112話 鰐(和邇)【&1巻予約開始のご報告】
「今回が11種類目で、最後の風切羽集めになる」
9月最初の土曜日。
蒼依、沙羅、そして八咫烏達を連れた一樹は、大阪府能勢町にある剣尾山に赴いた。
剣尾山は、標高784メートル。大阪府の北西にあって、北側の山裾は、京都府に属する亀岡市に接している。
妖怪の領域であるために、車で移動できる場所から先は、徒歩での登山だ。
もっとも八咫烏達が鬼の露払いをしてくれるために、警戒などは不要だが。
「意外に早く集まったな」
獅子鬼の出現が8月9日で、風切羽の収集は8月15日に始動している。
11種類中5種類は八咫烏達の羽根を使えたが、残る6種類は探し集めた。
「夏休みで、良かったですね」
「確かに、それは大きかったかもしれない」
蒼依が時期について指摘すると、一樹も大いに賛同した。
羽団扇を作成するための風切羽集めは、期間が1年以内と伝えられていた。それは風切羽に篭もる呪力が抜ける前に、集め切らなければならないからだ。
始動が2学期の開始以降だった場合、一樹は平日に情報を集めて、土日に収集を試みただろう。
1週間に1種類として、6種類であれば6週間。
ただし二学期には、定期テストのほかに、文化祭や体育祭もある。確実に6週間では済まされず、もしかすると冬休みにまで長引いたかも知れない。
それくらい時間を掛けても、タイムリミットまでには充分な余裕があったのだ。
避難発令範囲の人々が知れば、「自分達が困っているのだから、早く何とかしろ」と、優先順位の付け方に異議を唱えるかも知れない。
おそらく一定数は、確実にクレームを付けるだろう。
だが妖怪被害は有史以前からあって、獅子鬼の出現も一樹の責任ではない。
陰陽師協会は民間組織であるし、陰陽師であった一樹の父も生活が苦しく、人々から支援も受けていなかった。
自分達は支援など一切していなかったくせに、自分達が困ったときだけは助けろと言われても、付き合う義理はない。そして一樹自身も、高校を退学になったところで助けてくれない人々のために、自己犠牲を受け入れる気は無い。
風切羽集めが最速で進んだのは、単に時期が良かったからだ。
実際には収集のために、学校は数日休んだが、その件について一樹は自己分析しなかった。
「今回こそは八咫烏達に妖怪の肉を食べさせて、強化したいところだが」
「生血鳥のときは、食べさせなかったのですか」
一樹が話題を変えると、沙羅が首を傾げた。
9種類目の生血鳥探しは、2学期の平日だったため、蒼依と沙羅は同行していない。
結果については伝え聞くだけで、C級の妖怪を捕まえて押さえ付け、一樹の血を吸わせて首を刎ねたと聞いただけだ。
極めて簡単な作業であり、肉を八咫烏達に与える余裕がなかったとは考えられない。
「俺の血の味を覚えさせるのは、どうかと思ってな」
「そうだったのですか」
咄嗟の言い訳に、沙羅は納得した様子だった。
それから暫くは、無言での登山が続いた。
山姥の孫である蒼依や、天狗の子孫である沙羅は、山道など苦にならない。一樹は自身のペースで山道を歩きながら、ふと伝え忘れていた大前提を2人に話すことにした。
今回の天津鰐について、正体は半水棲の爬虫類であるワニである点についてだ。
「伝え忘れていたけれど、天津鰐のワニは、半水棲の爬虫類だ」
「爬虫類ではないワニなんて、居るのですか」
蒼依からは、極めて常識的な質問が返される。
予想された質問に対して、一樹は納得と共に頷き返して応えた。
「古事記や日本書紀に記される鰐(古事記では和邇)について、日本にはワニが生息していないから、サメだと主張する人も居るんだ」
サメだと主張したのは江戸時代の考古学者で、明治時代の歴史学者がサメだと追従し、現代まで権威への追従の連鎖が続いている。
だが、日本に生息していないから間違いだという説は、まったく成り立たない。
平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄』の十巻本には、次の記載がある。
巻第八
鰐 麻果切韵云鰐〈音萼和迩〉似鱉有四足喙長三尺甚利齒虎及大鹿渡水鰐撃之皆中斷
訳
