115話 死者の国
相模川は、山梨県から神奈川県へと流れる河川だ。
山梨県の山中湖が源流であり、山梨県では、石割山にある石割神社の神木『桂』の巨木に由来して、桂川と呼ばれる。
神奈川県に入ってからは、神奈川県の旧名・相模国に由来して、相模川と名前を変える。
そして神奈川県を東西で綺麗に分けながら、約109キロメートルを流れて、相模湾に注いでいく。
古くは鮎川と呼ばれており、その名の通りに6月から10月半ばまでは、鮎釣りが行われていた。
もっとも現在の相模川では、鮎釣りをする者など1人として居ない。
より正確には、相模川以西に避難レベル7が発令された8月14日以降、民間人が相模川に近付くことは出来なくなった。
8月中には脱出者の移動が活発だったが、その中に煙鬼が混ざっていて感染が広がったことで、現在は徹底した封鎖が行われている。財産を持ち出せなかった者も居るが、窃盗を防ぐためにも、私物を取りに行くことも認められていない。
東海道から京街道へと続く国道一号線、その神奈川県にある馬入橋。
そこに入る手前の道路で、一樹が乗車する車輌は右折を指示された。
「厳重ですね」
助手席で呟いた一樹に、運転手の男が軽く頷いた。
検問しているのは、避難命令が発令された地域に住んでいた警察官達だ。
300万人以上が住む地域に避難命令が発令されており、封鎖すべき範囲は広くて人手も要するが、発令範囲に住んでいた警察官を動員することで補われた。
故郷を封鎖せざるを得ない警察官は、とても平常心ではいられないだろう。彼らのうち2名が、誘導に従わずに直進してきた車輌に向かって、駆け寄ってくる。
そして運転席側の窓から、車内に呼び掛けた。
「神奈川県警です。この先は、進入禁止になっています」
馬入橋の手前で検問している警察官は、大雑把に見て数十人。
彼らの一部は自動小銃で武装しており、検問を強行突破する者は『警告無しで射殺しても良い』ことになっている。
それは避難命令の範囲内に発生した煙鬼が、感染者を広げていくゾンビのような存在だからだ。
ゾンビが出入りしようとしたら、撃つ以外に選択肢は無いだろう。完全にゾンビ化していなくとも、感染者を素通りさせれば後方でパンデミックが発生してしまう。
内部から出てくる者は、ほぼ確実に煙鬼か感染者。
また内部に入る者は、ほぼ確実に感染する。
煙鬼に銃は効かないが、完全に煙鬼化していない感染者には効果がある。相手が従わないのなら、撃つしかないのだ。
言外に「早く立ち去れ」と、雰囲気で圧を掛ける彼らに対して、運転手は3人分の通行許可証を提示した。
「我々は陰陽師です。私は静岡県のB級陰陽師で、同乗者もA級とB級です」
運転手に告げられた警察官達は、揃って顔を強張らせた。
避難命令の範囲内は、全面的に封鎖されているが、政府から許可を得た者は出入りできる。
出入りが想定されるのは、何らかの作戦に従事する自衛隊や警察の特殊部隊だ。全員に護符を所持させて、陰陽師の式神などに護衛させた上で、内部で作戦が行われる場合もある。
そのほかには、民間でも、B級以上の上級陰陽師には出入りが認められている。そして陰陽師に関しては、独自に行動することが認められている。
――陰陽師には、煙鬼を削らせなければならないからな。
御殿場市を中心とした半径60キロメートルほどの地域には、神奈川県の半分、山梨県全域、静岡県東部の広い範囲が含まれている。
それらを失ったままにするのは、日本にとって大打撃だ。
もっとも避難命令の範囲内には、煙鬼だけではなく、A級中位と評価される羅刹も出る。
羅刹という種族は、地上を速く走るが、空も飛べる。
そのため陰陽師が行う活動は、外部から式神だけを飛ばして煙鬼を倒すか、侵入しても近場で済ませるのが精々となる。
だが今回は、A級を含む3人が入る。
通常とは異なるパターンであり、警察官の1人が確認を取るべく、後方へと走っていった。
すると車輌を追い返せずに警察官が戻ってくる様子を見ていた周囲の警察官達が、何事なのかと十数名単位で向かってきた。
彼らは車を完全に取り囲むと、許可証を確認し、車輌の内部を目視で観察し、さらに言葉で確認も取ってきた。
「賀茂陰陽師ですか」
「はい、A級の賀茂一樹です」
中年警察官から、まじまじと観察された一樹は、不満げな表情を浮かべた。
警察官から疑いの目を向けられるのは、無実であっても、あまり気分の良いことではない。
それから10分ほど、確認作業が行われた。
運転手が免許証を提示して、静岡県のB級陰陽師・堀河康隆であることを示す。
