗の絵馬での生活は、木行護法神が体験した過去だ。
木行護法神が行ったことの無い場所には行けないし、見たことがない祭りも見られない。その閉ざされた空間の中で、一樹と香苗は暮らしていた。
ゲームで、作られた世界の中しか移動できないことに近いだろうか。
少し違いがあるとすれば、同じような絵はあっても、まったく同じ絵にはならないことだ。
木行護法神が描く世界は、廃村で250年間も暮らした体験に基づく。
木々や花々の香り、川のせせらぎ、鳥の鳴き声、気温の変化や季節の移ろい、日照りや野分は、描いた枚数分だけ差異がある。
多少はアレンジして、鳥や花を増やすくらいは、あるかもしれない。
だが存在しない象やキリンが、江戸時代の廃村を闊歩することは有り得ない。
そして暮らした家や大木の位置は、何枚の絵を描いても変わらないはずだ。それは木行護法神にとっての根幹にあたる。
「ここには大木があった。間違いない」
「どうして、そんなことを知っている」
香苗と視線を交わした一樹は、僅かに躊躇いながら答えた。
「後輩の練習用に使役した絵馬の大根に、香苗に宿る木行護法神が、過去に体験した絵を描いた。その場所が、この廃村だった」
「そういえば賀茂は、描いた絵を顕現させる力を持った絵馬を使役していたな」
「ああ。だがそれとは別に、香苗には絵画を司る弁才天の御利益があり、絵の世界に入れる。俺と香苗は、この村で木行護法神の追体験をした。ここにあった大木は、死んだ俺が宿り、香苗が音楽を捧げていた場所だ」
「それで賀茂と祈理は、この周辺に詳しかったのか」
「俺が絵馬を出したら、木行護法神が反応した。この廃村を体験したのは、想定外の偶然だ」
小太郎を納得させた一樹は、自分を凝視している蒼依に弁明した。
調伏の仕事中であり、一先ず追及の視線が止んだ。後で追及されそうだが、一樹は問題を棚上げすることにした。
「香苗、大木を奪った山魈を誘き寄せる。予定通りに、音楽を頼む」
「分かりました」
一樹が経緯を第三者に説明したことで、大木を奪われて動揺したであろう香苗も、落ち着いたのかもしれない。
大穴まで進み出た香苗は、そこから振り返って一樹のほうを見た。
『雪菜、菜々花、琴里』
香苗が呪力を放つと、左右に三体の式神が姿を現した。
雪菜は篠笛、菜々花と琴里は琴を手にしている。
そして香苗は、三味線ではなく、三味線に似通った胡弓を手にしていた。
全員の視線が、一樹に向かう。
――俺が、音楽を捧げる相手だからか。
香苗達が音楽を捧げていた大木は、何処かへ消え失せて無い。
だが香苗が音楽を捧げていた相手は、大木ではなく、一樹の魂だ。
大木が無くても、一樹が居れば、音楽を捧げる対象には迷わずにすむ。
雪菜が、篠笛に口を付けた。
一樹が佇む世界に、篠笛の音色がスッと混ざって溶け込んだ。
動物の鳴き声よりも穏やかで、川のせせらぎよりも高らかで、奏者の明確な意思が感じ取れる。
――鎮魂歌か。
ほかならぬ一樹のために作られた曲だと、即座に一樹は悟った。
雪菜の前奏に続いて、香苗が三味線のような楽器を弓で弾き始める。
弓で弾く胡弓は、三味線を撥で弾く奏法の三絃に比べて、遥かに繊細だ。
楽器を抑える左手と、弓を引く右手の指の僅かな動作で、紡がれる音が無限に変化していく。
言葉では表せない香苗の悲しみと、死者の安らぎを願う祈りが、胡弓から溢れ出していく。
そこに、琴の二重奏が加わった。
指で弦を直接弾く琴は、鍵盤を叩くピアノよりも自在に音を出せる。
難易度が高く、奏者に技量が求められるが、演奏しているのは菜々花と琴里だ。
二人が奏でる琴は、香苗の胡弓や雪菜の篠笛と調和しながら、空間を飲み込んでいった。
――これほどの曲を奏でられて、音楽好きの山魈は、釣られないはずがない。
釣られないのだとすれば、呪力を乗せた曲が届かない遠方に居るのだろう。
山魈が居なければ、香苗の演奏を録音でもして、各地に流して場所を特定しなければならない。
そんな風に一樹が考えていたところ、相手が現れた。
香苗達の音を破壊するように、木々を薙ぎ倒す騒音が混ざる。
「北から来るぞ!」
北側の森から、鳥達が一斉に飛び立っていく。
そして騒動の中心から、一本足の巨人が姿を現した。
山魈は、醜い猿面に、老人のような身体をしており、足が一本だった。背の丈は大木に等しく、一本足も大木の幹に等しい。
そして足の膝を曲げ伸ばししながら、跳ね飛んで迫ってきた。
「皎、行け!」
「バウッ」
犬神が跳ね飛んで生じた風圧が、一樹達の身体を押した。
犬神が跳ねた先で、一歩目とは比べものにならないほど巨大な風圧が生じる。
舞い上がった土煙の中から飛び出した犬神が、山魈に襲い掛かっていった。
『信君殿、牛太郎』
駆け出した犬神が山魈を捕捉することを願いつつ、一樹は式神を顕現させた。
現れた式神達は、犬神の後を追うように山中を駆けていく。
そして一樹が見守る中、犬神が山魈に体当たりをした。
突撃した犬神と山魈がぶつかり合い、山魈が押し勝って、犬神を弾き飛ばす。
