188話 春に還り
「……ここは、音楽室か」
意識を覚醒させた一樹が窓の外を見ると、まだ日は落ちていなかった。
すぐ傍には香苗が居て、自分が賀茂一樹であると認識する。使役した塗りつぶしの絵馬で、木行護法神が描き出した世界に入り込んだのだと理解した。
絵画も司る弁才天の神使が、一樹と香苗を絵画の世界に連れて行ったのだ。
慌てて自分の手を見ると、若い頃の手だった。
「何日だ」
慌ててスマホを取り出すと、日付は変わっておらず、時間すら殆ど経過していなかった。
――地獄の億万という馬鹿な時間と同じで、霊体の加速があったのか。
絵馬の世界には、一樹が生み出したと思わしき牛太郎も居た。
そのため木行護法神が鮮明に思い浮かべられた、生前の体験を追体験しただけではない。
霊体になって入り込んだ一樹は、木行護法神の夫と重なり、香苗は木行護法神と重なって、木行護法神の世界を下地として生涯を送ったのだ。
次第に頭がハッキリしてきた一樹は、小白の言葉を思い出した。
『大丈夫ですよ。百年が過ぎる絵を見ても、見た者は百年も経ちませんでしょう』
こちらの世界では、確かに百年など経っていない。
だが体験としては、一樹は一人の一生分を積み重ねている。
近年では様々なゲームが作られており、操作するキャラクターが死ぬことなど珍しくもないが、絵馬の世界は現実の体験とほとんど変わらなかった。
今の一樹は、炭焼きも、稲わらの編み物も、畑仕事も出来るようになったと自覚していた。
「香苗、大丈夫か」
「はい。問題ありません」
一樹が確認した香苗は、見た目には平然としている様子だった。
だが妖狐のポーカーフェイスほど信用できないものはない。
一樹が無言で見詰め続けると、やがて香苗は口を開いた。
「あなたが亡くなってから、200年ほど暮らしました。時代が変わって、人と妖怪が激しく争うようになり、山に移動してきた妖怪と争って、最後には死にました」
「そうか」
一樹の死後、香苗がどのように暮らしたのか、一樹には想像が付いた。
一樹と暮らしていた頃のように過ごして、一樹が眠る大木の傍で歌い、楽器を奏でて、静かに暮らし続けたのだろう。
そんな村に妖怪が入ってきて荒らせば、香苗は村を去るのではなく、戦おうとするだろう。
一樹と暮らしていた香苗は、二尾から三尾になるための修行をしていなかった。
香苗の目的は、生き延びて三尾になることではなく、村で穏やかに暮らすことに変わっていた。村から逃げ延びることは出来ただろうが、逃げた先でどうするのだという話だ。
「あの後も、歌や演奏を聴かせてくれたのか。ありがとう」
そう一樹が伝えると、香苗は表情を保ったまま、目から一筋の涙を流した。
「ああ、すまなかった」
一樹が抱き寄せると、一樹の胸に軽く抗議の頭突きをした香苗は、そのまま腕の中に収まった。
絵馬の中での体験は、半ばは木行護法神の追憶だ。
だが残り半分は、絵馬に入った一樹と香苗の体験だった。
絵馬の中で夫婦として連れ添った体験は、絵馬の外に継承されている。
「たった50年で死んじゃうなんて、短くないですか」
一樹の身体に頭を埋めて、両手で一樹の身体を抱きしめながら、香苗が訴える。
軽く抱き返した一樹は、困ったように答えた。
「あの時代で還暦を迎えたら、頑張ったほうだろう」
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
厚生労働省が、国勢調査を基に発表した『完全生命表における平均余命の年次推移』によれば、明治から大正時代の平均寿命は、40代前半であった。
明治時代よりも医療技術が低く、天災や飢饉の対策も難しかった江戸時代は、さらに平均寿命が短かったはずだ。
江戸時代の前期に還暦を迎えられたなら、大往生だと言って良い。
「今度は、100年は一緒に居て下さい」
「そんなには生きられない」
