101話 白鷹山の白鷹
白鷹が最初に目撃されたのは、天平2年(730年)まで遡る。
仏僧にして、日本で始めて最高位の大僧正ともなった行基が、諸国教化の旅で山形県を訪れた時のことである。
麓の里から山上を眺めると、一羽の白鷹が何度も空を往来するのが見えた。
やがて空には五彩の雲がたなびき、空中に虚空蔵菩薩の姿が現われた。
これこそ霊場だと確信した行基は、草を切り払い、山上に登り、菩薩の尊像を刻んで祀った。
こうして名も無き山は、白鷹山と呼ばれるようになった。
そんな白鷹山がある山形県西置賜郡白鷹町は、金文の霊鳥が出た鳥海山から、およそ160キロメートルの距離にある。
次の目的地を白鷹町に定めた一樹は、そちらにも結月に送ってもらった。
帰りには山形駅まで送ってもらい、そこから奈良県の宇賀に、直接風切羽を届ける予定である。
「県外まで送って頂き、ありがとうございました。」
「別に良いのよ。今後ともよろしく」
車から降りた一樹は、蒼依達と共に結月へ一礼した後、まずは八咫烏達を解き放った。
「この先にいる鬼達を倒してきてくれ」
「「「「「クワッ!」」」」」
白鷹山の上空に、五彩の雲ならぬ五行の神鳥が飛び立っていった。
いずれもB級下位の力を持っており、この先に大鬼が居たとしても、5羽ならば倒せる。
鬼の中には鉄鼠のように、いくら倒しても復活する存在も居るが、それでも消耗した力を回復するためには時間を要するだろう。
八咫烏達を見送った一樹は、不意に獅子鬼を思い浮かべた。
「そういえば荒ラ獅子魔王って、どうなったんだろうな」
荒ラ獅子魔王と推定される獅子鬼は、宇賀に薬液を浴びせられ、良房に右腕を噛み裂かれた。
薬液はフルオロアンチモン酸という化学物質で、硫酸の1000倍の強さを持つ超強酸と比べて1京倍という強さを持っているのだと、一樹は宇賀から聞かされた。
誰かが人魚の肉を獲るために宇賀を襲ったならば、凶悪な反撃によって、周辺が特別災難地域に指定されることは必至だ。
人魚の儚く、か弱いのだという一樹のイメージを完膚なきまでに叩き壊した宇賀の攻撃により、魔王は撤退に追い込まれている。
「人間の反撃が、想像以上に大きかったので、立て直しのために撤退したのだと思います」
互いに見合った蒼依と沙羅のうち、沙羅が一樹の疑問に所見を述べた。
「まあ、そうだろうな」
顎に手を当てた一樹は、山を登りながら思考する。
化学物質を浴びせたのは宇賀だが、それを作り出したのは人間だ。
呪力で肉体を強化できる妖怪や人間でも、超強酸の1京倍もの強さを持つ化学物質を浴びせられれば、耐えようがない。
復活が100年早ければ存在しなかった脅威によって、獅子鬼は思わぬ痛手を負った。
肉体を有する獅子鬼は、有機物全般を溶かせる液体を浴びせられて、皮膚を溶かされたはずだ。骨まで達していれば、もちろん骨も溶けている。
そんな経験をしていれば、何の対策もせずに再び現われることはないかもしれない。
「なるべく痛手を負ってくれていると、助かるんだけどな」
可能であれば、重傷を負っていて欲しい。
そして一樹がトドメを刺したならば、魂に染み込んだ穢れも大いに祓えるだろう。
「自衛隊がミサイルではなく、ドローンで薬品を掛けるのは、駄目なのでしょうか」
蒼依の提案は、至極当然のものだ。
傷を負わされるよりも、溶かされるほうが治りは遅い。
それどころか、治らないかもしれない。
「そういう殺し方をすると、普通は恨みが深くなって、強い怨霊が出るんだ」
「駄目なのですか」
「いや、殺したほうが良いな。肉体があると寝るだけでも回復するが、霊体が力を消費すると、回復まで物凄く時間が掛かる。村上海賊みたいなものだ」
一樹が思い浮かべた村上海賊船団は、瀬戸内海の怨念を集めて力にする怨霊だ。
大船団を形成するために必要な呪力は、S級下位に近かった。比叡山を占拠していた鉄鼠に換算すれば、40体以上に匹敵する。
それを何度も散らされれば、流石に復活も容易ではない。完全復活するためには、陰陽師が誰も調伏せずに、数百年単位が必要だと見なされている。
それと同様に、獅子鬼も霊体になれば、回復には周辺の怨念を集めなければならなくなる。
もちろん政府や陰陽師協会は、獅子鬼の怨霊を放置しないので、攻撃を受け続ける獅子鬼は、回復よりも損傷が多くなり、やがて消滅に至る。
「ますます出て来なくなるかもしれないが、別に困ることではないか」
一樹は化学兵器を用いた攻撃について、宇賀への提案を検討した。
やがてレールの無いジェットコースターに乗せられた鬼達の絶叫が響き渡り、進路上の障害物が取り除かれていった。
◇◇◇◇◇◇
白鷹山の山頂には、虚空蔵尊神社という、小さな社が作られている。
