178話 小白様【書籍第3巻、予約開始】
陽の光を眩しがる弁才天の従者を連れて、一樹達は光清寺から出た。
正月三が日の中日であり、長々と居座っては迷惑になる。
落ち着ける場所を目指して、南にある二条公園のほうへ歩きながら、一樹は助け出した天女に尋ねた。
「弁才天の従者様のお名前は、何とお呼びすればよろしいのですか」
長い肩書きで呼び掛けるのは、とても不便だ。
また一樹と香苗にとっては、「弁才天の従者様」と呼ばなければならない状況が続くと困る。
そんな呼びかたをしていれば、周囲からは「一体何事だ?」と思われてしまう。
捕らわれていた時に名を明かさなかったのは、名を知られて不利になる可能性があったからだろう。
今も香苗に音楽の御利益を与えて、導く約束はしている。
だが程度は決めていないので、天女が僅かでも行えば約束は果たされて、自由の身だ。
いつでも去れる身で、束縛されておらず、名を明かしても不利益は蒙らない。
元々の人が良さそうで、弁天と同じ天部の下にいる三尾の配慮で解放してもらった経緯もあり、放り投げる形で去ったりはしないだろうが。
天女は名を明かすだろうと一樹は思ったが、回答は予想外のものだった。
「名は、有りません」
「どうして名が無いのでしょうか」
「元々わたくしは、大明神様に仕える白鳥の一羽でした。神使となり、変化も出来るようになりましたが、従者は幾人も居りますので」
「それは、何ともはや」
驚いた一樹は、従者の天女が弁才天から放置されていたことを含めて、色々と納得した。
弁才天として祀られた女神サラスヴァティーは、白鳥とクジャクを神使としている。
川が由来の女神なので、さぞや沢山の白鳥が集っていたことだろう。
神使に与える神力は、信仰や地脈で補える。
日本では七福神でもある弁才天は、多くの信仰を集めている。どれだけ沢山の神使が居ようとも、分配する神力には事欠かないだろう。
沢山の神使のうち一羽が姿を見せなくなっても、おそらく女神は気にしない。
天女が捕らわれていた期間を考えれば、総数の把握や、個体識別を行っているのかも疑わしい。
自らの従者が捕らわれていることを知れば助けるだろうが、認識していなければどうしようもない。
「どうして猫の姿で絵馬に居たのですか」
香苗が尋ねると、従者は和やかに答えた。
「大明神様は、絵画を司る神でも在らせられます。神使のわたくしは、絵画の内外を行き来したり、絵画に描かれた姿に変じたりもできるのです」
「凄いのですね」
「難しいことではありません。機会があれば、絵画の世界にもご案内しますよ」
天女は容易く言ってのけた。
だが、そこまで出来るとなれば、天女自身が神格を持つ神霊の類いかもしれないと一樹は考えた。
「香苗殿が思い描ける楽器ならば、呪力で顕現させられますよ」
「ギターとかもですか」
「試してみてください」
天女に告げられた香苗は、目を瞑った。
すると伸ばした香苗の両手に、今回香苗が持ってきたギターと同じものが顕現した。
「本当に出ましたね」
「大明神様の使いであるわたくしは、大明神様の御利益を授けられます。この技能は、香苗殿への御利益の一つとしましょう」
一樹は香苗の手元にあるギターと、香苗が背負っている黒いギターケースを見比べた。どちらも存在しており、形状も同じで、同じものが2本になっている。
香苗は顕現したギターを鳴らしているが、音は綺麗に出ている。
呪力で顕現させたほうは、籠めた呪力が尽きれば消えるだろうが、おそらく一週間以上は保つ。演奏するときに使用できれば良い香苗にとっては、それで充分だ。
さらに天女は、自らが使用する三味線や琵琶などを、出したり消したりして見せた。
「ありがとうございます……ええと、お呼びする名前が有りませんけれど、何とお呼びしましょう」
「そうですね。どうしましょうか」
「ご自身では、お付けにならないのですか?」
「白鳥の群れでは、誰も名前では、呼ばれませんでした」
