97話 如来を運んだ霊鳥
春日邸に戻った翌日の早朝。
一樹が『金文の霊鳥』と『白鷹』の羽根を得る考えを伝えたところ、結月が近くまで車で送ってくれることとなった。
「送迎して頂いて、助かります」
「お婿さんとの仲だから」
「違います」
一樹が否定すると、助手席に乗っている沙羅も加勢した。
「私と一緒にB級に上がった静岡県の陰陽師、大学4年生で、結月さんの1学年下ですよ」
獅子鬼との戦い後、協会は慌ててB級陰陽師を増員した。
沙羅や凪紗、それに昇格時期を調整していた陰陽師達が一気に昇格している。
静岡県の陰陽師も、その1人だ。
「そういえば、背の高い人が居たな。細マッチョだったけど」
五鬼童本家の次男である義友は、ガッシリした体格だ。
それに対して、静岡県の新しいB級陰陽師は細マッチョでタイプは異なる。
結月の好みに合うのかについて、一樹が運転する結月の様子を窺ったところ、結月は呆気なく答えた。
「駄目よ。康隆さんは、静岡県の前・統括陰陽師だった堀河陰陽師の息子さん。お父様が鬼に殺されて、復讐を考えていたわ。でも、復讐の対象となる鬼って、どんな個体かしら」
結月に問い返された一樹が思い浮かべたのは、静岡県で復活前だった魔王ではなく、配下として活動していたA級中位の羅刹だ。
何しろ回収された花咲陰陽師の遺体に染み付いていた気と、前統括が殺されていた現場に染み付いていた気が一致している。
直接的に手を下したのかは定かではないが、無関係では有り得ない。
一樹であれば、単体の羅刹ならば殺せる。
羅刹が復讐の対象であったならば、地獄の獄卒としてではなく、囚人として無間地獄に落としてやるだろう。
――落ち着け、俺。
穏やかならざる感情が芽生えかけた一樹は、自身に言い聞かせて心を落ち着けた。
そんな羅刹は、獅子鬼の傍に控えている。
獅子鬼の傍に居れば、倒されそうになれば獅子鬼が加勢するだろうし、不利になれば蜃の吐く気で姿を眩ませられる。
一樹であれば、巡視船の遠距離攻撃で不意を突けば可能かもしれない。
だがB級陰陽師では、刺し違えてでもおそらく無理だ。
「願掛けで、何かを断っているのですか」
神仏に願掛けするに際して、何らかを断つ『断ち物』を行えば、祈願の効力が増す。
身を清めるために、冷水を浴びる水垢離をする姿は、世間でもよく知られる。
もっと強い効果を得たいならば、欲を断つ女断ち、肉断ちなども行う。復讐目的の願掛けであれば、それによって神仏に祈願が届き、助力を得られて呪力が大きく増すだろう。
「多分、やっていたんじゃないかしら。明らかに強くなっていたし」
本人が羅刹を殺した場合、宿っていた力が多少は残る。
成就による霊魂の昇華で、宿っていた力を一緒に取り込めるからだ。
他人が羅刹を殺した場合、霊魂の昇華が無いので、力は元の神仏に返る。
強くも弱くもならないが、本来の願いは叶っている。
羅刹を殺すことを諦めた場合、元より力が落ちる。
得ていた力が神仏に返って、霊魂も弱まるからだ。
現状は、ドーピングに近い状態だ。そして結月と結婚するのは、断ち物を止めることであり、力が落ちることを意味する。
すなわち結月が求める『B級以上』の条件は、満たさなくなる。
「それは残念ですね」
「問題ないわ。だって、A級のお婿さんがいるのだから」
「どこにいるんですかね」
「すぐ傍」
一樹は隣に座る蒼依に、生け贄の如く、自身の左手を差し出した。
すると掴まれた左手は、蒼依の右の太ももに乗せられて、上から押さえられている。
一樹の左手は、猫の手で身体を押さえられるネズミのような状況となった。
結月の発言に関して、一樹は何ら悪くない。
だが忘れてはならないのが、蒼依が女神イザナミの分体であることだ。夫に逃げられたイザナミは、1日に1000人を殺すと宣言している。
夫のイザナギは、産屋を建てて1日1500人を産ませると言い返したが、そこは妻に謝る場面ではないだろうか。
イザナギが火に油を注いだからこそ、日本中に山姥が現われたのだ。
怒っている女性を挑発して、一体どうするのか。世界平和のためには、取り敢えず謝っておくべきである。
「クワッ?」
キャリーバックの中にいる八咫烏達が、不可解そうな鳴き声を上げた。
一樹が勝手に翻訳するなら「パパ、ママ、どうして喧嘩しているの?」だろうか。あるいは畜生らしく、「とりあえず押し倒しちゃえば?」かもしれない。
なお現在の一樹と蒼依は、結月が運転する車の後部座席である。
八咫烏達の鳴き声を聞いた蒼依は、若干ながら圧を弱めた。
その間に一樹は、慌てて話題を逸らす。
「八咫烏達まで乗せて頂いて、すみません。水行で水浴びをしますが、石鹸などは使わないので、臭いがありまして……」
「車は消耗品だから、気にしないで良いわよ」
「それなら良いのですが」
今回の依頼は宇賀が出しており、発生する経費は宇賀が支払う。
そして宇賀は、素材の差し引きで、自分が損を出さないように調整できる。
そもそも協会にとって必要なことなので、宇賀が本部に請求したならば、1兆円以上を溜め込んでいる内部留保からも出せる。
「必要な費用は、宇賀様に請求して下さい。ご助力を頂いた旨、伝えておきますので」
