113話 天津鰐
天津鰐に喰われたのは、一樹の生き血で作った大鳩だ。
背後から襲われて、背中に乗られ、ワニの強靱な顎で首の後ろを食い千切られた。
大鳩は墜落に近い形で、一樹の下へと落ちてくる。
「一気に来るぞ!」
蒼依が天沼矛、沙羅が金剛杖を構える中、一樹の影から式神達が続々と顕現していく。
一樹が有する中で最強の幽霊巡視船は出せないが、それを補う術を一樹は持っている。一樹が取り出したのは、200枚もの式神符だった。
あらかじめ呪力を籠めて描いた霊符に言霊を乗せて、一樹は符呪を放つ。
『臨兵闘者皆陣列前行。天地間在りて、万物陰陽を形成す。生は死、有は無に帰すものなり。ならば死は生、無は有に流転するもまた理なり。この者、木より流転し無の陰なれど、我が陽気を与えて生に流転せしむ。然らば汝、陰陽の理に基づいて、我が式神と成れ。急急如律令』
日本で一般的な九字は、『臨兵闘者皆陣列在前』だ。
それは「臨む兵、闘う者、皆、陣列べて前に在り」であり、「前に並んで立て」と命じている。
術としては防衛の意味合いが強く、攻撃を命じていないので、攻撃にはまったく向いていない。この唱え方で攻撃する者達は、実のところ陰陽術を理解できていない。
攻撃に使うなら、日本の九字の元になった中国の仙道書『抱朴子』にある九字が正しい。
一樹が唱える『臨兵闘者皆陣列前行』は、「臨む兵、闘う者、皆、陣列べて前を行く」であり、式神達に突撃せよと命じている。
――守るのではなく、敵を討て。特攻して、相打ちになってでも殺せ。身など顧みるな。
正しい術に強烈な意志を籠められた鳩達は、次々と舞い上がり、一樹の前方を行く。そして空間を埋め尽くしながら、天津鰐に襲い掛かっていった。
それは地上から打ち上がる、莫大な呪力の迎撃ミサイルだった。
大鳩に致命傷を与えながら降下してきた天津鰐は、無数の鳩達に全身を打たれ、全方位に発生する呪力の衝撃で何度も吹き飛ばされた。
一樹がぶつけた呪力量は、A級中位分になる。
高天原の天津鰐は神力を持つ存在であろうから、A級中位の神力をぶつけたところで妖力を削ったりする効果は無い。
だが五行の術として生み出された爆炎は、呪力の分だけ天津鰐の全身を打ち据えた。
「グォオオオオオオオオッ」
大型の爬虫類が、咽を鳴らして威嚇するような、重低音が剣尾山に響き渡った。
そして上空からは、鷹からワニに変じた天津鰐が降ってきた。その身体は、8メートルの牛鬼よりもさらに大きい。
牛鬼を人間の大きさとするならば、天津鰐は3メートルくらいのワニに見えた。
八丈(24メートル)と記されるトヨタマヒメほどではないにせよ、六丈(18メートル)ほどはありそうだった。
「牛太郎、棍棒で打て!」
落下してくる巨大なワニに向かって、牛鬼が駆けていく。
木のような太さの棍棒が両手で振りかぶられて、落ちてきたワニの身体を打ち据えた。
それは大岩をハンマーで殴るような、どちらも傷付く攻撃だった。天津鰐の鱗と牛鬼の棍棒が、どちらも一部欠けて、互いの身体と腕を痛めつけた。
だが攻撃していたのは、牛鬼だけではなかった。
「ぬぇぇぇいっ!」
天津鰐が落下した瞬間を狙った信君の刀が、左の後肢を骨が見えるほどに断つ。
返す刀が傷口に再び滑り込んで、今度は骨を断った。そこから刀を押し進めて、残った肉を断っていく。
天津鰐は身体を回転させて逃れたが、左後肢だけは身体の動きに付いていかず、回転に合わせて千切れ飛んでいった。
「よしっ!」
一樹は思わず声を上げて、喝采を叫んだ。
巨大な天津鰐に対して、信君の身体はあまりに小さい。大量の鳩の攻撃で傷付いていたにせよ、巨大な足の1本を奪えたのは快挙だった。
山肌の上を回転する天津鰐に向かって、蒼依の矛と沙羅の鬼火が飛んでいく。
矛は強靱なワニの鱗に突き立てられ、鬼火も鳩が傷つけた傷口に命中したものは、ダメージを与えているように見えた。
水仙は尻尾の側に回り込んで、妖糸を木々と結び付けながら、天津鰐の動きを抑え込んでいく。
「蒼依、沙羅、絶対に接近戦はするな。沙羅は上空にも行くな。アイツは飛べる」
「はい、主様」
「分かりました。注意します」
2人に告げた一樹は、自らが天津鰐から離れ始めた。
天津鰐の姿は、イリエワニに似通っていた。
