98話 鳥海山
「白馬大雪渓に登ったときよりは、楽な道程ですね」
「それはそうだろう。あっちは道じゃなかった」
白馬大雪渓は、香苗に使役させる雪女を探しに行った時に登った山だ。
あちらは6月で、こちらは8月なので、どちらも登山に困難な時期ではない。だが標高、舗装された道、距離などの諸条件から、鳥海山のほうが登山は楽だ。
もちろん比較しての話であり、一般人が易々と出来るわけではない。
なぜなら大前提として、どちらも妖怪の領域にある。
一般人が登山しようものならば、日本中のどこにでもいる鬼達が複数で襲ってきて、あっと言う間に鬼達の胃の中に納まってしまう。
もちろん一樹達の場合は、いまさら鬼如きで道程は遮られないが。
「カァー、カァー」
遠い空から、八咫烏達の鳴き声が聞こえてくる。
その鳴き声に、鬼が絶叫マシーンで落ちていくような悲鳴も混ざる。
鬼達は、地域ごとに言語に込める意味が異なる研究などもあるが、どこで聞いても綺麗な声では無いので、一樹は敢えて聞こえない振りをした。
D級以下、すなわち小鬼から中鬼までの鬼達は、狩ったほうが良いのだ。
残しておいても、銃弾で倒せるために、下位の陰陽師に依頼は発生しない。八咫烏達が狩ったところで、下位の陰陽師達から仕事を奪うことにはならない。
自衛隊や警察の仕事は減らすが、彼らは鬼を減らされても困らない。
近隣住民も、鬼達から受ける人的、物的な被害が減る。
そのため鬼が、安全装置の付いていない絶叫マシーンで飛んでいくのは、人間側にとっては良いことなのである。
「飛んで移動できたら、便利だろうけどなぁ」
高山植物や花々が咲き乱れる斜面を登りながら、一樹は溜息を吐いた。
妖怪と争う一樹は、戦闘時には身体を呪力で強化できる。だが元の素体は、際だって優れているわけではない。
一樹は成長期に、健康的な食生活からは程遠かった。
そんな一樹の歩行ペースは、山姫の蒼依や、鬼神と大天狗の子孫である沙羅に比べると、遥かに遅い。
男性のペースに、か弱い女性を付き合わせて苦しい思いをさせるのではない点ではマシだ。
それでも現状に満足出来ているわけではない。
「一人ずつでしたら、抱えて飛べますよ」
「いや、急いでいないから大丈夫だ」
一樹は首を横に振って、沙羅の提案を断った。
そもそも自分の歩くペースが遅くて、蒼依や沙羅に速度を合わせてもらっている現状に不満を抱いたのだ。沙羅に運んで貰うのは、なおさら情けない話であろう。
それに沙羅は、元来の飛行生物ではない。
五鬼童家の翼は、背中に生えているわけではなく、必要時に呪力で生み出している。八大天狗の血、五鬼童が研鑽してきた修法の習得、相応の呪力が合わさって、飛べるのだ。
飛行能力は、鳥には遥かに及ばないだろう。
五鬼童家当主の義一郎が獅子鬼に撃墜された際は、急降下の最中に現われた獅子鬼に不意を打たれたが、義一郎が鳥であれば避けられたかもしれない。
自分の体重よりも重い荷物を持たせるのは、気が引けた。
――沙羅に運んで貰うのは、非常時に限ったほうが良いな。
様々な観点から依存を避けた一樹は、断った後に話題を変えた。
「それよりも五鬼童家の風切羽探しは、どんな状況か知っているか」
羽団扇を作成するための風切羽探しは、一樹達の他に、五鬼童家も行っている。
従事者は、五鬼童本家のB級上位から下位である三兄妹。
分家からは、B級上位である沙羅の父、C級上位の紫苑、B級中位の凪紗。
両家の戦力を合わせても、大森山の怪鳥退治は止めたほうが良いが、B級妖怪が相手であれば、戦力としては十二分だ。
「福井県敦賀市の鵺を退治しに行ったようです」
鵺とは、『平家物語』や『宇治拾遺物語』など、様々な文献に登場する妖怪だ。
知名度は非常に高く、大阪港の紋章にもなっている。
その姿は、頭が猿、胴体が狸、四肢が虎、尾が蛇で記されることが多い。鳴き声は、トラツグミという鳥に似ており、トラツグミは鵺鳥とも呼ばれる。
だが鵺は、身体が怪鳥になっている姿も、少なからず確認されている。
二条天皇(在位1143年から1165年)の時代、源頼政が退治を命じられた記録があるが、文献には「鵺という化鳥」と記されている。そもそも鵺は、夜の鳥と書いて鵺だ。
