170話 仇討ち
獅子鬼と建御名方神が取っ組み合っていた頃、犬神も羅刹に食らい付いていた。
空で飛び掛かり、身体を庇った羅刹の右手に噛み付いて、引き摺ったのだ。
以前対峙した時、羅刹と犬神の大きさは、人と中型犬ほどの差だった。
だが先代の花咲を殺された犬神は、恨みで膨れ上がり、大型犬ほどの大きさとなっていた。犬神の身体は見かけ倒しではなく、力も倍加している。
その力を以て、犬神は羅刹を地上に引き摺り下ろしていった。
「畜生風情があっ!」
地上に投げ落とされた羅刹は、手元に斧を生み出すと、犬神に向かって力一杯に振るった。
横薙ぎの一閃が、轟音を立てながら水平に駆け抜ける。
それをヒラリと飛んで躱した犬神は、着地した次の瞬間には羅刹に向かって跳ねた。
犬神が狙ったのは、羅刹の首だった。
ライオンなどの肉食獣が獲物を仕留める際、首に噛み付いて息の根を止めるが如く、強靱な顎で羅刹の首を絞めようとしたのだ。
斧を振った直後の羅刹は、体勢を崩していた。
「ぬあああっ」
羅刹が差し出したのは、左腕だった。
首を庇った左腕に犬神が食らい付き、羅刹は右手で掴んでいた斧を犬神に向かって振るう。
『肉を切らせて骨を断つ』
右手首で振るわれた斧を背に受けた犬神は、肉を切らせた。
だが引き替えに、羅刹の左腕に食らい付きながら身体を回転させ、左腕の骨を折った。
「ぐがあ゛あ゛ぁ!」
痛みに叫んだ羅刹は、右手の斧を放して、代わりに犬神の目に指を突き入れようとした。
それに対して犬神は、咬んでいた羅刹の左腕を離し、右手の指を避けた。
犬神は距離を取り、羅刹と睨み合う。
羅刹の左腕と、犬神の背中の傷は、どちらも回復しないままだ。
羅刹は肉体を持っており、生者と同様の理屈が働く。
小さな傷は自然治癒するし、折れた骨も癒着するが、時間は相応に掛かる。
犬神は、氏神と式神の理屈が働く。
氏子の信仰と使役者の呪力で回復するが、前者は非効率で、後者は使役者がD級だ。
羅刹と犬神は、負った傷を確かめながら、互いに間合いを測った。
「犬畜生めが」
羅刹は不本意そうに、忌々しい声を上げた。
羅刹は2000年前に、阿弥陀如来の軍勢と戦った悪魔邪神の1鬼だ。
対する犬神は、鎌倉時代に生まれた個体で、戦歴は羅刹のほうが古い。
先頃まではA級下位であったことも相俟って、羅刹には、犬神が格下という思いがあった。
「ヴヴヴヴヴヴヴッ」
対する犬神は、羅刹を格上などとは見なしていなかった。
犬神は、4000万年前に誕生した肉食動物の子孫にして、150万年前に小型のイヌ科の動物から発生したオオカミの末裔である。
犬神の身体は狩りに特化しており、戦闘で羅刹に劣ることはない。集団で活動することにも慣れており、群れの仲間意識は強い。
戦いに特化した犬神が、先代の花咲を殺した羅刹を、群れの敵と定めている。
人を狩る鬼の羅刹と、復讐に猛る犬神とが睨み合う中、第三者が割って入った。
「ヴヴヴヴォオオオオッ!」
乱入してきたのは、犬神よりも大きな身体を持つ赤牛だった。
羅刹に恨みを募らせているのは、犬神だけではない。
静岡県の陰陽大家である堀河家も、前当主を羅刹に殺されている。
魔王と羅刹が静岡県に入ったのは、富士山にある巨大な富士霊園で呪力を集めるためだった。
かつて阿弥陀如来が率いた神仏に倒された魔王と羅刹は、目立てば神仏に危機感を抱かせて潰されることから、見つからないよう慎重に活動してきた。
いつのタイミングで静岡県に入ったのかは不明瞭だが、前統括陰陽師を殺し、後任がC級の間に呪力を蓄えた。
そして次代が、父親を殺されて最初から最大限に警戒しているB級になることから、正体の露見や、陰陽師協会に不意を打たれるリスクに鑑みて、魔王側が先手を打つ判断を下した。
それが今回の活動再開だと、陰陽師協会は考えている。
堀河は、父の仇が羅刹と判明する前に、B級上位の杜若の精に願掛けをしていた。
そして仇の正体が羅刹と知って、A級中位の力を持つ護法一龍八王大善神にも願掛けを行った。護法一龍八王大善神は、かつて何人もの住職を殺した、容赦の無い怪である。
仇が羅刹だと知った後に仇討ちを断念していれば、堀河は命のリスクは負わなかっただろう。