イリエワニは、ワニの中でも最大級の大きさで、性格は獰猛、人間を含む様々な動物を襲うことでも知られる。顎の力は強靱で、ウミガメの甲羅を噛み砕く姿も動画に撮られている。
霊体の式神は一樹が復活させられるが、生身の蒼依や沙羅は死んでしまう。八咫烏達も同様で、一樹は八咫烏達にも下がれと念じた。
退避する一樹の動きを察知した天津鰐は、頭を一樹のほうに向けて、追う素振りを見せた。
それを阻もうと牛鬼が前に出た瞬間、天津鰐が向き直り、牛鬼へ飛び掛かった。開いた大顎から生えた鋭い牙が、牛鬼の左足の太ももに食らい付く。
「ああっ!?」
沙羅が短い悲鳴を上げたのは、左足を切断した過去がフラッシュバックしたからか。
目を見開いた沙羅の視線の先では、牛鬼の左足に食らい付いた天津鰐が身体を回転させて、牛鬼を引き倒して左足を引き千切った。
それはワニが獲物に噛み付いて、噛んだままに身体を回転させて、部位を食い千切るデスロールと呼ばれる技だ。水中であれば大量出血も重なって、獲物は瞬く間に命を落とすだろう。
水仙が繋いでいた糸の先にある木々も引き倒されて、周囲には土埃が舞い上がっていく。
左足を噛み千切られた牛鬼は、座り込みながらも棍棒を掴む。
そして回転が終わって至近にいる天津鰐の左目に、棍棒の先端を突き入れた。
「グォオオオオオッ」
左目を潰された天津鰐は、天に向かって咆吼した。
それは「己が何故このような目に遭っているのか」と、理不尽さを訴えているかのようだった。
もちろん一樹は、「因果応報だ」という答えを持ち合わせている。
高天原から剣尾山に降り立った天津鰐は、そこで人間を喰っている。10人が山に入れば、5人は帰ってこなかった。
人を喰っているのだから、人に調伏されるのは因果応報だ。
事実として一樹は、金文の霊鳥や白鷹山の白鷹は、殺めていない。
天津鰐が一樹に攻撃されているのは、それが生きるためであろうとも、これまで人を喰ってきたからである。
「「「キュイキュイ」」」
牛鬼が天津鰐の頭部を受け持つ間、つむじ風に乗った鎌鼬3柱は、天津鰐の右肢を攻撃していた。
左肢を失い、重い胴体の後部を片足で支えていた右肢に、兄神の棍棒が叩き付けられる。
B級中位という力は、万全の天津鰐にとっては倒れるほどではなかった。だが今は片足となっており、左目に牛鬼から棍棒を突き入れられて、身体のバランスが悪かった。
体勢を崩された天津鰐は、追い打ちで弟神から、鋭い鎌の攻撃を受ける。それは鳩の式神によって鱗を剥がされた部分に突き立てられて、皮膚を裂いて肉を斬っていった。
『神治は駄目だぞ』
『キュイッ!』
一樹が意志を伝えると、ふくれっ面になったイタチの顔が、イメージとして送り返されていた。
妹神は渋々と天津鰐の右肢に生えた指を掴み、それを引っ張って弟神が裂いた皮膚の傷口を広げていく。
信君のように骨は断てていないが、骨が見える程には右肢の傷も開いていた。そして鎌鼬3柱が纏わり付いており、足の傷は拡大していく。
四足歩行のワニが、陸上で後肢2本を失えば、移動力は半減する。
前肢2本が残っていれば、這って進めるだろう。だが素早い動きはできなくなるので、戦闘力は激減する。
牛鬼のほうは、目から突き入れた棍棒で頭を抑え、天津鰐の頭部の動きを封じ込んでいた。
そして残り一手は、先に天津鰐の左肢を斬り落とした信君が、加えようとしていた。
「ぬおおおおっ!」
信君は、牛鬼の左足を喰い千切られている間は接近を避け、牛鬼が左目を潰したのを見てから再接近していた。信君が狙ったのは、天津鰐に残る右目である。
両目を失えば、視力に頼った戦闘ができなくなる。
これまで視力に頼って戦っていた場合、急に臭いや音、呪力で見切る戦い方に切り替えることは、出来るだろうか。
出来ると思うのならば、両目を瞑って試してみれば良い。
等級が1つ下の相手にすら、勝つのは難しくなると分かるはずだ。
信君の攻撃は、まさに決定打となる一撃だった。
そんな状況を理解した天津鰐は、戦闘の継続を断念して鷹に変じ、大空に舞い上がって逃れようとした。
だが鷹に変じた尾羽には、ワニの姿の時に絡められた水仙の妖糸が繋がれていた。その妖糸に引き摺られて、天津鰐は地上に滑空させられた。
駆けていた信君は、それらの状況をつぶさに見て取った。
そして瞬時に判断すると、滑空してきた鷹の首筋に、狙い澄ました一撃を叩き込んだ。
























