143話 昇神への道程
山間部にあって、拓けた平地。
有り体に言えば、何も無い山裾の平地に、五鬼王の領域はあった。
少しズレた世界に踏み入ると、世界には濃い鬼の気が漂っていた。
「スゥゥゥ、ヴワァァァァッ」
ふいごのように荒々しい呼気が、ズレた世界に轟く。
先頭に立って乗り込んだ一樹は、ズレた世界の山中に大鬼を見た。
身の丈は、牛鬼や羅刹に並ぶほど。
頭は5つで、顔が3つある阿修羅の両肩に、2つの顔を足したような姿をしていた。
右手には、身体の大きさに見合う大剣も携えている。それは田中明神と打ち合ったと伝えられる剣ではないかと、推察された。
――これは紛れもなく五鬼王だな。
人違いならぬ、鬼違いではないだろう。
まずは封じられている土地が、完全に一致している。
鬼の顔が5つという、他には類を見ない特徴もある。
ふいごのような息を吐き、言い伝えの大剣も携える。
そもそも異なる個体であれば、封じられてはいない。
ここまで完全一致するからには、五鬼王で相違ない。
冤罪が嫌いな一樹も、流石に相手を五鬼王と見なした。
――力は弱い。田中明神が弱らせて、その後も封じられていたからか。
一樹が感じ取れた力は、A級下位の牛鬼ほどだった。
A級下位は、神仏であれば辛うじて自身の神域を作れる程度だ。
五鬼王は、一樹が想定していたよりも弱かった。
「あれは、この地の人々が長らく封じてきた鬼で相違ありません」
「戦闘準備!」
龍神から派遣された香林が断定して、一樹が蒼依達に鋭い指示を発した。
沙羅が錫杖を握り締めて身構え、凪紗は両手で薙刀を構える。
このタイミングで一樹は、事情を説明していない凪紗に声を掛けた。
「あの鬼は、蒼依がトドメを刺す。そうしなければならない事情がある」
「はい、主様」
一樹の身体からは殺意が滲み出ていたが、身体は一歩後退した。
その代わりに蒼依が進み出て、手から天沼矛を生み出した。
そして戦場に在る凪紗からは、立ち回りを確認するために、当然の質問が投げられる。
「何故と、聞いても良いですか」
「見鬼では、蒼依が何に視える」
一樹が質問を返すと、凪紗は蒼依を視て答えた。
「零落前の山の神です」
正確に言い当てた凪紗に対して、一樹は一瞬言葉を詰まらせた。
凪紗が五鬼童家にあっても周りから浮いて、人間から恐れられるのも、納得の能力だった。
もっとも異常さであれば、一樹のほうが遥かに突出している。
一樹は凪紗の能力を受け入れつつ、最初の質問に答えた。
「アレを倒せば神格が上がって、蒼依は山の女神として存在を確立できる。それが今回の目的だ」
「分かりました」
薙刀を手にした凪紗が、一樹に合わせるように一歩後ろへと下がった。
沙羅も下がり、代わりに進み出た蒼依が矛を構え、恐ろしい形相の五鬼王に向き合った。
両者の体格差は、牛鬼と山姥が争った時を彷彿とさせる。
山姥は、疾風迅雷の如く跳ね飛んで、牛鬼に襲い掛かった。
呪力の繋がる一樹が、蒼依に神気を送り込む。
そして蒼依は、飛び掛かる寸前の肉食獣であるかのように、膝を曲げて体勢を低くした。
――頼むぞ。
刹那、一樹の意志を受けた式神が、影から飛び出した。
それは蒼依ではなく、五鬼王に並ぶ気を持つ信君だった。
「ぬおおおおおっ!」
戦国時代を生き抜いた侍の式神が、電光石火の如く駆け出した。
それは襲い掛かるためではなく、五鬼王の注意を引き付けるためだ。
五鬼王は、蒼依が倒さなければならない。