香苗は一樹の腕の中で、頭を押し付けながら、小さく横に振った。
頭を押し付けられた一樹には香苗の意志は伝わったが、こればかりはどうしようもない。
16歳の一樹が100年も生きると、116歳になる。
大抵の人間は、そんなには生きられない。
「だったら、また絵馬を使わせて下さい」
「ちゃんと生き抜いただろう。香苗も、もう村で死ななくて良い」
木行護法神は、村で天寿を全うしていれば、成仏していたはずだ。
それが出来なかったから未練が残り、豊川稲荷の霊狐塚に行き着いている。
不本意な死を何度も繰り返させる事は、一樹には気が咎めた。
「別に村で暮らさなくても良いです」
一樹に頭を埋めていた香苗は、急に一樹を見上げて訴えた。
「どういうことだ」
「村から移動して、里で暮らせば良いじゃないですか。お祭りに行けますし」
「祭りは、行っただろう」
「出店のほおずき、綺麗でしたね。1回行っただけでしたけど」
木行護法神の記憶にあった男は、村での生活を守りたかった。
廃村で、元村人が故郷に残りたいと言って1人無宿人になった程度であれば、目こぼしされた。少なくとも、まったく収支に見合わなくても取り立てに行こうというほどではなかった。
だが祭りに行って、役人に誰何されれば「年貢を納めない無宿人の分際で、勝手は許すまじ」と思われる。すると強制移民でも、させられたかもしれない。
一樹は、瞳で訴える香苗に対して、首を横に振った。
「大変だからな。考えておく」
当時の人間にとっては、とても大変なことだ。
だが妖狐には、諦める意思は無いようだった。
「江戸には、沢山の出店があるそうです。花火も綺麗でしょうか」
「そうかもしれないな」
現代の花火のほうが、圧倒的に綺麗だろう。
だが香苗にとっては、花火の数も、大きさも、鮮やかさも、どうだって良い。
一緒に祭りに行き、二人で見られたら、どのような花火であろうと幸せなのだ。
「現代の花火で許してくれ」
「それなら、許してあげます」
代案を聞いた香苗は、すんなりと引き下がった。
ホッと一息吐いた一樹は、別の話題を模索した。
「それはそれとして、250年も練習したら、音楽も上手くなったんじゃないか」
「琴引浜の鬼女からは、免許極伝されました」
「一緒にいたのか」
一樹は驚いたが、一樹も牛太郎と共に居た。
それならば香苗も、使役している式神達や、憑いている霊とは、一緒に居たはずだ。
そもそも一樹と香苗を絵馬に入れたのは、香苗に憑いている小白である。
香苗の音楽を導くと宣言した小白が、香苗の技量向上を目的に琴引浜の鬼女を招き入れるのは、自明の理だった。
「あの人は満足して、もう成仏されました」
「そうか。それは短かったのか、長かったのか、判断に迷うな」
琴引浜の鬼女が憑いたのは、1月2日の夜だった。
それからわずか二週間と考えれば、あまりにも短い。
だが250年と考えれば、一樹が江戸時代に、5回も天命を迎えるほどの長さだ。
「小白様も一緒でした。小白様は弁才天のところへ、一度戻られましたけれど」
「そちらも合格と言うことか」
「はい。絵画を出入りする御利益も頂きました」
250年間で、香苗には沢山のことがあったのだと察せられた。
香苗は所感を述べず、代わりに琴を顕現させた。
「それでは聴いて下さい」
一樹はスマホを取り出して、投稿用の動画を撮影しようとする。
準備を待った香苗は、撮影が始まると琴を弾き始めた。
香苗の指から紡ぎ出されたのは、春の芽吹きの音だった。
山に訪れた暖かな春風が、雪を溶かして、山に草花を芽吹かせる。
川のせせらぎ、森のざわめき、小鳥の鳴き声が、琴から次々と生み出される
音に曲に包まれた一樹は、長い眠りから覚めるように、意識を覚醒させていく。
香苗は音楽で、描きたい世界を自在に生み出せるようになっていた。
2人が生きる世界に、暖かな春が訪れた。
