だが仇討ちを断念すれば、先に願掛けを行った杜若の精を、裏切ることになる。堀河家が地元の神霊からの信を失えば、陰陽大家を保つことは難しくなる。
ほかの陰陽大家からも避けられて、陰陽大家としての堀河家は、潰れることになる。
現当主の堀河康隆は、目標に向かって、走り続けるしかなかった。
「羅刹を殺せ!」
叫んだ堀河が呪力を与え、力を帯びた赤牛は羅刹に突っ込んでいった。
愚直に突撃する赤牛は、1対1であれば、羅刹にとっては格好の的だった。だが羅刹の一挙手一投足は、殺意に満ちた犬神に狙われていた。
羅刹は、赤牛と犬神を同時に相手取る構えで、赤牛の突進を斧でいなした。
「人間に従う畜生共が!」
羅刹にとって人間は、糧である。
食用の家畜であるニワトリから卵を収穫し、雄鳥を肉にしようとしたところ、野犬に吠えられ、野良の牛が突進して来たにも等しい。
荒ラ獅子魔王が養鶏場の管理者の一人で、羅刹は従業員だろうか。
野犬が吠えて、野良の牛が突進してきたからといって、羅刹に去る考えは無い。なぜなら羅刹にとっては、羅刹の行動が正しいからだ。
人間が家畜を糧にするのであれば、鬼が人間を糧にして何が悪いのか。
2000年の間に沢山増えて、環境保護団体のように絶滅を危惧して介入していた神仏も干渉しなくなった。であれば、食べて良いということではないか。
むしろ増えすぎた人間を食べるのは、世界にとって良いことだとすら羅刹は思っている。
不快な牛を受け流した羅刹は、斧を振って犬神を牽制した。
「低能のクソ共がっ!」
羅刹が正義を確信する理由の一つには、無常鬼の存在がある。
かつて、魂をあの世に連行する『勾魂』は、黄衣の使者が行っていた。
その体制は人が増えすぎたせいで、無常鬼を下役に取り立てて使うようになった。そして下役の無常鬼すらも手が回らなくなって、走無常を使うようになった。
人の保護を訴えた神仏も、人が増えすぎたせいで手が回っていないのだ。
それこそが神仏の誤りであったと、羅刹は確信する。
「人間が増えすぎたから、神仏は介入していないのだ。人を減らすのは、義ですらあるっ!」
反転した赤牛に対して、羅刹は右手で斧を構えて、胸部を打たれながらも突進を受け流した。
折れた左腕は使えないが、不思議と痛みは感じない。
左足に食らい付いた犬神の顔面を、右足で蹴り付け、斧で打ち据えて払い退ける。
羅刹は左足の脛肉を削り取られたが、犬神にも同等の傷を与えた。
荒い息を吐きながら、羅刹は斧を構える。
攻撃力は犬神よりも乏しいが、殆ど傷を受けていない赤牛を捨て置くわけにはいかない。
羅刹は犬神を抑えるために左腕を犠牲にする覚悟で、右手で斧を構えた。
「かかって来い、野良牛」
「ヴヴヴヴオオォッ!」
突進を始めた赤牛に対して、羅刹は斧を高らかに振り上げた。そして薪を割るように、赤牛に向かって斧を振り下ろす。
同時に飛び掛かってきた犬神に対しては、折れた左腕を突き出した。
振り下ろされた斧の刃が赤牛の背に突き立てられ、呪いを叩き込まれる。
その引き替えに赤牛の角が羅刹の腹を突き破り、犬神の牙が羅刹の左腕を咥えた。
振り下ろされた斧の力で、地に沈む赤牛。
赤牛の突進を受け、弾き飛ばされる羅刹。
弾かれた羅刹の左腕を、噛み千切る犬神。
そして赤牛の受傷に連動するように、呪力が繋がる堀河も吐血し、倒れていった。
堀河は総白髪で、生気を失っていた。
堀河を支える杜若の精の瞳は、絶望に染まっている。
「皎、早く殺せ!」
呪力と生気を失った堀河の横で、小太郎が叫んだ。
咥えていた羅刹の左腕を捨てた犬神は、弾き飛ばされた羅刹に駆け寄ると、首筋に噛み付いた。
まるでライオンに首を噛まれた草食動物のように、アスファルト上を転がった羅刹は抵抗した。
右手で犬神を引き剥がそうとし、犬神の目に指を突き入れようと藻掻いたが、大地に転がって力を入れられず、息も出来なかったことが、肉体を持つ羅刹にとっては致命的だった。
1分、2分と時間が経つごとに抵抗は小さくなり、やがて羅刹は動かなくなった。
そして羅刹に食らい付いていた犬神のほうも、呪力を使い果たして、そのまま動かなくなった。
 
