社は妖怪の領域にありながらも、鬼達に壊されることなく、不思議と保ち続けている。
そんな社の中、神がいる本殿にて、白鷹は一樹を待っていたかのように鎮座していた。
鷹との距離は、わずか10メートルほど。
だが一樹と白鷹との間には、下界と神域とを分け隔てる、不可視の境界があった。
軽々しく踏み入れない神域を前に、一樹は蒼依と沙羅を待機させることにした。
「神気が一番多い俺が入る。2人は待機していてくれ」
単に量があれば良いわけではなく、虚空蔵菩薩に関係する神気が必要だ。
すなわち対として合祀されたこともあった地蔵菩薩の神気である。
――そういえば沙羅は、地蔵菩薩の神気も持っていたかな。
沙羅の手足を治した際、一樹は自身から、地蔵菩薩の神気を削り取って与えている。
そのことを不意に思い出した一樹は、蒼依に対する説明が非常にややこしくなるため、沙羅を待機させる意志を強く持った。
蒼依も一樹の気を得ており、通れる可能性もある。だが通行できなかった時に言い訳が出来ないので、一樹は試みたりはしなかった。
そもそも目的は風切羽であるため、用件さえ済ませれば再訪問の必要もない。
前に踏み出した一樹は、神域を隔てる境界線を踏み越えていった。
境界線を超えた刹那、一樹の肌に清浄な空気が吹き付けてきた。
背筋をゾクゾクと震わせた一樹は、神社が鬼に破壊されない理由を肌身に染みて理解する。
もしも鬼が踏み込めば、陸に打ち上げられた魚のように、たちまちのうちに妖気を削り取られるだろう。
――それほど立派な神域なら、ついでに穢れでも祓ってくれ。
それが出来るのであれば、地蔵菩薩が行っているはずだ。
無理難題を念じた一樹は、神域の中から、虚空を見上げた。
透明な硝子張りの壁のような何かで隔てられた視界の先に、青く澄み切った空が広がり、白い雲が漂っていた。
それを見た一樹は、何ら根拠もなく直感で、虚空蔵菩薩の存在を知覚した。
果てしなく広がる空に、虚空蔵菩薩は溶け込んでいると確信する。
そんな虚空蔵菩薩に向かって、一樹は風切羽を求めた。
――地蔵菩薩の過ちにより、大焦熱地獄に墜ちた者です。現世で魂の穢れを浄化するに際し、毘沙門天が倒し損ねた魔王に立ち塞がれております。お力添えとして、白鷹の風切羽を2枚賜りたい。薬師如来から頂いた風切羽の半分の力で構いません。
出だしで「相方がやらかした」と強調した一樹は、求める風切羽のイメージを思い浮かべる。
羽団扇は、素材に使った鳥の力を引き出せる。
薬師如来には、医薬に関する利益を願った。
そして虚空蔵菩薩は、頭脳明晰、記憶力増進、成績向上、技芸上達、厄除け、方位除け、開運などの利益を持っている。一樹は白鷹の力をA級中位と望んだ上で、医薬の力を引き出せるような知識、知恵、技芸を願った。
すると一樹の脳内に、虚空から声が届いた。
『地蔵菩薩の神気は持っておろう。何故、医薬の利益を求めるか』
驚きに目を見開いた一樹は、直ぐに内心で返答を思い浮かべる。
『1人では勝てぬ故。阿弥陀如来が貪多利魔王を征伐する際も、神仏を率いました。医薬の力は、仲間を治癒するために使いたく』
そのように念じた一樹は、不動明王が倒し損ねた荒ラ獅子魔王によって、脊椎を損傷して引退に追い込まれた義一郎を想像した。
そして妖毒で気の廻りを阻害されて引退した、春日家の2人も連想した。
現代の医療技術では治せないが、薬師如来の薬と虚空蔵菩薩の知恵を用いて神経を治せば、復帰できるかもしれない。むしろ復帰できる力を望む。
かつて不動明王は、仏陀の命によってシヴァを踏み潰し、蘇生させた。
地蔵菩薩も死者を生き返らせた逸話があり、菩薩や明王であれば、死者の蘇生すらも叶う。
であれば死者蘇生よりも遥かに難易度の低い脊椎損傷や気の循環阻害など、薬師如来と虚空蔵菩薩にとっては造作もないだろう。
そして義一郎が負傷したのは、阿弥陀如来が率いた神仏が倒し損ねた魔王であり、そのせいで一樹がとても困っているのだと念を押す。
魂に染み込んだ穢れの浄化が出来ない場合、それが一樹の落ち度であれば言い訳も立つが、現世における神仏の手落ちであれば目も当てられない。
そこまでイメージした一樹に対して、虚空蔵菩薩は悟ったように告げた。
『汝の願いを聞き届けよう』
思わずガッツポーズをし掛けた一樹は、無意識の動作を抑え込んで、白鷹に向き直った。
すると白鷹は、両翼を広げながら、強い白光を放ち始める。
風切羽を渡してくれるのだと理解した一樹は、両掌を空に向けて差し出した。
それに応じて白鷹が翼をはためかせると、翼から2枚の風切羽が抜けて、一樹の掌の上に飛んできた。
白く輝く風切羽を一樹が受け取ると、白鷹は次第に薄らぎ、溶けるように消えていった。
