「ええ、それは嬉しいわ」
宇賀の歓心を買えるのは、陰陽大家にとって、車一台よりも価値が高い。
それで心の整理を付けた一樹は、車外の風景を眺めた。
現在向かっているのは、山形県と秋田県の南北にまたがる鳥海山だ。
麓にある飽海郡遊佐町吹浦の社には、目的とする金文の霊鳥に関する伝承が残る。
『大日本国大物忌明神縁起』によれば、天地の混濁から現われた大鳥が、両翼に2つの卵を抱えながら天竺から百済を経て、日本へ飛来したという。
2つの卵のうち、右からは薬師如来、左からは日光・月光菩薩が生まれた。
両神を運んだ鳥は、鳥海湖に沈み、それが両県にまたがる鳥海山の名前の由来になった。
そして江戸時代に成立した『鳥海山和讃縁起』(1817年)によれば、鳥海湖の畔に、クジャクのような姿で、翼に金文のある霊鳥が姿を見せるという。
すなわち金文の霊鳥は、薬師如来と日光・月光菩薩を運んだと考えられる。
そのような存在であれば、如来や菩薩から流れ込む力は、大森山の怪鳥どころではない。一樹のような特殊な事情によるS級ではあるまいが、A級には達しているだろう。
なおクジャクには、風切羽がある。
「薬師如来は、現世で願いを叶えてくれる仏です。日光・月光菩薩は、薬師如来を補佐して、苦しみの闇を消す。そんな三仏を合わせて、薬師三尊と呼ばれています。それなら、魔王が現われたので抜けた羽根を下さいと言えば、分けて貰えないかと」
それが一樹の考えであった。
地蔵菩薩の神気で語り掛ければ、祈り自体は届くだろう。
そして一樹には、羽根を要求できる確信がある。なぜなら薬師如来は、地獄で7回審判を行う仏の一つだからだ。
初七日、秦広王(不動明王)が、生前の殺生を調べる。
二七日、初江王(釈迦如来)が、生前の盗みを調べる。
三七日、宋帝王(文殊菩薩)が、生前の不貞を調べる。
四七日、五官王(普賢菩薩)が、生前の嘘を調べる。
五七日、閻魔王(地蔵菩薩)が、引き継いだ審理の嘘や誤魔化しを見破る。
六七日、変成王(弥勒菩薩)が、審判に基づき、生まれ変わる世界を決定する。
七七日、泰山王(薬師如来)が、前六王の決定に基づき、結審する。
百日目、平等王(観音菩薩)が、仏教の本質を教える。
二年目、都市王(勢至菩薩)が、法華経、信仰、戒律を教える。
三年目、五道転輪王(阿弥陀如来)が、悟りの開き方を教える。
このうち閻魔大王は、浄玻璃鏡という死者の生前の善悪の行為を映し出す鏡を用いて、誤審を無くす役目を負う。肉体の破片が混ざって取り違えられていた一樹は、閻魔大王の浄玻璃鏡によって、取り違えの冤罪を晴らされるはずだった。
六七日以降は、閻魔大王の審判に基づいて次の世界を決定し、結審し、説法する役割だ。
――手落ちがあったのは閻魔大王だが、薬師如来も冤罪の結審を行った。
如来は、衆生済度といって、苦しみから救済する立場にある。
そのため一樹に苦しみを与えた立場の薬師如来は、一樹の求めに応じて助けなければ、一樹に対しては『衆生を苦しめただけ』となり、如来の立場を損なう。
もちろん救済した数のほうが、遥かに多いだろう。たった一人を苦しめただけで薬師如来が降格して、薬師菩薩に落ちることは考えられない。
だが如来としての立場には、ケチが付く。
そのため薬師如来は、自己を補完するために、羽根くらいポンと渡すだろう。
虚空蔵菩薩は裁判と無関係だが、一樹には手に入る確信がある。
なぜなら虚空蔵菩薩と地蔵菩薩は、空と地で、本来は対として祀られていた存在なのだ。
虚空蔵とは、虚空(宇宙)と蔵(恵みを与える宝)だ。
地蔵とは、地(大地)と蔵(恵みを与える宝)だ。
虚空蔵菩薩にとって一樹の件は、相方である地蔵菩薩の失態に加えて、上位の如来が三尊、同格の菩薩が地蔵菩薩を含めて六尊も関わっている。
一樹に対して衆生済度を行わないならば、上位や同格、相方への意図を延々と疑われる。
数多存在するアリの如き人間を相手に、そのように面倒くさいことを抱え込みたくないだろう。「私は他意などありません」と証明するためにも、羽根を渡すに決まっている。
――虚空蔵菩薩も、風切羽をくれるだろう。
そんな一樹の特殊すぎる事情を知らない結月も、人間が如来や菩薩に願うのは昔から続けられてきた行為で、危険なわけでもないので、反対意見は述べなかった。
蒼依と沙羅も、反対しないのは似たり寄ったりの理由だろう。
ルートは鳥海山の西側にある吹浦口から、見晴台、河原宿、御浜へと向かう。
御浜の脇には鳥海湖があって、そこが目的地だ。
小鬼などが脅威ではないのなら、昇りは1時間半で、下りはさらに短くなる。
だが肝心の羽根については、どれだけ時間を要するのか分からない。そのため道路が敷かれている登山口で分かれて、遅くなればキャンプを行い、結月には迎えを依頼する形となった。
「祈願は、龍神の神気を最も宿す私が行います。蒼依と沙羅は龍気を宿しているので、連れて行きます。結月さんは、すみませんが……帰りも車をお願いします」
「じーっ」
「帰りに連絡しますので」
太平登山口に着いた一樹は、結月と分かれて山に踏み入った。
