「地面に根を張ったのか」
山魈が木の枝のように、両手を有り得ない長さに伸ばす。
その手が犬神を掴もうとして、信君と牛太郎に弾かれた。
式神達に両腕を弾かれた山魈は、両手から木の枝を伸ばして、薙ぎ払うように振り回した。
犬神と信君が避け、牛太郎は棍棒で応戦したが、棍棒のほうが押し負ける。
信じがたいことに山魈は、3対1でも劣勢ではなかった。
「この場が、山魈の領域になっているのか」
山魈は、土地から力を得ているようだった。
A級妖怪であれば出来る。
A級であるだけでは出来ないが、山魈が宿っている大木は、廃村で神木のように扱われていた。その大木を使えば、土地から力を得る事は出来る。
表情を強張らせた一樹の背後で、香苗が呟いた。
『召喚・木行護法神』
一樹の背後で、青い光が爆ぜた。
咄嗟に振り返った一樹の視界に、尻尾と二尾が生え、木行護法神と一体化した香苗が佇んでいた。
「加勢します」
雪菜達を戻した香苗は、山魈に向かって仙術を放った。
それは木行護法神が、田植えの時に稲を浮かせていた術だった。
一樹が懐かしいと思う間もなく、香苗の術が山魈の張った根を引っ張り上げようとする。
それは無意味ではなかったが、小さすぎる加勢だった。
山魈が生じさせた一瞬の隙は、信君達が体勢を立て直すことには役立ったが、斬り掛かれるほどの大きな隙にはならなかった。
巨木は廃村に根を張り、犬神や信君を弾き返す。
「呪力が足りません」
「いや、充分な加勢だ。蒼依も、あまり前に出るな。まずは信君殿と牛太郎で、敵を削る」
天沼矛を構えた蒼依の位置は、一樹の手前だ。
それなりの知能を持つ妖怪であれば、厄介な式神が居るのであれば、式神使いのほうを狙う。
一樹が単独で佇んでいるのは、ここを襲えと言っているようなものだ。
蒼依を守りにおいて、一樹、小太郎、香苗を守らせる。そして信君や牛太郎で削るのが、一樹の考えた作戦だった。
両腕を伸ばして暴れる山魈に対して、信君は枝を斬り払い、牛太郎も殴り付けている。
山魈は地脈から力を得ているが、それは給水車から水を供給されるようなもので、使えば尽きる。水を溜め直すには時間が掛かるので、無限に得られるエネルギーではない。
それに対して信君と牛太郎のほうは、一樹から呪力を供給されている。
普通は給水車のほうが呪力は大きいが、一樹が持っている呪力は、給水車の容量を上回る。
消耗戦に持ち込もうと考えた一樹だったが、香苗の判断は異なった。
「あたしとも式神契約をして、呪力を回して下さい」
「……何?」
「あたしは後悔しています。二人で過ごした村が、最期に奪われました。ちゃんと、力を付けておくべきでした」
「木行護法神のことか」
「そうですが、今も油断すべきではありません。油断すると死ぬかもしれません。呪力は沢山あるのでしょう。契約を」
香苗に言い募られた一樹は、反論の術を持たなかった。
呪力は沢山あって、香苗に供給すれば戦局が有利になり、式神契約は後日に解除できる。
問題になるのは蒼依の感情だが、自分の命には代えられない。
なぜなら一樹の穢れは、完全には祓えていない。今死ぬと、穢れが残ったままになる。
一樹は手を胸元に上げ、印を結んだ。
『臨兵闘者皆陣列前行。天地間在りて、万物陰陽を形成す。我は陰陽の理に則り、我を陰陽の陽とし、汝を対の陰とする契約を結ばん。然らば汝、我が気に従い、我が式神と成れ。急急如律令』
一樹が呪を唱えると、香苗も印を結んで呪を唱えた。
『陽は陰を含み、陰は陽を含む。陽下の燭光は陰なれど、闇夜の燭光は陽なり。陰陽の理に則り、これより式神契約は、互いの同意なくして切り離せぬものと成る。急急如律令』
式神契約に特記事項を加えて同意した香苗に、一樹の気が流れていく。
――契約の破棄に、両者の同意が加えられた?
香苗が書き加えたのは、一樹と香苗の呪力を結び付ける条件だった。
契約を一方的に破棄すれば、呪力を結び付けた分が、破棄された相手側に持って行かれる。
普通の破棄が退職金の支払いだとすれば、香苗は、家や土地での慰謝料を求めたようなものだ。
陰陽術で虚を突かれたという驚愕を押し留めて、一樹は香苗の呪力の変化を観察した。
地蔵菩薩の神気が、護法神の魂の欠片を5つ持つ香苗の力を押し上げたのか。それとも絵馬の世界で馴染んだ一樹の気が、香苗に受け止められたのか。
香苗の力は、B級下位から中位へと上がっていった。
両手を握った香苗は、どこか納得したような表情を浮かべた。
そして一樹の傍に歩み寄る。
「あなた、絵馬を」
「ああ……『でてこい大根』」
香苗は仙術で山魈を浮かせようとはせず、絵馬を求めた。
一樹の想定とは異なったが、弁才天の御利益を持つ香苗ならば、何か使える術があるのだろう。そのように即断した一樹は、求めに応じて絵馬を出した。
すると塗り潰しの絵馬に触れた香苗は、呪力を籠めて、術を唱える。
『召喚・水行護法神、金行護法神』
A級中位の力を持つ絵馬から、滑石製の勾玉よりも遥かに強烈な光が迸った。
























