177話 浮かれ猫
翌日、一樹と香苗は京都市の光清寺を訪れた。
蒼依達は同行していないが、それは香苗に音楽の御利益を与える目的で出された依頼だからだ。万が一にも、御利益が香苗以外に移る可能性を排除している。
今回の依頼人は良房で、受注者は陰陽師の一樹と香苗、依頼内容は救出となる。
「これは京都市の出水で、七不思議の一つとして伝わる話だそうだ」
時は、宝暦七年(1757年)に遡る。
かつて日本にあった宮家の一つ、伏見宮が京都から江戸に移った際、伏見宮家の鎮守であった玉照神社から光清寺に、一枚の絵馬が移された。
その絵馬には猫が描かれており、光清寺の弁天堂に掛けられた。
ある夜、酔った機織り職人が光清寺の近くを通ると、境内から三味線の音や歌声が聞こえてきた。
男が中を覗き見ると、弁天堂の辺りで、白い布をまとった天女が舞っている。
驚いた男は、思わず声を上げた。
すると天女は姿を消して、代わりに金色の瞳を光らせた猫がうずくまっていた。
以来、夜になって人通りが絶えると、描かれている絵馬から猫が浮かび上がり、女性の姿に化けて踊り始め、三味線と歌が聞こえてくる。
それは『浮かれ猫』の仕業であるとされた。
「その浮かれ猫が、七不思議の一つなのですか?」
「そうらしい」
その姿は、天女が舞っているように美しい。
三味線の音は、まるで天上の音色であった。
それから毎晩、噂を聞きつけた人たちが寺に押し寄せて、迷惑だった住職は絵馬を金網で覆い、法力を使って猫を閉じ込めてしまった。
するとある夜、和尚の夢枕に衣冠束帯(公家の正装)の人物が立ち、訴えた。
『私は大明神の従者ですが、人が来て嬉しくなると踊り出したくなるのです。二度としませんから、金網から出して、封印を解いて下さい』
女が悲しげに訴えたので、和尚が絵馬を戻すと、それから猫は現れなくなった。
そして大明神の従者は、今も歌と踊りを禁止されてそこにいる。
「迷惑だから出て行けと言えば、素直に従いそうですが、どうして封じているのですか」
「伏見宮家から移された絵馬を、住職が勝手に捨てられないだろう」
「そういうことですか」
「想像だけどな」
太平洋戦争後に臣籍降下した伏見宮家は、南北朝時代の崇光天皇の皇子を祖とする一族で、現在の皇室の祖先でもある。
伏見宮家からの絵馬となれば、寺の住職も自分の裁量では変更できない。大事にならないように、とにかく抑え込む以外の選択肢が採れたとは、一樹にも思えなかった。
そんな浮かれ猫の解放を指示したのが、良房だ。
藤原良房は、人臣として初の摂政であり、歴代天皇の娘婿、義兄、伯父、祖父、祖先にあたる。
良房が当主だった藤原北家は、五摂家(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家)や、堂上家(上級貴族)である137家のうち87家の祖先でもある。
伏見宮家にも、もちろん藤原北家の血が入っている。
むしろ上流階級では、藤原北家と無関係な家を探すほうが難しい。
そんな良房が、香苗の話を聞いたことが切っ掛けで、浮かれ猫は解放される運びとなった次第だ。
「ちなみに弁天堂の大明神は、七福神として有名な弁才天だ」
大明神の従者である浮かれ猫の絵馬は、仕えている弁才天の御利益で演奏や踊りが上手くなると広まって、遊女などを中心に広く噂となった。
「弁才天は、音楽の神として有名ですよね」
「音楽だけじゃないぞ。64もの技芸を司るそうだ」
「64ですか?」
弁才天が司る技芸の多さに、香苗は驚きを露わにした。
そもそも弁才天は、古代インドにあったサラスヴァティーという川がヒンドゥー教の女神となり、それが仏教に取り込まれた名だ。
そのためインドの都人士が修得すべき徳目の64技芸(楽器の演奏、絵画、料理法、作詩法、修辞学など)を司っている。
日本でも、音楽神、弁才神、戦勝神、財福神、学芸神など、多芸な神と知られる。
サラスヴァティーが手に持つのは打楽器のヴィーナで、中国や日本では弦楽器の琵琶になったが、音楽であれば種類を問わず司る。
なお天と付くように、仏教では天部で、豊川陀枳尼眞天と同じ護法神でもある。
――良房様が気に掛けられた理由も、そこにあるのかな。
豊川稲荷の神である豊川陀枳尼眞天と、同じ天部である弁才天の使いが捕らわれている。
心証は、大変よろしくないだろう。
従者の境遇を弁才天が知れば、捨て置くとは限らない。
光清寺に納められる絵馬のところまで来た一樹は、猫と牡丹の花が描かれた絵馬を眺めた。
猫は白黒で、背中側が黒で、腹側が白だ。黒色が鼻筋を境に、左右へ『八』の字のように分かれており、そのような犬猫はハチワレと呼ばれる。
ハチワレに向かい合った一樹は、絵馬に語り掛けた。
「弁才天の従者様、おられますか」
一樹が語り掛けると、ハチワレの耳がピクリと動いたように見えた。
「今、動きませんでしたか」
「どうやら、居るようだな」
長年捕らわれて、一つの寺に集まる神気では不足しているのかもしれない。
そのように考えた一樹は、同じ仏教の神である閻魔大王の神気を注いだ。
天部の従者であるからといって、必ずしも強いわけではない。
だが一方で、インドの天女は神格を持つ。中国で黄帝を助ける七天女にも、狐達に試験を課す碧霞元君などが含まれている。
