34 必ず誰かに届くはず
あれから数年が経った。
俺は教育実習生として、高台に移転した母校を訪れていた。
時々、自分がカラスだった時のことを思い出して、街中のカラスについ話しかけそうになることもあるが、今では立派な人間に戻っている。
とはいえ、何かしらムカつくと、うっかりアホーと鳴いてしまいそうになるのは、ここだけの秘密だ。
「どうですか。少しは慣れましたか」
声をかけてきたのは物理の先生だ。俺が配属されたクラスの担任をしている。定年間近のご老人で、銀縁眼鏡とフサフサの白髪が、古の錬金術師みたいな雰囲気の人だった。
「まぁ、なんとか」
無精髭がないとまったく雰囲気が違って、最初は気がつかなかったが、やたらと機械いじりが得意で、物理部顧問として学生と一緒にロボットを作っているとか、亡くなった奥さんが音楽の先生をしていたとかの話を聞くうちに、もしかしたら、あのボサボサじいさんなのかもしれないと思う様になった。
だが、「実は俺、カラスでした」なんて挨拶をするわけにもいかないので黙っているが、こちらの世界に戻ってきてからは、先生としてだけでなく、人生の先輩として、いろいろ教えてもらってお世話になっている。本当に頭が上がらない。あっちの世界で、ボサボサ頭だからって無駄につついたり、余計なことをしなくてよかった。
「授業なんてのはね、ぼちぼちでいいんですよ。世の中に完璧なものなんて、どこにもないんですから。とっかかりさえ与えたら、本当に興味があれば、子供は自分で学んで成長しますからね」
「そう……なんですかね」
教わる立場から、教える立場になって、ようやく見えたことがある。
教師だって、大人だって、ただの人間だということだ。
あんなに立派に見えていた教師が、実際に自分がなってみて痛感するのは、ただの学生が、たかだか数週間の教育実習とやらで、急にスーパー教師になれるわけがないという、当たり前の事実にぶち当たるということだ。
RPGみたいに神殿で職業をチェンジして、パラメーターがパワーアップするみたいなわけにはいかない。
教師という名札をつけたところで、中身は何も変わらないのだから当然だ。
教師は聖人じゃない。
嫌いなものだってある。しんどいことだってある。
それでもみんな必死に生きているのは、教師も生徒も同じだったのだ。
小さかった頃は、そんなことも知らなかった。
きっと皆も大人になって、いろんな職業にクラスチェンジした時に、初めてその事実を知ることになるのだろう。
だが同じ子供時代を過ごしたはずなのに、大人になると、あれだけ子供の頃に悩んでいたことも、大人や教師の目からすれば、些細なことにしか見えないこともある。
少しだけ友達よりテストの点数が負けた。
コンマ数秒だけ、自分の方が足が遅かった。
ちょっとだけあの子より目が小さい、背が低い。
同じことをしても自分ばっかり怒られる。
褒められるのはえこひいきされてるあの子だけ。
そんな些細な日常が、子供にとっては、世界のすべてだったりもする。
なのに大人は忘れてしまう。
そのぐらいたいしたことないのにって、見過ごしてしまう。
成長することで手に入れる視点もあれば、失う視点もあるということだろう。
だからこそ、いろんな視点を体験し、蓄積することが大事になってくる。
自分だけが、この世界に存在しているわけじゃない。
他人の気持ちが、よくわからないことなんてことは、いくらでもある。
先輩のように、俺や家族の前ではニコニコ笑っていた人が、裏では泣いてることもあるし、その逆もあるのだから。
俺が知らぬ間に、先輩の明日を作っていたように、ほんの些細なことが、誰かの人生を救えることもある。
自分が弱っている時は、誰かに寄り添ってもらえばいいし、誰かが弱っている時は、手を差し伸べればいい。
たとえ近くに、自分を救ってくれる人がいなくても、物語が救ってくれることもあるかもしれない。
どこにいたって、いつの時代でも関係ない。
物語の世界から差し伸べられる手は、必ず誰かに届くはずだ。
この世界には、物語がごまんと転がっている。
物語はいくらでも利用してやればいい。
辛いことは肩代わりしてもらって、嬉しいことはお裾分けしてもらえばいい。
きっと自分を救ってくれる物語が、どこかに一つぐらいは、落ちているものだ。
ただし、それが、不完全な白い本のような、人の心を食い物にする本でないことを、祈るしかない。
教室に向かっていると、昼休みを終えるチャイムが鳴った。
図書室から出てきた女子生徒と、廊下ですれ違う。噂話でやけに盛り上がっているようだ。
「やっぱり、昔、うちの学校に、読んだら行方不明になる、白い本があったんだって」
「ただの都市伝説みたいなやつでしょ。嘘に決まってんじゃん」
「でも、その話、本当にあったんだよ。『異世界放課後』だけじゃなくて、『優しくて意地悪な本は、君を呼んだ。』っていうやつにも書いてあるもん」
「いや、だからそれ、小説でしょ」
楽しそうに笑っている女子生徒のうち、一番小柄な子が、あの『犬のようなもの』を助けようとして、結局壊してしまった少女に、少しだけ面影が似ていた。
名前も知らない。もちろん俺が、カラスだったなんて言っても、信じてもらえないだろうから、確かめようもない。
だが、もしあの子がすっかり元気になって、笑っているのなら、それでいい。
俺だって、少しずつだけど、笑えるようになってきた。いつか、ほとんど意識しなくても、よくなる日がくるのだろうか。それはそれで寂しいけれど。
最近、あっちの世界での出来事を少しずつ文章にして、「白野カラス」名義で、ネットに投稿し始めている。いつか先輩みたいに、本にできたらなんて考えてるわけじゃないけど、完成したら、先輩の携帯にメールで送りつけてやろうと思う。
でも、先輩のお母さんがけじめをつけるためと、先輩の携帯はデータを保存してから、そろそろ解約するそうだから、どうせエラーになって届かないかもしれないけれど。「ヘッタクソ」って、返事が返ってきたら、それはそれでホラーだな。まぁ、ないか。
とりあえず、この世界に戻ってきた俺たちが、一歩ずつ前に進むことで、先輩も、白髪少年も、おっさんも、みんな喜んでいてくれていたらいいな。
そう思いながら、教室の扉を開けた。