車のナンバーから車輌の所有者を調べられて、神奈川県陰陽師協会のものであると確認される。警察から神奈川県陰陽師協会に電話確認が行われて、貸し出しの裏付けが取られる。
それら様々な確認を経て、通行を認められた車は、ようやく馬入橋を渡りはじめた。
排気ガスなどが一切発生していないためか、西の彼方には綺麗な富士山が見える。
「はぁ、面倒やな」
馬入橋を渡る中、後部座席に1人座っていたB級陰陽師の安倍晴也が、不満の声を訴えた。
彼は一樹の一歳年上で、A級中位と目される清姫の怨霊・キヨを従えている。
陰陽師としての力量で従えたのではなく、キヨと結婚して、平安時代の感性を持つキヨが夫の晴也に従うことで成り立つ関係だ。
もっともA級の怨霊を従えている事実には、何ら変わりないが。
その特異性に鑑みて、通常開催された常任理事会は、晴也を上級とされるB級に昇格させた。
A級に昇格させないのは、晴也の戦闘力が、本人に由来しないからだ。
それでも晴也は、A級に名を連ねられるだけの力を行使できる。
「何が面倒なのでしょうか」
晴也が1人で座っている後部座席から、女性の声が聞こえた。
世間では軽くホラーだが、陰陽師の一樹と堀河は気にしない。そもそも後部座席には、最初から2人分の呪力があった。
晴也の傍に居るのは、晴也に憑いているキヨだ。
2人の結婚は、行政機関に婚姻届こそ出していないが、キヨが納得できる儀式は済ませている。陰陽師協会が協力して、2人に祝言を挙げさせたのだ。
まずは、陰陽師協会の和歌山県支部をキヨの生家代わりに見立てて、晴也がキヨの下へ3日間通い、三日目の夜に餅を振る舞う『三日夜餅』を行った。
そしてキヨを生家で花嫁衣装に着替えさせて、黄昏時に花嫁道具と共に、協会員を随伴させた花嫁行列で晴也の下へ向かわせたのだ。
江戸時代、婚礼は陰陽道に則って、夕暮れから行われた。それは女性が、陰陽の陰だからだ。
――結婚の婚は、女に昏と書くからな。
2人の居住地は、京都府となる。
晴也は将来的に、京都府の統括陰陽師に就任する予定だ。
協会本部がある奈良県に隣接する京都に、キヨを使える晴也がいることは、協会にとって色々と都合が良い。
そのため2人が生活する家なども、協会本部が手配した。
そして協会長、副会長の宇賀、友人の一樹らが見守る中、『夫婦固めの盃』と呼ばれる三々九度の儀式が行われて、キヨは晴也の妻として祀られたのである。
それらの儀式は、複数のA級陰陽師が立ち会って、キヨの本心からの同意と共に行った。
いかにキヨが清姫の怨霊でA級の力を持っていようとも、晴也がヘマをしない限りは破れない。
以来、キヨは晴也と共に在る。
「ん、確認の手続きや。煙鬼を倒して欲しいのなら、サクサク通すべきやと思ってな」
晴也の主張に、一樹は共感した。
一樹達は正式に発行された許可証を提示しているが、確認作業はアナログの極みだった。
許可証と一緒にQRコードを発行して、現場で読み取らせるなど、短縮できる方法はある。
上級陰陽師の定数が72名であるため、72名の名簿を現場に渡しておいて、通行許可証と身分証を提出させる方法もあるだろう。
「毎日通れば、顔を覚えてもらえて、早くなるかもしれません」
「それが一番、早そうやな」
928年に没したアナログ式のキヨが解決策を提示したが、それが現代の検問で実用的な点が、悩ましいところだ。
馬入橋を抜けた車は、左右に並ぶマンションを抜けて、国道一号線沿いに平塚市内を走っていく。
途中で右手側に、天照大神と建御名方神を境内で同時に祀っている平塚八幡宮が見えて、一樹は口を結んだ。
古事記では、天照大神に派遣された建御雷神によって、建御名方神は殺され掛けている。
陰陽師協会のA級1位である諏訪は、そんな建御名方神の御魂を宿らせる現人神だ。
両神は数歩の距離で並んで祀られており、片方を参拝するとき、もう片方の社も見えてしまう。
――両神の相性、最悪なんだよなぁ。
陰陽師協会に属する一樹には、相性が最悪の二神を同じ境内で同時に祀るなという思いがある。
そんな協会にとっては理不尽な空間を抜けると、神奈川県中西部を流れる花水川が見えてきて、二つ目の橋を渡った先に人影が見えた。
注視すると、全身がやせ細っており、皮膚は青白く、視線は定まらず、手足も震えている。
一樹達の車を見つけた人影は、引き寄せられるようにフラフラと寄ってきた。
「この辺りから、魔王の勢力圏になっているのですね」
相模川の東側にある人々の居住地から、僅か3キロメートル。
その地はすでに、死者の国と化していた。
