だが知る術も無い五鬼王は、突如として現れた互角の存在こそが本命だと誤認して、最大の注意を振り向けた。
その隙を突いて、蒼依が五鬼王に飛び掛かった。
「はああぁっ!」
それは信君が五鬼王に迫るのと、殆ど同時だった。
山姥が包丁を振り抜くよりも、遥かに素早く。海原ならぬ五鬼王に向かって、神気が籠められた天沼矛が、突き入れられた。
しかも同時に、呪力溢れる信君の刀が、別方向から迫っていた。
五鬼王の大剣が迎え撃たんとしたのは、当然ながら強い信君のほうだ。
蒼依に対しては、ろくに対応できなかった五鬼王の左肩にある顔の一つに、白光する矛先が突き立てられていく。
矛先を突き入れた蒼依は、翡翠製の勾玉に籠めた自身の神気を引き出して、注ぎ込んだ。
『伊邪那美ノ祓』
それは天浮橋から振り下ろされた、女神の一撃だった。
翡翠製の勾玉は、1個でB級中位の呪力を溜め込める。
B級中位は、蒼依が有する総呪力の半分であり、五鬼王にとっても呪力の5分の1だ。
五鬼王に5つある顔の1つ、すなわち5分の1に同等の神気が注ぎ込まれて、弾け飛んだ。
「「「「グギャアアアアアアアッ!」」」」
消し飛ばされた顔の1つを代弁するように、残る4つの顔が一斉に絶叫した。
五鬼王は激しい痛みに全身を振り回し、藻掻き苦しんで叫び回る。
その端では籠めた気を使い果たした勾玉が、地を転がっていった。
「「「「オノレ、コムスメガッ!」」」
五鬼王の右手が、大剣を振りかぶった。
それに対して後方の一樹が、大声で高らかに呪を唱える。
『臨兵闘者皆陣列前行。出でよ、牛太郎』
「ブオオオオオオオオオオォォッ!!」
領域に満ちた五鬼王の邪気が、爆発的に広がった神気に吹き飛ばされていく。
その中心には、五鬼王に匹敵する椿の神霊が姿を現しており、棍棒を掴んで雄叫びを上げていた。
牛太郎が発した激烈なる神気が、五鬼王の警戒を引き寄せた。
新たに出現した牛太郎に気を取られた五鬼王は、咄嗟に大剣を振り向ける。
その大剣を操る腕の先に、天沼矛の矛先が、蒼依の身体ごと吸い寄せられていった。
『伊邪那美ノ祓』
「「「ギャアアアアアアッ」」」
右肩を神気が貫いて、矛先を中心に弾け飛んだ。
邪気ごと顔を吹き飛ばす神気の爆発に、3つの顔から絶叫が響き渡った。
「「「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァッ」」」
顔を弾き飛ばされる痛みは、如何ほどのものか。
普通であれば声を上げられないだろうが、五鬼王には複数の顔がある。余程の痛みであったのか、五鬼王は絶叫しながら後退っていった。
2個目の勾玉が、蒼依の足元を転がっていく。その間に、五鬼王を挟んだ信君の反対側からは、一体の絡新婦が駆け抜けていた。
水仙の気量は、蒼依と互角のB級上位。
一樹達の目的を知らず、本命が分からない五鬼王は、水仙にも注意を振り向けざるを得なかった。
「「「キサマノ、ハラワタ、クイチギッテヤル」」」
五鬼王は、顔を潰された右肩を水平まで上げて、領域の侵入者達を威嚇した。
右手に水仙、左手に信君、横合いに蒼依と牛太郎。
3つの顔で4者に注意を向けていた五鬼王に、つむじ風に乗ったB級中位の鎌鼬が3柱、駆け寄ってきた。しかも3柱は、3手に分かれながら、同時に迫ってくる。
五鬼王が足元に注意を向けた刹那、神気を籠めた天沼矛が、投げ槍のように投げ付けられた。
『伊邪那美ノ祓』
「「ギャアアアアアアアッ」」
1本しか無い武器を投げ付けるのは、五鬼王にとって予想外だった。
