01話 プロローグ
『お前は、人違いで地獄に墜ちた』
晴れ渡った大空とは、こんな姿だったのか。
それが記憶の片隅にすら残らないほど、無限の責め苦を受け続けた男は、生まれて初めて目にしたかのように、呆然と青空を眺め続けた。
『お前は、山中で逃げていた女を助け、それを追った男と揉み合いになり、共に崖から転落した。そして肉体の破片が混ざり、魂の取り違えが起きた』
男の空虚となった心に、裁定者の言葉が通り過ぎていく。
『取り違えた相手は、大量の拉致監禁、強姦、殺人などを行った。本来は、その者が大焦熱地獄に墜ちるはずだった。そしてお前自身は、地獄に墜ちる罪を犯していなかった』
大焦熱地獄とは、八大地獄で最下層とされる無間地獄の1つ上である。
堕ちる要件は、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒、犯持戒人を、全て破る事。
すなわち『殺人、窃盗、配偶者では無い者との情事、嘘等、飲酒、尼僧ないし童女への強姦』を全て行った者が堕とされる地獄である。
炎の刀で体の皮を剥ぎとられ、沸騰した熱鉄を体に注がれる世界だ。1つ上の地獄である焦熱地獄の10倍の責め苦を受ける。
責め苦を受ける期間は、43京6551兆6800億年となる。
既に男は、どれだけ焼かれ続けたのか分からなくなっていた。その魂は、とうの昔に擦り切れている。
そんな壊れた空虚な魂に、裁定者は告げる。
『お前は、極楽浄土に行くはずだったが、大焦熱地獄で穢れを浴び過ぎた。故に、輪廻転生で浄化する』
「…………ころして……くれ、おまえのせい……だから」
男は残った魂の大部分を削って、魂を削り出すように訴えかけた。
はたして裁定者は、頭を振って、否と告げる。
『それは出来ない』
何故、出来ないのか。
それすらも問う気力を失った男は、ただひたすら絶望の色に染まった。
最早、何をしても抵抗しなさそうな男に向かい、裁定者は告げる。
『魂に染み込んだ穢れを抑え込むため、充分な量の気を与える。そして来世に限り、お前の記憶も残す』
なぜ苦しみの記憶を残させるのだ、と、男は心で訴えた。
承諾する様子の無い男に向かって、裁定者は説明を継ぎ足す。
『輪廻転生した先は、妖怪変化が蔓延る世界だ。高い呪力は、技能となる。そして邪を払えば、その分だけ魂の浄化も早まるだろう』
全てが裁定者の都合ではないか、と、男は不満を抱いた。
記憶を残して生き続けさせるのは、苦しみだ。
極楽浄土に行けるはずが、なぜ再び、苦しみを与えられるのだと。
だが裁定者は、厳格な表情を保ち続け、決定を覆す様子は見せない。
裁定者は、裁かれる側を対等だとは見なしていないのだろう。
「…………ゆるす……かわりに、にばいに」
不平を鳴らす無意味さを悟った男は、せめてもの抵抗として、与えられる気の量を倍化するように求めた。
他に何を求められるのか、見当も付かなかったためだ。
はたして裁定者は、男の求めに応じた。
『よかろう。本来は与えられぬ力だが、私もお前を赦そう』
赦されるような罪は犯していない。
むしろ裁定者が裁かれるべきだ。
そのように男は思ったが、その訴えが無意味だとも理解していた。
アリに人権を認める人間は居ない。男と裁定者の関係は、まさにアリと人間だ。
管理する地獄に、罪が異なるアリが混ざったから、元の世界に戻す。
その際、大焦熱地獄で浴びた穢れを撒き散らして元の世界に影響が出ないように、気を補充して消毒しておく。
その程度の感覚なのだろうと、理解せざるを得なかった。
せめて3倍や、4倍と言えば良かった。
そのように男は思ったが、二文字の『さん』や『よん』を口にする気力は、発声の時点で既に残っていなかった。
ならば5倍の『ご』と言えば良かったが、それを考える力も無かった。
要求が通り、安堵して気が抜けた男は、そこでようやく力尽きた。