よくぞ封印できたものだが、江戸時代であれば陰陽寮が健在だった頃である。
当時のA級陰陽師にあたる上層部が、宮家に関わることで大事が無いように動員されたとすれば、相手がA級ですら封じることも有り得なくはない。
一樹がゆっくりと神気を注いでいくと、やがて絵馬に反応が現れた。
日に焼けて色褪せていた猫が、まるで高画質の写真であるかのように鮮やかな色を取り戻して、テレビ映像のように動き出し、浮かび上がってきた。
そして絵馬から飛び出したハチワレの白黒猫が、姿を変じる。
それは天女の出で立ちで、羽衣を浮かせ、三味線を手にした、まさに天女であった。
人間として見た場合の外見年齢は、成人直後くらいだろうか。
体格は小柄で、顔の造形は整っており、髪はきちんと結っている。
目元は垂れ目で、『浮かれ猫』の評判通り、生来の性格は朗らかそうに見える。
天女と称するに相応しき容姿と格好の女は、目に涙を浮かべながら、怯えた様子で訴えた。
「歌っていません、踊っていませんから、金網に監禁しないでください」
絵馬の天女は、江戸時代に交わした約束を守っているようだった。
江戸時代に監禁されて封印された天女は、『歌わず、踊らず』という契約の下に出してもらえた。それは口約束だが、口約束であろうとも契約は成立しており、破れば言霊が力を失う。
もしも一樹であれば、唱えて行使する類いの陰陽術は、効力が激減する。
九字の『臨兵闘者皆陣列前行』、呪力を籠める『急急如律令』、式神と契約を交わす文言などに、軒並み信用が置かれなくなって、効力を減じるわけだ。
つまり『詐欺師の約束に対する世間の信用』と同程度の価値となる。
そうなれば陰陽師として、やっていけない。
神のほうでも、約束を破っていれば信仰を得られなくなり、神格を落とすことになる。
神の従者であっても、嘘を吐いたとなれば、主である神の名を貶める。
交わした約束は、余程のことがない限り、破れないのだ。
――だが俺は、当時に約束を交わした者では無いからな。
一樹自身は、当時の約束に縛られていない。
そんな尋常ならざる力を持った陰陽師が来たことで、何かをされると思ったのかもしれない。
本気で怯える相手に軽口など叩けるはずもなく、一樹は端的に要件を告げた。
「あなたを解放しに来ました。寺との話は、済んでおります」
「……解放ですか?」
疑わしげに聞き返した天女に向かって、一樹は大きく頷き返すと、相手が納得できるように情報を詳らかにする。
「封じているのを解放します。その代わりに、ここにいる香苗に音楽の御利益を賜りたいのです」
条件を出されたことで、天女は僅かに安堵している様子だった。
すなわち契約違反ではなくて、契約内容の改定だ。
あとは一樹の話を信用できるのか否か、新たな契約内容は条件がマシになるのか否かであろう。一樹は信用の部分で、依頼人の名を出した。
「大元の依頼人は、豊川稲荷の霊狐塚に宿る三尾の霊狐です。豊川陀枳尼眞天と同じ天部である、弁才天の従者様の境遇を気にしていたようで、方々に話を付けた次第です」
「それは、なんと有り難いことでしょう」
今度こそ天女は、心から安堵の表情を浮かべた。
「香苗は妖狐の血を引き、豊川稲荷の霊狐と縁があります。依頼人の三尾が、香苗を指名しました。香苗、一曲弾いてみてくれ」
「分かりました」
一樹に催促された香苗は、持ち込んだギターを取り出して、鳴らし始めた。
ポロンポロンと弦が弾かれて、優しい歌声が弁天堂に響いていく。
それは天女にとって、二百数十年振りの演奏と歌だった。
しばらく香苗の演奏に聞き入った天女は、やがてポロポロと涙を流し始める。
そんな天女の様子を眺めながら、一樹は要件を畳み掛けた。
「香苗は、自分が理想とするレベルでは演奏できません。ですが師も居らず、道に迷っております。ぜひ弁才天の従者様に、音楽の御利益を賜りたく」
「分かりました。わたくしが導きましょう」
はたして天女は、強い御利益を約束した。
それは監禁と封印をされた時に、『歌わず、踊らず』と契約したような、強い約束だった。
他人事ながらも一樹は、天女は人が良すぎて、騙され易い性格なのかと心配になった。
懸念を覚えつつも、一樹は神気を発しながら宣言する。
『弁才天の従者様は、これより歌えて、踊れて、奏でられます。また所在も自由となります』
一樹の言霊が、天女を捕らえていた無形の束縛を掻き消していく。
全権を託された一樹と、天女の新たな約束により、かつての契約は改定された。
心底安堵の表情を浮かべた天女は、僅かに微笑みながら一樹に訴えた。
「最早お叱りを覚悟で、大明神様のお慈悲に縋ろうかと思っておりました」
天女が発した言葉に、一樹の表情は凍り付いた。
弁才天は、荒ラ獅子魔王を倒した毘沙門天と同じ天部で、七福神の一柱だ。
八臂像の姿で描かれる時には、8本の手に弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索を持っている。そして戦勝神として、『勇猛にして大精進し、軍陣の処において戦い常に勝つ』と記される。
そのような神が、自分の従者の境遇を知れば、はたしてどうなるか。
各所は、大変なことになる寸前であったらしい
一樹は戦慄しながら、恐ろしい話を聞かなかったことにした。
