「鵺か。胴体が狸の姿と、怪鳥の姿が居るな」
福井県敦賀市の鵺も、身体が鳥の姿だ。
福井県敦賀郡東浦村赤崎には、人喰鵺が生息していた。そして人喰鵺を怖れた人々は、神仏に祈願して追い払ってもらったそうである。
その祝いとして、赤崎の八幡神社で『神事始め』という祭りを始めた。
食材を鵺に見立てて、怪鳥の胴に二股大根、羽に切り昆布二枚、足に干しワラビ2本、臓腑に煮た大豆と卵形の餅を御神酒と共に供えて、祈祷した後に直会を行ったのである。
神事始めは、地元で続けられてきた『山の神講』と合一されたが、今も続けられている。
だが敦賀市の鵺は、追い払っただけで、殺したわけではない。
また、同じ中部地方の長野県上伊那郡中川村にも、鳥の鵺によって村人が定期的に殺されていた伝承が残る。
鳥の姿である鵺ならば、当然ながら風切羽も手に入る。
「鵺がB級以上の力を持っているのか。それが最大の問題だな」
「鵺退治は、京にいた各時代の天皇が、源一族に依頼しています。京にいた陰陽師では倒せなかったようなので、B級だと考えたようです」
「なるほど」
大阪港の紋章を選定する際、参考とした西洋のグリフォンは、C級と分類される。
鵺と近い体格のマンティコアも、グリフォンと同じく、C級に分類される。
姿が似通った魔物の強さを考えれば、鵺はC級の心配がある。
だがC級ならば、流石に京に居た当時の陰陽師が倒せるだろう。そのため鵺がB級の強さであるのは、概ね妥当だと考えられた。
――B級の妖怪の羽根であれば、五鬼童家も何種類か集められるな。
鵺は、異なる個体が様々な時代に目撃されている。
そのため大森山の怪鳥のように、単独で変化したでのはなく、種族として生息している。その上、鳥に比べると飛行能力も低い。五鬼童家であれば、姿を見つければ追い付ける。
様々な特性を併せ持つ鵺からは、普遍である土行の風切羽しか手に入らないであろう欠点もある。それでも五鬼童家が、相応に風切羽を集められると踏んだ一樹は、自身が集めるハードルを下げた。
「集める枚数は、減っても大丈夫かな。神仏を相手に11枚も頼むのは、気が引けていた」
薬師如来に要求することに関しては、一樹は全く気にしていない。多少なりとも気にしたのは、裁判とは無関係な虚空蔵菩薩に対してだけだ。
だが薬師如来に11枚を要求できる根拠も、周囲に説明できない。
そのため一樹は、神仏に対しては沙羅の2枚分だけを要求して、その代わりに質を上げろとか、五行の循環を滞らせないようにしろとかを訴えようと考えた。
「神仏の霊鳥と鵺は、強さも違いそうですね」
蒼依の指摘は、肯定と否定の何れでもない。
事実を言語化して一樹に伝えることで、判断を確認するものだった。
対する一樹は、持論を述べた。
「集めた素材に見合う力を得るのは、道理だ」
大前提として、沙羅の分は、一樹が自分で集めることになっている。
余分に採れた風切羽は提供して、予備の2本目も作成してもらう。
そして一樹が提供した素材と五鬼童家が集めた物を使って、五鬼童家の分を作成する。五鬼童家が集めた素材は、もちろん五鬼童家のものだ。
そのような約束になっている。
「うちと五鬼童家は、別々の事務所だ。差は付いて良い」
A級である一樹の事務所が、現在A級不在の五鬼童に妖怪退治で負けるのも問題だ。
仏2尊分の差は付けようと決意した一樹は、登山を再開した。
次第に口数が少なくなり、ついには無言となる。
B級の怪鳥は、活動するエネルギーを保ち、種族であれば子育ても必要になる。そのためには神気を保つための地脈、あるいは他の妖怪という餌と広い土地が要る。
それらは人間が居る場所では得られないので、怪鳥達は自ずと、人が住まない場所に住む。
妖怪の領域にある鳥海山は、B級以上の素材を得る最低条件だとも考えられた。
――天狗でなければ、素材は集められないよな。
羽団扇が天狗の法具であることに、一樹は大いに得心した。
そんな一樹の視線の彼方に、天空の雲を映す鳥海湖の湖面が見えてきた。
























