99話 金文の霊鳥
「居ないな」
鳥海湖の湖畔に辿り着いた一樹は、周囲を見渡しながら呟いた。
かつて薬師如来と日光・月光菩薩を運んだ大鳥は、鳥海湖に沈んだ。
そして『鳥海山和讃縁起』(1817年)によれば、鳥海湖の畔に、クジャクのような姿で、翼に金文のある霊鳥が姿を見せる。
それが今回の一樹が探している怪鳥である。
「どうしましょうか」
蒼依に問われた一樹は、鳥海湖の周囲を見渡した。
晴れ渡った8月の正午。
山肌には草花の絨毯が敷かれており、湖面は蒼い空と浮かぶ雲を綺麗に映している。
鳥海湖は、標高1575メートルの位置に古くから存在する火口湖だ。
長径274メートル、短径164メートル、最大深度4.7メートルで、野球場3つ分よりも広い。そして、山の火口湖であるにも係わらず、なぜか魚も泳いでいる。
光を反射してキラキラと輝く湖面を注視した一樹は、鳥海湖から神気を感じ取った。
一樹が知る神気は、地獄墜ちの経験を踏まえた仏、竜神、陰陽師協会の御方とA級1位の諏訪。
そのうち仏の系統を感じ取っており、鳥海湖には文献通り、薬師如来と日光・月光菩薩に繋がる霊鳥がいるのだと察した。
「神気は有る。喚び掛けてみるから、集中させてくれ」
「それでは離れて待機していますね」
蒼依と沙羅が離れていく中、一樹は湖畔の周りを廻ると、地面に足で呪術図形・セーマンの溝を掘った。
五芒星である星形図形のセーマンは、星辰信仰と五行思想を表わすものであり、魔除けや災厄除けに用いられることが多い。
そのため薬師如来を喚び出すには不適当と思われるかもしれないが、修験道におけるセーマンは、五色の光『バン、ウン、タラク、キリク、アク』の金剛界五如来の種字を唱えて使用される。
金剛界五如来とは、五智如来、五大如来、金剛界五仏とも呼ばれる。
バン=大日如来の種字。
ウン=阿閦如来(薬師如来)の種字。
タラク=宝生如来の種字。
キリク=無量寿如来(阿弥陀如来)の種字。
アク=不空成就如来(釈迦如来)の種字。
すなわちセーマンは、これから喚び出す薬師如来に、直接呼び掛けている。
しかも地獄の裁判に関わる十王のうち、二七日の釈迦如来と、三年目の阿弥陀如来も名を連ね、無関係な大日如来と宝生如来も入っている。
はたして東方世界で説法を行うという薬師如来は、他の四尊が見守る中で、一樹の喚び掛けを無視できるだろうか。
出来るわけがないのである。
五芒星の中央に立った一樹は、阿閦如来を指す「ウン」をとりわけ強く発語しながら、鳥海湖に向かって呼び掛けた。
「バン、ウン、タラク、キリク、アク」
一樹が呼び掛けると、天候は晴れであるにも拘わらず、湖面に濃い霧が発生した。凝縮された神気が、湖面から滾々と湧き出してくる。
湧き出して、足元を覆った神気の霧に、一樹は思わず鳥肌が立つ。
五感のうち、視覚以上に触覚が、これが尋常の気ではないと訴えてきたのだ。
そして湖の中央では、光が届かないほどに濃い緑色の光が、深海のように重厚感を漂わせながらゆっくりと揺らめいている。
緑色は、五光のうち阿閦如来(薬師如来)の色だ。
畏れの感覚に耐えながら、一樹は阿閦如来の真言を唱えた。
「オン・アキシュビヤ・ウン」
呼び掛けられた湖の緑光が、さらに濃く深まった。
この場に阿閦如来が在る、と確信した一樹は、心の中で状況と要求を訴えた。
――かつて、阿弥陀如来が神仏を率いて誅した魔王の一体が復活した。冤罪で浴びた穢れを浄化したいが、魔王に脅かされている。薬師如来の力を籠めた金文の霊鳥の風切羽を2枚、賜りたい。
一樹は、天狗の羽団扇を作るために、風切羽を使うことを強く念じた。
・天狗の羽団扇を作るには、風切羽が11枚必要であること。
・五行のバランスが乱れると、十全に力を発揮できないこと。
・八咫烏達の風切羽では、B級中位程度にしかならないこと。
そのような状況であるため、『力が強くて、五行の循環も滞らないようにする風切羽が2枚欲しい』と、一樹は明確にイメージしながら訴えた。
どの程度であれば、一樹の力になるのか。
最も落ち度の大きな閻魔大王から得たのはS級下位であったから、それ以上は求められない。
だが素材として得られる風切羽は、羽団扇にすると5%の力にしかならない。そのためA級上位の素材であろうとも、羽団扇にすればB級中位の加算でしかない。
B級中位の加算では、一樹の安全に大きくは寄与しない。
その代わりに羽団扇は、素材にした妖怪や天狗の力を引き出せるようになる。薬師如来が持つ医薬の力、薬壺にある霊妙の効果を使えるようにしてもらえれば、一樹に寄与できるだろう。
それらをイメージした一樹は、最後に地獄を思い浮かべた。
天上に向かって亡者が悲鳴を上げて訴えたところで、天が救済することはなかった。それこそが、地獄と亡者の在るべき姿だったからだ。
――それでは、冤罪で墜ちた者は?
