129話 激闘・金山城
「馬鹿あぁーっ!」
金山城、物見台下虎口の先にある泥沼で、泥に塗れた愛奈の罵声が木霊した。
泥沼の中では、愛奈と同様に泥に塗れた分霊のシロが、嬉しそうに泥遊びをしている。
「バウバウッ」
「バウじゃなーいっ!」
怒った愛奈がシロを叱りながら、泥沼から這い上がろうと移動を始めた。
その後ろからシロが、嬉しそうに付いていく。
そんな2人の様子は、監視カメラを介して、ゴールで待機している春と一樹も観察していた。
「あらあら、何か言っているようですが、良く聞こえませんわ」
人間よりも遥かに優れた聴力を持つ狐耳をピクピクと動かしながら、春は嬉しそうに宣った。
春にとって花咲家の人間は、母親のお辰狐が手に負えなくて、良房らに後始末をさせなければならなくなった相手である。
人間の権威や理屈が通じない妖怪の世界では、力こそが上下関係を決する。
相手が一樹のように、三尾すら殺せる魔王を攻撃して無事に帰れる猛者ならば、春も母親が下位者だったと認めるしかない。
戦って負けた敗者であれば、勝者に命すら取られても仕方がない。
負けた母親を見逃す代わりに継承を手伝えと言われたならば、春も納得して受け入れただろう。
だが花咲家の一族は、強くてもD級の呪力までしか持たない。
犬神は従っているが、それは『花咲の呪力が高くて、陰陽術が優れている』からではなく、単なる『好意』である。
犬神にとって花咲一族は、愛玩の対象にも等しい。
『なぜ犬神のペットに、実力的に上の自分が付き合わされるのか。いっそのこと、殺してしまえば良いのではないか』
春の態度は、そのような不満を表出しているようにも見えた。
そのため一樹は立会人として、試験内容の確認を行う必要を感じた。
「あれは、紙を破って答えを見るなり、問題自体を無視するなりすれば良かったのですか」
「左様でございます。犬神と協力して干珠を取り返す場面でしょうに、なぜ敵方の罠に、正面から突撃するのでございましょう」
春の言い分に、一樹は陰陽師として納得した。
試験の開始前、春は、『途中、様々な障害や妨害がございますが、ご自身の力や犬神の分霊を使い、突破して下さい。そして、誰かが干珠に触れれば、試験は終了でございます』と明言した。
課題は「障害や妨害を突破して、干珠に触れろ」であり、問題を解けとは言っていない。
『意図的に誤解を招く出題ではないか』
そのように当事者は思うだろうが、これはA級の式神を受け継ぐ試練だ。
A級になった後には、百戦錬磨の大妖怪との殺し合いがある。
格下の妖怪に化かされているようでは、A級陰陽師など務まらない。
――犬神の継承には、必要な試練かもしれないな。
花咲の当主は、狐に化かされた手痛い経験を持つ者か、化かされない知能を持つ者となる。
妖狐に化かされた経験があれば、以降は慎重に立ち回るだろう。であれば、花咲家を没落に追い込むこともなくなる。
一樹と春がモニター越しに見守る中、狐に化かされた愛奈は、ようやく泥沼から這い上がった。
愛奈は怒っているが、あのように化かされては無理もない。
「ばかーっ!」
愛奈が上げた力強い罵声に、春が心底嬉しそうな笑みを溢した。
物見台下虎口の泥沼を抜けた愛奈は、その先にある堅壁へと向かった。
そこは石垣と狭い通路になっており、当然ながら愛奈は1ヵ所しかない通路を進んでいく。
一樹が目にしているモニターには、愛奈が進む通路の先が、上から映されていた。
『正方形の部屋が、縦5列、横5列に合計25室ある空間』
部屋の四方にはドアがあって、愛奈が入ってきた1方向は石垣で開かず、残りは殆ど泥沼で、1ヵ所のドアだけ先に進める道へと繋がっている。
愛奈が入り込んだのは、そんな空間だった。
愛奈からは、ドアが閉まっている先は見えない。
3ヵ所ある扉のうち正面を開くと、まったく同じ設計の部屋が続いていた。
「どういうこと?」
愛奈が困惑してシロを見返すも、シロは尻尾を振るだけで答えない。
代わりに部屋の奥のほうから、鬼の呻り声が聞こえてきた。
「グオオオオッ」
「ウォォォオッ」
少なくとも2体。
それも小鬼の甲高い鳴き声ではなく、中鬼のような野太い低音だった。
「嘘でしょ」
妖狐が管理している試験会場に、野生の中鬼が紛れ込んでいるはずがない。
そのため中鬼は、妖狐が用意したものだろうと、愛奈には予想が付いた。
野生の鬼は制御が効かないので、順当に考えれば式神化して、試験に使っているのだろう。
花咲一族の呪力はD級であるため、同じD級の中鬼であれば、犬神を使って突破できる。呪力がE級の愛奈も、1体であれば犬神を使って立ち向かえるかも知れない。
もっとも中鬼は、2体控えている様子だった。
「バウッ?」
「しーっ、静かに!」
