138話 神話の補完
10月も半ばに入り、山の木々は紅葉で鮮やかに彩っていた。
紅葉は、気温が下がり、日照時間が少なくなっているサインだ。
樹木は、葉を使って光合成をしている。だが冬になると、光合成で得られるエネルギーが少なくなって、葉を維持するエネルギーを下回る。
樹木は、冬に葉を付けていると採算が合わないので、秋に葉の栄養を枝側に回収して、不要になった葉を切り離そうとする。
その際、葉緑体を分解する過程で、日光を浴びて有害物質が発生する。それを抑えるために、葉の色を赤くするアントシアニンを生成しているのだ。
紅葉は、夏から冬に変わるサインである。
一つの樹という命名の由来を持つ一樹は、流石に葉は落とさない。
だが紅葉する山々、弱くなる日差し、空気の肌寒さから、季節の移ろいは感じ取っていた。
「すっかり秋になったぁ」
一樹が見ていたのは、栃木県の男体山から一望できる中禅寺湖だった。
青空の下、陽光を浴びた湖面がキラキラと輝き、穏やかに波立っている。
その先に聳え立つ山々は、秋特有の赤や黄色の彩りを見せていた。
「綺麗な景色ですね」
「そうだな」
蒼依の一言には、景色を眺めるために要した苦労が籠められていた。
元々男体山は、ムカデ神の実効支配地だった。
赤城山に陣取っていた蛇神と、男体山に陣取っていたムカデ神との争いは、西暦313年から399年まで在位した仁徳天皇の時代に遡る。
当時、毛野国という一つの国だった群馬県と栃木県は、その力を危惧した大和朝廷によって、上毛野国と下毛野国という二つの国に分けられた。
二国に分けられれば、どこで国境線を引くのかで争いとなる。
そして両国には、赤城山と二荒山(男体山)という信仰の対象があった。
両山には、地脈や祈願の力が注がれていた。それらによって蛇神とムカデ神は力を付けていき、やがて争ったと考えられる。
ムカデ神を呑み込んだ蛇神は、かつて二つに分けられた存在を、一つに纏めた。
そのため神格が上がり、龍神へと至ったのだ。
一樹と蒼依が見ている光景は、1600年以上も分割された果てに合一されて、ようやく落ち着いた穏やかな神域だった。
「お二人とも、何をしているんですか。入りますよ」
感慨に耽っていた一樹と蒼依の背後から、暢気な声が掛けられた。
おおよそ情緒とは無縁な柚葉に促され、二人は建立された龍神の社に踏み入った。
◇◇◇◇◇◇
「よう来たの」
龍神の社にて、社の主が鷹揚に告げた。
「お久し振りにございます。龍神様におかれましては、益々ご健勝の様子。何よりでございます」
「うむ。近頃は、すこぶる気分も良い。あるべき姿に、戻ったからであろうな」
あるべき姿に戻っただけ。
そのように称した龍神は、毛野国(群馬県と栃木県)の神として、赤城山と男体山の地脈から力を得ながら、生み出した神域の中心に座していた。
誕生の経緯が明確であり、土地に神域を生み出した龍神にとって、人の信仰は不可欠ではない。
揺るぎない存在と化した龍神であるが、一樹からの寄進は受け取った。
社の建立費用として、20億円。
一樹が報告を上げた陰陽師協会による、役所への手続きや業者の手配での支援。
日光市から男体山へと繋がる道は、龍神自身が龍体で一気に切り拓いた。
さらに周辺の鬼や魑魅魍魎を支配して、百鬼夜行どころか、万鬼夜行で休みなく働かせ、切り拓いた道を整えさせていった。
そこに資材と業者が入り、人手と重機に無数の鬼達も使って、龍神の社が完成したのであった。
「最近の電化製品は、便利じゃな」
「ご満足いただけて、何よりです」
妖怪の領域だが、太陽光発電と業務用蓄電池を入れており、オール電化である。
水道水は井戸水で、電気で汲み上げられる。
二車線の道が出来たので、日光市との行き来も出来る。龍神自身は運転免許証を持っていないが、龍神の娘には人間社会で活動して、免許証と車を持っている者もいる。
基地局が無いので電話やインターネットは出来ないが、すべての娘に意識を繋げられる龍神は、困らないだろう。
差し当たり、ポットでお湯を沸かした娘の1人が、お茶を煎れて運んできた。
「賀茂様から頂いたお茶とお茶菓子で、恐縮ですが」
「いえ、恐れ入ります」
軽く頭を下げながら、一樹は龍神の娘を素早く視た。
それは沢山居る娘の中で、わざわざ選抜した以上、優秀だと思ったからだ。
外見年齢は20代に見えるが、40代ほどに見える龍神の実年齢は1600歳を超えるので、おそらく20代では無いだろう。
龍神のような長髪で、雰囲気は真逆に柔らかい。
そして僅かに、自身の神気を纏っていた。
「……A級ですか」
「今の人の基準では、そうなりますね」
龍神の娘は、物腰柔らかく微笑んで肯定した。
「そやつは、妾が身罷った場合の後継者に考えていた程度には優秀じゃ。それは不要となったが、新たな神を祀る際には、役立とう」
土地に神域を作るには、A級下位ほどの力が必要だとされている。
龍神の補足を聞いた一樹は、その娘がムカデ神と争っていた当時にA級下位の力は持っていたのだろうと想像した。
であればムカデ神を倒して、龍神達の力が1段階上がった現在は、A級中位の力を持っている。
――これだから妖怪の領域は、怖いんだよな。