冤罪で墜ちた者にとって、地獄は在るべき姿ではなかった。
薬師如来は、十二の誓願を行い、現世で苦しみを取り除き、安泰を司る仏だ。そして一樹は、阿弥陀如来の結審を経て地獄で苦しみを負い、それを現世に引き継いでいる。
ならば地獄の裁判に関わる十王の一尊にして、自らの誓願とは正反対の苦しみを与えた阿弥陀如来は、一樹が受けた苦しみを完全に救済しなければならない。
そして救済してすら、差し引きはマイナスからゼロにしかならない。
セーマンに関わる他の四尊が、おそらく見守っているであろう中。
湖の中央に浮かんでいた緑の濃い霧から、クジャクの姿で、翼に金文のある霊鳥が現われた。
金文の霊鳥は、地面のように湖上を踏みしめながら、ゆっくりと一樹に近付いてくる。その動きは、湖面を波立たせず、霧も乱さず、あたかも現世に存在しないかのようだった。
無表情に迫った霊鳥は、やがて一樹の眼前に辿り着くと、羽根を左右に揺らした。
それに応じて一樹は、両手を前に出して、両掌を上に向ける。
すると、霊鳥の羽根から抜けた2枚の風切羽が、一樹の掌へ静かに乗った。
◇◇◇◇◇◇
霧が晴れると、事態を見守っていた蒼依と沙羅が一樹の下へ慎重に歩み寄ってきた。
一樹は「薬師如来に呼び掛けてみる」と、事前に蒼依達へ伝えていた。
一樹が行う理由は、龍神から得た龍気が最も大きいからだとしている。
そのため鳥海湖で発生した事象は、事前に告知した行動の結果が大きかっただけであり、蒼依達にとっては理解不能な事態ではない。
もちろん、単純に受け入れられるほど軽い事象ではない。
2人は疑問を抱いたかもしれないとは、一樹も認識するところである。
だが蒼依と沙羅は、一樹を売らない。
蒼依が欲するのは、山姥に成らない気と、人間としての生活だ。
一樹は式神契約によって、B級上位の蒼依に十全な気を与えている。それどころか、神域を作れば気を吸わなくても生きていけるという解決策も、探し出した。
すでに欲するものを受け取っている蒼依には、買収できる余地が無い。
そもそも蒼依は、夫の裏切りに激怒したイザナミが生み出した分体だ。そんな蒼依が、一樹が約束を破っていないにも拘わらず自分から裏切るなど、存在の自己否定である。
沙羅は、死ぬ直前を一樹に救われ、右手と左足も再生されている。
その後の沙羅の人生は、命を救われて、手足を再生されたことで得たものだ。より良い条件で沙羅を買収するなど、蒼依以上に不可能なのである。
そして沙羅は、一樹が助けた五鬼童一族の同意も得て、一樹の下へ来た。
沙羅が一樹を裏切れば、千年以上も積み上げてきた『五鬼童家は義理を果たす』実績が揺らぐ。外堀も完全に埋まっており、家族という外側から崩すことも出来ない。
だからこそ一樹は、同行者を蒼依と沙羅に限定した。
結月であれば情報を制御できないが、蒼依と沙羅は一樹に不利益なことをしない。
手に入れた2枚の風切羽を懐に仕舞い込んだ一樹は、適当な説明と共に指示を出した。
「流石に11枚は、貰えなかった。次の白鷹も2枚になりそうだから、沙羅は五鬼童に連絡して、2種類は自力で集めてくれと伝えてくれ」
「分かりました。鵺は2体以上いますから、大丈夫だと思います」
一樹が説明した『貰えなかった』に関しては、事実だ。
だが誤解を与えないように丁寧な説明をするならば、『望みが過大だから貰えなかった』ではなく、『違和感を持たれないために貰えなかった』になる。
一樹が過去を公開することに、意味は無い。むしろ余計な気を使われたり、地蔵菩薩の神気を利用しようとされたりと、ろくなことにならないのが目に見えている。
故に一樹は、嘯いた。
「仏の慈悲が大きくて、助かったな」
かくして一行は、鳥海山で霊鳥の風切羽を手に入れた。
