「弁才天の従者様になってからは、お名前を呼ばれなかったのですか」
「大明神様は、その場で目に付いた従者に、指示を出されるくらいでしたので」
感覚の違いに戸惑った香苗が、一樹に視線を送った。
元白鳥で、これまで名前が無かった天女にとっては、名前の必要性が感じられないらしい。
実際に羽衣を纏った白鳥の天女が記された『近江国風土記』でも、天女の子供に名前があるが、天女自身には名前が無かった。
近江国風土記によれば、天より白鳥の姿で舞い降りた八人の天女を目撃した伊香刀美という男が、天女達が水浴びをしている隙に白犬を使って羽衣を盗ませ、天女の一人を帰れなくさせた。
羽衣を失って帰れない天女を住処に招いた伊香刀美は、やがて夫婦となり、二男二女を授かる。その子孫は、近江国の豪族となった。
なお地上に取り残された天女は、羽衣を探し出して天に帰ったそうである。
「香苗がお呼びする名前だから、ひとまず香苗が付けるとか」
「責任が重いです。ここは師匠が」
「こんな時だけ、師匠と呼ぶな」
当事者の天女は、自分のことにもかかわらず、興味深そうに見守っている。
「白鳥に関係する名前が良いと思う。コハクチョウだったら、小白とか」
「オオハクチョウだったら、どうするのですか」
「……コハクチョウだろう。多分」
大白という名前は、あまり良い響きではない。
長身でも大柄でもない天女を眺めた一樹は、彼女がコハクチョウだということにした。
「あるいはオオハクチョウだったとしても、小柄な白鳥なので、小白ということで」
「それで良いのですか」
「わたくしは、構いませんよ。小白なのですね」
尋ねられた一樹は、決心して頷いた。
「小白様とお呼び致します」
「分かりました。それではわたくしは、小白と呼ばれましょう」
信仰されている神が、各地で様々な名前で呼ばれるのは、よくある話だ。
小白が仕えている女神サラスヴァティーも、日本では弁才天と呼ばれる。
そのためか、あまり気にした様子もなく、小白はすんなりと名前を受け入れた。
「さて、音楽の導きについてですが」
命名が済んだところで、小白が本題を切り出した。
「絵馬を参拝に来られた方々が、凪の浦の鬼女について話しているのを耳にしたことがあります。その話は、ご存じでしょうか」
尋ねられた一樹と香苗は、視線を見合わせた。
そして一樹のほうが答える。
「琴引浜に現れたという、琴に秀でた鬼女の話でしょうか」
「そう、その話です」
初出は、江戸時代の浮世絵師・勝川春英が描いた『異魔話武可誌』(1790年)で、『古家の怪』と題された怪異である。
江戸時代の『列国怪談聞書帖』(1802年)には、凪の浦の鬼女と記される。
丹後国の峰山(京都府京丹後市)に、篠田某という楽器の名人がいて、特に琴に優れていた。
ある日、篠田が現代の琴引浜に遊行して、月が出る頃に帰ろうとしたところ、どこからともなく美しい琴の音が聞こえてきた。
篠田が音のほうに赴くと、磯山の木に隠れた紫の庵(家)があった。
そこでは鬼の顔をした女が、破れた装束と色あせた袴を着て、琴を弾いている。
弾き終わった女は「ああ嬉しい。私のこの秘曲を人に伝えず死んだ心残りで、人を長く待った。ここに来た人に伝えることこそ幽玄の本質である」と言って、灯を消して姿を隠した。
篠田はこの曲を伝えて、丹後国で琴の名手となった。
別の名前だった浜も、その頃から『琴弾浜』(現代では琴引浜)と呼ばれるようになった。
「琴引浜の鬼女は、成仏したのではないのですか」
一樹が疑わしげに尋ねると、小白は首を横に振った。
「たった一度だけ聞かせたくらいでは、伝えきれるものではありません」
「それは……」
音楽に詳しくない一樹が香苗のほうを見ると、香苗は小白の話を肯定するように頷いた。
「音楽を伝えたい意志を持ち、指導者にも向いた霊です。会いに行きましょう」
音楽神の神使に導かれた一樹と香苗は、琴引浜の鬼女に会いに行く事となった。
























