187話 鹿野の大木
幾許かの月日が流れた。
廃村に暮らす夫婦の話は、川下の村にも知られていた。
時折、村と取り引きをしたためだ。
藩の年貢は相変わらず重くて、いつか百姓一揆が起きるのではないかと一樹は懸念していたが、だからこそ売買は続けられた。
一樹は香苗と連れ立って、萩まで祭りを見に行ったこともあった。
藩を跨ぐには届出と許可が必要だが、鹿野と萩は同じ萩藩なので往来できる。
萩の城下町は流石に立派で、沢山の出店が並んでいた。
果物売、すし屋、焼いか売、蕎麦屋、麦湯売、団子売、ほおずき売、汁粉屋。
ほおずき売を気に入った香苗は、珍しく「また来たい」と強請った。
――ほおずき、綺麗だったからな。
連れて行ってやりたかったが、萩まで行くのは大変だ。
余所者で無宿人という弱い立場の一樹は、萩で捕まると廃村には戻って来られなくなるために、二度は行けなかった。
その代わりに、川下の村で手に入れた飾りを渡して誤魔化した。
正しくは、香苗が分かっていて誤魔化されてくれた。
香苗の姿は、何年経っても変わらなかった。
歌うのも、相変わらず好きだった。
香苗が妖狐であることを知っていると一樹が明かした後、香苗は隠さず歌うようになった。
さらに、どこからともなく三味線や琴を出して、練習するようになった。
「十分に上手いじゃないか。そんなに上手くなって、どうするんだ」
問われた香苗は、じっくりと考えてから答えた。
「あなたは、『炭焼き一生』と言いますよね」
「ああ。炭焼きは奥が深い。どれだけやったって、まったく同じ物は作れない。色々な条件が少し変わるだけで、違う物が出来る」
だからこそ『炭焼き一生』という言葉があるのだろうと一樹は思う。
それでも最近は、なかなか上手く作れるようになってきた。
指導者が居ないので試行錯誤だが、かつて村に住んでいた老人達と同じくらいには、作れるようになったのではないかと思っている。
「良い物が出来たら、嬉しいですよね」
「極上の物が出来たら、やったと思うな」
「また作りたいとか、いつも作りたいとか、もっと良い物を作りたいとか、思いませんか」
「それは思うな。つまり音楽も、炭焼きみたいなものなのか」
「そういうことです」
炭焼きを例えにされた一樹は、大いに納得した。
それから香苗は、遠慮せずに音楽をするようになって、時折は複数の楽器が聞こえてくることや、別人のような歌声が聞こえてくるようにもなった。
一樹は首を傾げたが、仲間の妖狐でも来ているのだろうかと思い、気にしないことにした。
一樹と香苗は、廃村で静かに、だが楽しく暮らした。
もちろん大勢で、お祭り騒ぎの大宴会をするような派手さとは無縁だった。
だが春の暖かさを感じ、夏の錦川で涼を楽しみ、秋の実りで食を楽しみ、冬には家で暖を取りながら穏やかに暮らす生活に、一樹は満足していた。
香苗も険が取れたのか、張っていた気が抜けたのか、純粋に音楽を楽しむようになった。
最初は隠していたが、今では屋内でも色々な楽器を弾くようになり、一樹が好きだと言った曲を奏でるようになった。
そんな暮らしを続けていたが、やがて終わりが訪れた。
――もう歳か。
一樹が農作業をしていると、息切れするようになってきた。
食も細くなったので作業も減ったが、代わりに香苗が、食事に山菜を足しているようだった。
一度は香苗が鹿を獲ってきたこともあったが、一樹が不甲斐ない顔を浮かべてしまったからか、二度目は無かった。
木炭は、上手く作れるようになっており、そちらは密かな自慢だった。
それから、また暫く月日が流れた。
ある時、畑で座り込んだ一樹は、どうにも起き上がれなくなった。
昼下がりに心配して見に来た香苗が、家に連れ帰ってくれたが、布団から起き上がれない。
一樹が自分の手を見てみると、しわくちゃを通り越して、骨と皮のようだった。
――自分で自分の顔は、見られないからなぁ。
一緒に居る香苗が歳を取らないので、「自分も若いままだ」と自分自身を誤魔化してきたが、ついに限界が訪れたのだ。
それを自覚した一樹は、陰陽師の末裔として身体に張っていた気が抜けた。
すると、もう駄目だった。
寿命というロウソクの灯りが、消えていくのを自覚した。
身体は震えるように寒いが、畑に出る時期なのだから、本来は寒いわけがない。
身体の熱が無くなっていくことが寒いのか、死ぬことが恐ろしくて寒いのか。
そのように一樹が思っていると、香苗に意識を引き戻された。
「粥は食べられますか」
「……いや」
一樹には、もう粥を食べられる体力は無かった。
食べなければ、体力が消耗しっぱなしで、間もなく死ぬだろう。
だが生憎と、食べる体力など無いのだ。
――俺は、もうすぐ死ぬ。
それが分かった途端に、一樹は香苗に対して申し訳なくなった。
人間と居て、時間を使わせてしまった。
妖狐の仲間のところに居たならば、同じ時を歩んでいけだだろう。
謝罪の言葉が出そうになって、それを飲み込んだ。
それは、最期に言うべき言葉ではない。
一樹は、自分が思う正しい言葉を発した。
「香苗、一緒にいてくれてありがとう」
寝床に寄り添った香苗は、黙って聞いている。
一樹はうわごとを呟くように、香苗に伝える。
「一人暮らしだったが、香苗が来てくれてからは、ずっと楽しかった」
ややあって、香苗が返事をした。
「あたしのほうこそ、楽しかったですよ。あなたと一緒に居られて、幸せでした」
「それなら、良かった」
一樹は、満足そうに息を吐いた。
「次に眠ったら、裏手にある大木の根元で休ませてくれ」
「まだ早いです。あと……1年くらいは、一緒に居て下さい」
香苗は、本当は50年とでも言いたかっただろうか。
一樹の様子を見て、妥協して、妥協して、妥協して、1年に抑えたに違いない。
1年あれば、一樹と香苗が過ごした山の季節を一巡りできる。
せめて最期に、それくらいはと願ったのかもしれない。
ずっと一緒に居た一樹は、そのように思った。
「もう、動けない」
「一緒に居てくれるだけで良いんです」
「……それなら、大木で休んでいるから、たまに歌でも聴かせてくれ」
「良いですよ」
最期に一樹が聞いたのは、その言葉だった。
抗いがたい睡魔が訪れて、一樹は目を開けていられなくなった。
それでも僅かに手を動かすと、香苗が握り返してきた感触があった。
――良く分かったな。
それから優しい歌が聞こえてきたような気がしたが、一樹には、もう分からなかった。
◇◇◇◇◇◇
それからも妖狐の娘は、鹿野の地で暮らしたと伝わる。
廃村を訪れる人は、滅多に居なかった。
だが立ち入った者の耳には、歌声や様々な楽器の音色が、楽しそうに、悲しそうに、そして幸せそうに聞こえてきたという。
