鰐 麻果切韻(中国にあった隋という王朝の陸法言が、601年に記した実用書)に記される鰐〈和邇〉は、鱉に似て四つ足が有り、クチバシの長さは三尺(約90センチメートル)、甚だ利き歯を持ち、虎や大鹿が水を渡るときに鰐はこれを襲い、皆、中ばに断たれると伝えられる。
和名類聚抄では、同じく日本には生息していない虎についても、特徴を正確に表わしている。その上で、出典は中国だとも明記している。
そのため日本に生息していない半水棲生物のワニであろうとも、中国から伝えられて書けたのだと分かる。そもそも書物に記した鰐という漢字自体が、中国から伝わっている。
したがって『ワニは日本に存在しないから、書物に記載されている鰐は、海を泳ぐサメだ』という主張は、根本的に間違いである。
「古事記では、イザナギとイザナミの息子である海神の娘・トヨタマヒメが子供を生んだ際、ワニの姿になって、腹ばいになって手足で這い、身体をくねらせたと書いてある」
古事記(原文)
化八尋和邇而、匍匐委蛇。
訳
八丈もある長い鰐になって、四つん這いになり、身体をくねらせた。
「ワニには四肢が有るが、サメには無い。サメは、匍匐が出来ない」
そんなトヨタマヒメが生んだ子供は、神武天皇の父だ。
なお『稲羽の素兎』でもワニが登場するが、仏教発祥の地であるインドや東南アジアには動物譚の類話があって、そこから伝えられたものだ。
インドや東南アジアで伝えられるワニとは、紛れもなく水棲生物のワニである。
種類はイリエワニで、海水への耐性が強く、淡水と海水が入り混じった汽水域でも生活できて、沖合でも泳げる。
インドやインドネシア、オーストラリア北部まで広範囲のアジアに生息しており、日本でも、奄美大島、西表島、八丈島などで発見例がある。
「したがって、書物に記されている鰐は、半水棲生物のワニだ。だから今回調伏する天津鰐は、サメじゃなくてワニになる」
実際に調伏する側としては、どちらの姿であるのかは、極めて重要だ。
山で正体を現わした場合、ワニならば大地を歩いて襲ってくるが、サメならば歩けず、ビッタンビッタンと山肌を飛び跳ねる。
そしてサメであった場合、しばらく放置すれば、勝手に自滅するだろう。
「ワニだと、陸でも強そうですね。大きさは、どれくらいになるのでしょうか」
「トヨタマヒメは、尻尾まで含めて八丈(約24メートル)だけど、そちらは海神の娘だった。高天原に住むだけのワニなら、小さいだろうな」
ワニの場合、そこまで楽ではないにせよ、濁った川で戦うよりは遙かにマシだ。
濁った川であれば、ワニの姿が見えず、攻撃しても水で威力が落ちるために効果に乏しい。
東アフリカのブルンジ共和国では、妖怪ではないナイルワニの個体である『ギュスターヴ』が、300人以上もの人間を食い殺した記録がある。機関銃で撃っても鱗で弾き、数年後も元気に水牛を補食していたと伝えられる。
普通のワニですら手に負えないのだから、妖怪のワニが川に居れば、まったく手に負えない。
だが陸地であれば姿が露わで、水中移動に向いた身体は陸では重く、ほかの四足歩行の陸上生物ほどには足も速くない。
だからこそ一樹は、山でワニと戦うならばと赴いた。
「……来たぞ」
八咫烏達の護衛に飛ばしていた鳩が失われて、一樹は天津鰐の襲来を知覚した。
★本作の発売日が、5月10日(水)に決定しました。
書籍版は、プロローグ時点から変わっており、
書籍版だけの人物、式神、妖怪、技など、様々に出ます。
書籍特典のSSも、楽しんで頂けるように工夫しました。
1 妹編 (共通) 『借屍還魂』
2 蒼依編(共通) 『相川家の食材調達』
3 式神編(電子書籍) 『賀茂の系譜』
4 料理編(TOブックスオンラインストア) 『旬の食材を求めて』
どこで購入しても、『1+2』が本体に付いており、
電子書籍の場合は、『1+2+3』が付いており、
TOブックスオンラインストアでは『1+2+4』が付きます。
妹編、式神編、料理編はシリーズで、2巻以降も続いていきます。
コミカライズ企画も進んでおり、今年中に連載開始予定です。
ご予約、よろしくお願いします!(下の画像から、リンクで飛べます↓)
 
