A級中位であれば、キヨや赤牛と同等の力を持っている。
妖怪の領域には、そのような妖怪も、少なからず住む。
迂闊に踏み入ると、いくら命があっても、足りたものではない。
「香林お姉様は、赤堀道元の娘と呼ばれて、人の記録にも残っているんですよ」
「うむ。どこぞのポンコツ娘と比べて、100倍くらいは優秀な娘じゃな」
得意気に割り込んだ柚葉に向かって、龍神から厳しい指摘が飛んだ。
「うぐっ」
「ムカデを喰えば、50倍くらいに縮まろう。今日は喰っていけ」
「生憎と、お腹の調子が悪くて……」
柚葉がムカデを食べて力が増すのは、母親と同じ理屈に基づく。
2つに分かれた土地の力が、一つになるわけだ。一度もムカデを食べていない柚葉は、ムカデを食べれば力が倍加する。
蛇神が同格のムカデ神を喰らって昇神したように、同程度の力を持つムカデを食べる必要はあるだろう。
だが龍神と娘達は、たくさんのムカデを狩っている。
龍神の社には、柚葉用に封印して取り置きした冷凍ムカデが、沢山ある。
「なぜ嫌がるのじゃ」
「だって、顔が怖いし、たくさん足が生えているし」
「其方は、顔の善し悪しで食べると申すか。阿呆をぬかすな」
好き嫌いをするなという母龍と、涙目で嫌がる子龍。
言い負かされた柚葉は、一樹の服の裾に縋り付いた。これは『自分は身請けされたから、旦那様が許可しないと応じません』という最終手段だ。
呆れた龍神に視線で問われた一樹は、一緒に呆れつつ応えた。
「柚葉がムカデを喰らえば、力が倍になるのでございますよね」
「うむ。相違ない」
「であればC級中位の今よりも、もっと力が強くなった後のほうが、良いのではありませんか」
「一理あるな。まあ、よかろう」
一樹が柚葉に求めるのは、陰陽同好会の頭数だ。ムカデを食べさせたショックで不登校になられても困るので、問題を先送りした次第だ。
一樹と龍神との間で取り決めが成された瞬間、柚葉は安堵の表情を浮かべた。
次いで、得意気な笑みを浮かべる。
「ムカデは別として、修行の一つも、授けてやろうかの」
「龍神様の御思召通りに」
「…………はいっ!?」
大ポカをやらかした柚葉について、一樹は即座に見捨てる判断を下した。
「さて、本題に入るか。今日は、何用かの」
真っ青になった柚葉を尻目に、一樹は説明を始める。
「はい。蒼依の神域の件でございます」
人間は、身体を維持するために、食べ物を食べる。
それと同様に、妖怪が身体を維持するためには、気が必要だ。
山姥の孫でもある蒼依は、人を喰えば気を得られるが、人を襲って喰えば山姥化してしまう。
ほかにも気を得る方法はあって、現在は式神として一樹の気を得ている。
一樹が生きている間は、それで良い。
だが一樹が死ねば、蒼依は山姥化に一直線である。そして人間の一樹よりも、妖怪の蒼依のほうが長生きする。
「これまでは、私の寿命が尽きるまでに蒼依に神域を作らせて、地脈から気を得られるようにするつもりでした」
「うむ。練習しておるな」
「はい。龍神様のおかげを持ちまして」
本来は、A級下位から神域を作れる。
蒼依はB級上位だが、龍神に導かれて、小さな神域を作る練習を始めていた。
龍神に教えられてから僅か半年であるが、家と庭くらいの範囲であれば、蒼依も神域を作るようになってきた。
その範囲では地脈の力など得られないので、もっと修行が必要であるが。
「今は精進あるのみじゃが、何か急ぐ用事でも出来たのか」
「最近、荒ラ獅子魔王なる存在が現れまして、対策に追われています」
「ふむ、それで何じゃ」
「率直に申しまして、私が死んで、気を与えられなくなる危険がゼロではありません。その際、蒼依が山姥化しないように、自給自足できる程度に神域を作れるようにしたいと思いまして、ご相談に参りました」
「ほう」
龍神は一樹と蒼依を順に観察した。
一樹は当然の行動だと開き直っており、蒼依は一樹の行動に怒っている。
蒼依の怒りは、保険を掛ける行動の是非ではなく、「軽々しく死ぬと言うな」であるとか、「危険なら行くな」であるとかだ。
危険であれば、荒ラ獅子魔王を避ければ良い。
一樹も蒼依の立場であれば、そのように考えたかも知れない。
魔王から逃げると、世間から厳しい批判が出るのは明らかだ。だが花咲の殉職を例に挙げれば、安全策を採ることに批判は出ても、強要まではされないかもしれない。
だが一樹には、魂に染み込んだ莫大な穢れを祓わなければならない事情もある。荒ラ獅子魔王は、一樹が今世での目的を果たすのに適した相手だ。
その事情を説明できないので、一樹と蒼依との間には、すれ違いが起きている。
「魔王に限らず、陰陽師にはリスクが皆無ではありません。私は、家業が陰陽師でございます。陰陽師を辞める気はございませんので、保険を掛けたいのです」
行動で妥協できない一樹は、そのような言い分で押し切った。
「難儀なことじゃ」
不利でもムカデ神から逃げなかった龍神は、一樹の選択を否定はしなかった。
「然らば、手っ取り早く、神格を上げれば良い」
「と、申しますと?」
「そこな娘に、ムカデを食べさせるようなことをすれば良いのじゃ」
龍神の口から語られたのは、神話の補完であった。


