人差し指を口元に立てた愛奈は、シロを静かにさせて考えた。
愛奈が持ち込んだ勾玉があれば、中鬼程度は苦もなく撃退できる。
だが予備を含めた2個は、小太郎を抑えるために助井と格田に渡していた。
そのおかげで先行できているが、3個目は持ち込めていなかった。突発的に決まった選定試験であったために、勾玉を調達するには日数が足りなかったのだ。
結局、行くしかないと判断した愛奈は、正面のドアを開いて先に進んだ。
ガチャッと、極小の音と共に開かれた2枚目のドアの先には、やはり同じ造りの部屋が広がっていた。
正面と左右、そして入ってきた後ろにドアがあって、ほかには何も無い。
生唾を飲み込んだ愛奈は、忍び足で、さらに正面のドアへと向かった。
真っ直ぐに進んだのは、すぐにでも出たいからだ。ゴールが日ノ池だと分かっている以上、前に進めば距離が縮まる。
「静かに行くよ」
「バウッ」
繋がる気を介しての意思疎通は、愛奈には出来ない。
小声で指示を出しながら、3枚目のドアを開いた。
すると正面には、金棒を担いだ赤鬼が立っていた。
目を見開いて驚く愛奈を見て、赤鬼が凄惨な笑みを浮かべる。
「キャアアアアアッ!?」
「グオオオッ」
愛奈は慌てて後ろに下がり、必死でドアを閉めた。
だが中鬼にも手はあって、力は圧倒的に強い。
ドアノブを引っ張られて、容易く開かれてしまった。
「キャアアア、キャアアア、キャアアアッ!」
「グオオオオッ! グオオオオッ! グオオオオッ!」
まるで愛奈の悲鳴に合わせるように、赤鬼は金棒を振り上げて、雄叫びを返した。
そのまま襲い掛かれば、愛奈に致命傷を与えられるはずの赤鬼は、明らかに遊んでいた。
それは赤鬼を使役している春の意志だろう。目的は受験者を殺害することではなく、選定することにある。
もっとも普通の人間にとっては、金棒を振り上げた中鬼が威嚇している時点で、恐怖しかない。
「シロちゃん、シロちゃん、シロちゃんっ」
「バウッ」
愛奈に呼ばれたシロは、愛奈の前に進み出て、赤鬼と睨み合った。
試験の特性上、分霊が突破できない鬼は、置いていない。
破顔して遊んでいた中鬼は、真顔に戻って、金棒を構えた。
「やっつけて!」
「グワアアアアアアッ」
指示された犬神が、瞬時に跳ね飛んだ。
大口を開けて鋭い牙を出した犬神は、赤鬼が金棒を振り抜く間もなく、咄嗟に掲げられた左腕に食らい付いた。
突撃した犬神の勢いは、赤鬼の身体を突き飛ばすに充分だった。
バイクに跳ねられた人間のように弾き飛ばされた赤鬼は、その場に押し倒された。
チーターが獲物のインパラを押し倒すかのように、犬神が赤鬼を押し倒して、食らい付いた左腕の肉を噛み千切る。
金棒を手放した赤鬼は、犬神の毛を掴んで、身体から引き離そうと引っ張った。
取っ組み合いながら、ゴロゴロと部屋を転がり回る犬神と赤鬼。
そして、どうすれば良いか分からずに狼狽える愛奈。
優勢なのは犬神のほうだが、それは1対1であればこそだ。
愛奈に増援は無いが、中鬼は2体いる。
――あれだけ騒げば、もう1体が来るのも必然だな。
モニター越しに上から見下ろす一樹は、刺叉を担いだ青鬼が、部屋に入っていく姿を見た。
そして愛奈の悲鳴が、部屋に木霊する。
『対抗手段が無いのであれば、逃げれば良い』
分霊が負けて倒されても、霊体の一部が残っていれば、復活させられる。
一樹であれば、幽霊巡視船、牛太郎、信君、水仙、鎌鼬3柱などは復活させられるので、敵に対する足止めに使っても構わない。
愛奈の場合、犬神の分霊は復活させられるのだから、置き去りにして進んでも良かった。
そんな陰陽師であれば判断できることが、愛奈には出来なかった。
「きゃー、放して、やだやだっ!」
呆気なく青鬼に捕まった愛奈は、襟首を掴まれて、吊し上げられた。
シロは焦るが、赤鬼と取っ組み合っているために駆け付けられない。
その間に青鬼は、愛奈を連れて部屋を出ていく。
通常であれば、鬼に捕まった人間は喰われるか、別の意味で喰われるかの末路となる。
2部屋を移動して犬神が見えなくなると、愛奈は虚空に向かって叫んだ。
「放して、助けて、一生のお願いーーっ」
口角を吊り上げて、凄味を帯びた笑みを見せた青鬼は、さらにドアを開いた。
そして一生のお願いを使った愛奈の要望通り、ドアの先へと愛奈を放り出した。
「いやああああっ!」
放り投げられた愛奈が、泥沼へと落ちていくかと思われた刹那。
白い影が飛び込んできて、愛奈の襟元を咥え、対岸まで跳躍した。
「シロちゃん!?」
それは愛奈に憑いている分霊よりも、やや小柄な分霊だった。
『奉鎮・鉄矛』
そして愛奈の背後では、愛奈を放り投げた青鬼の喉元に、矛先が突き立てられていた。
