意表を突かれた五鬼王の顔の1つに、投げ込まれた天沼矛が突き立てられる。籠められた神気を撒き散らしながら炸裂した天沼矛によって、五鬼王の3つ目の顔が破壊された。
「「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ」
破壊されたのは肩にある顔ではなく、頭部にあった顔の一つだ。
肩の二つよりも甚大な衝撃を受けた五鬼王は、痛みに藻掻き苦しむ。それは五鬼王が見せた最大の隙であり、それを蒼依は見逃さなかった。
天沼矛は、蒼依の気で生み出している。
瞬く間に新たな矛を生み出した蒼依は、顔を左手で押さえて痛がる五鬼王に、飛び掛かった。
2本目の天沼矛が、苦しむ五鬼王の顔面に突き立てられていった。
『伊邪那美ノ祓』
「グギャアアアアアッ……シネェエェッ!」
4つ目の顔を失いながらも、五鬼王は最後に残った顔から、ふいごのように毒の息を吹き出した。
その瞬間、一樹が真言を唱える。
『オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ』
毒を吹き掛けられた蒼依は、一樹の式神だ。
気が繋がる一樹から、地蔵菩薩の修法である『万病熱病平癒』の気が送り込まれた。
それは五鬼王の毒を打ち消すには、充分な力だった。
「オノレ、コムスメッ!」
これまでの行動から五鬼王は、蒼依が1人で自身を倒そうとしていることを理解した。
理由はまったく分からないが、目の前にあることがすべてだ。
このままでは拙いと考えた五鬼王は、ほかの全ての式神への警戒を大きく下げて、代わりに蒼依への警戒を最大限に引き上げる。
そして唯一にして最大の脅威と見定めた蒼依に向かって、大剣を振りかぶった。
対する蒼依も、最後の一撃を撃ち込むべく、矛を構えて飛び掛かっていった。
ほかへの警戒を捨てて振り抜かれた大剣の一撃は、それまでよりも鋭かった。
蒼依の矛が届くよりも僅かに早く、大剣の薙ぎ払いが蒼依に迫っていく。
その瞬間、蒼依の影から、不貞不貞しい体格の茶トラが飛び出した。
「猫太郎!?」
それは、蒼依の式神である猫太郎だった。
猫太郎は、五鬼王に向かって蒼依を押し出しながら、自らは蒼依と大剣の間に割って入った。
猫太郎の力は、一樹が出会った頃の沙羅や水仙ほどだ。その力の全てを振り絞った猫太郎は、全身全霊で五鬼王の大剣を迎え撃った。
そして薙ぎ払われて、消えていく。
『伊邪那美ノ祓っ!』
「ギャアアアアアアッ」
蒼依の矛が、5つ目の顔を貫いた。
そして5個目の勾玉によって、神気が注ぎ込まれていく。
さらに吹き飛ばされた五鬼王の顔に次いで、首にも天沼矛が突き立てられる。
「よくも猫太郎をっ!」
天沼矛が振るわれて、五鬼王の首が撥ね飛ばされた。
さらに6個目の勾玉が、首元で神気を爆発させる。
蒼依は翡翠製の勾玉を6つ持っている。
1つは、槐の邪神退治と虎狼狸退治の調伏に参加した報酬。
5つは、一樹が得て神域作りの練習用として渡したものだ。
その全てに籠めた蒼依の神気が、五鬼王に叩き込まれた。
「よくもっ、よくもっ!」
天沼矛が幾度も突き立てられて、五鬼王を容赦なく叩きのめす。
猫太郎を斬られた蒼依の荒ぶる神気が、五鬼王を討ち滅ぼしていった。
――いや、猫太郎は霊体の式神だから、復活するけどな。
かくして蒼依は、イザナミが果たせなかった神話を補完したのであった。
























